年間第22主日(A年)福音書の黙想

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(マタイ16・24ー25)。

年間第22主日(A年)の福音朗読ではマタイによる福音書16章21ー27節が読まれます。朗読箇所に関連する聖ホセマリアの言葉を紹介します(説教より抜粋)。


キリストの教えは実に明白です。いつものように福音書を繙いてみましょう。マタイ福音書第十一章を開くと、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」[1]という言葉が目に入ります。お分かりでしょうか。私たちは唯一の模範であるイエスに教わらなければなりません。躓きや戸惑いを恐れずに前進したいのなら、主の歩まれた道を歩むほかはない。主のみ跡を一歩一歩踏みしめ、謙遜で忍耐強い聖心のうちに入り込み、主の命令と愛の泉から力を汲みとる。一言でいえば、イエスに同化するのです。兄弟である人々の中にあって、本当に<もう一人のキリスト>であると言えるようになるために努力しなければなりません。

ごまかしでないことを確かめるために、マタイ福音書の他の箇所を読んでみましょう。第十六章を見ると、主は一層明確に教えておられます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」[2]。神への道は、放棄の道、犠牲と依託の道です。しかし、悲しみの道でも気弱な人の道でもありません。

ベツレヘムのまぐさ桶からカルワリオの玉座に至るまで、道々キリストがお示しになった模範にもう一度目をやり、飢えや渇き、疲れや暑さ、睡魔や虐待、無理解や涙など、あらゆる種類の窮乏を忍び、自己を放棄する主、そして、全人類の救いを思って喜ぶ主について黙想しましょう。「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、ご自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」[3]。このように呼びかけた聖パウロの言葉を、心と精神に刻み込んでいただきたい。何度も黙想し、実行に移す努力をして欲しいのです。

イエスは人々への愛ゆえに自らを燔祭としてお捧げになった。キリストの弟子であり神の愛し子、十字架の値で買われたあなたは、自らを捨てる覚悟をしなければならない。どのような状況にあっても、決して利己心や自己満足に陥ってはなりません。単刀直入に言えば、道楽者のような愚かな振舞いは許されないということです。「人々の尊敬を勝ち取るためにのみ汲々とし、人望を集め評判を高めんと熱望し、あるいは、愉快な生活だけを追い求めるなら、あなたは道に迷っている。苦しく、狭く、険しい道を通過した者にのみ天の国に入ることが許され、永遠に主と共に憩い、そして君臨することができるのだ」[4]

進んで十字架を担う決心が必要です。万一それができないのなら、口ではキリストに倣うと言いながら、行いではそれを否定することになり、師と親密に交わることも真実に主を愛することもできなくなります。この点についてなるべく早く、しかも深く理解しなければなりません。わがままや虚栄心を満足させ、安楽や歓心を誘う物を、自発的に捨てなければ、主の傍を歩むことはできない。犠牲という優雅な塩で味付けをしない日々があってはならないのです。万一、そんな生活は不幸だと思うようなことがあっても、そのような思いはすぐに捨ててください。自分の十字架を雄々しく担わず、自らに打ち勝つ努力もしないで、激情や軽薄さに引きずられてその支配に任せるなら、たとえ幸せだと思ったとしても、実に哀れとしか言いようがありません。

きっと他の黙想でお聞きになったことがあるでしょう。スペインの黄金時代に活躍した作家が見たという夢を思い出します。その作家の前には二本の道が開かれている。一方の道は広々とした街道で、気の利いた店や宿がたくさん並び、長閑で愉快な道中を約束している。人々は馬や車に揺られながら音楽を楽しみ、声高に笑いつつ歩みを進める。しかし、人々の享楽はうわべだけで儚いものです。その先には底なしの淵が待ちかまえているからです。これこそ世俗的で、常に自分の満足だけを追い求める人々の歩む道です。中味のない喜びを空々しく見せびらかしているのみ。彼らは、あらゆる安楽と快楽を飽くことなく追い求める。悲しみ、犠牲、放棄を極度に恐れ、キリストの十字架の意義を知ろうともせず、十字架など馬鹿げたことだと考える。実は、狂っているのは彼らなのです。妬みや暴飲暴食、快楽の奴隷であり、遂にはどうにもならなくなる。やがて、この世と永遠の幸福を無意味なガラクタのために失ってしまったことに気づくでしょう。主の警句を聴かせたいものです。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」[5]

夢の中にもう一本の道が見えます。これはとても狭く、とうてい馬の背に乗って通ることのできない急勾配の道。徒歩以外にすべはない。小石を踏みしめ、岩を避けながら、心静かに。所によっては服だけでなく肌も傷を受ける。しかし、その先には、花園、永遠の幸せ、天国が待っている。これは自ら遜る聖なる人々、イエス・キリストを愛するがゆえに喜んで隣人の犠牲になることのできる人々の道、どんなに重くても、心を込めて十字架を担って進む、登り坂を厭わない人々の道です。万一、重さに打ちひしがれて倒れても、必ず起き上がって歩みを続け得ることを知る人、自分の力のもとはキリストであることを知る人の道なのです。

たとえ躓いても、辛い失敗の後に再び立ち上がり、志気を新たにして前進する望みを持つことができるなら、恐れるに足りません。聖人とは、失敗しない人ではなく、謙遜と聖なる頑固さに支えられて、失敗しても必ず立ち上がる人であることを、忘れないで欲しい。箴言が、「義人は七度たおれる」[6]というくらいですから、哀れな私たちが、自分の惨めさや躓きに驚いたり、意気消沈したりすべきではありません。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」[7]。こう約束してくださった御者に強さを求めるなら、弛まず前進することができるからです。ありがたいことに、「あなたはわたしの神、わたしの砦」[8]です。あなたのみが、常に私の砦、私の避難所、私の支えでありますから。

本気で内的生活に進歩したいのなら、謙遜になりなさい。そして、絶えず、信頼しきって、主キリストの助けと、主の母であり私たちの母でもある聖マリアの助けを求めるのです。この前の過失が与えた傷がどんなに痛もうとも、穏やかな心と新たな心でその十字架を抱きしめ、主に申し上げましょう。「主よ、あなたの助けさえあれば、戦いを続けることができるでしょう。急な坂や、日々の仕事の外見上の単調さ、道中の茨や小石を恐れずに、あなたの招きに忠実に応えたいと思います。あなたは慈しみ深い心で私を助けてくださいますから、やがて、永久に続く喜びと愛、永遠の幸せを見出すことができるでしょう」。

(ホセマリア・エスクリバー『神の朋友』128ー131)


[1] マタイ11・29

[2] マタイ16・24

[3] エフェソ5・1ー2

[4] マカリオス『説教』12,5 (PG 34, 559)

[5] マタイ16・25ー26

[6] 箴言24・16参照

[7] マタイ11・28

[8] 詩編42・2