年間第14主日(A年)福音書の黙想

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11・28ー30)。

年間第14主日(A年)の福音朗読ではマタイによる福音書11章25ー30節が読まれます。マタイ11・28ー30に関連する聖ホセマリアの言葉を紹介します(説教より抜粋)。聖人は「キリストに倣う」「キリストの謙遜に学ぶ」「キリストの軛を負う」という観点から福音書の言葉を黙想します。

キリストに倣う

キリストの教えは実に明白です。いつものように福音書を繙いてみましょう。マタイ福音書第十一章を開くと、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」[1]という言葉が目に入ります。お分かりでしょうか。私たちは唯一の模範であるイエスに教わらなければなりません。躓きや戸惑いを恐れずに前進したいのなら、主の歩まれた道を歩むほかはない。主のみ跡を一歩一歩踏みしめ、謙遜で忍耐強い聖心のうちに入り込み、主の命令と愛の泉から力を汲みとる。一言でいえば、イエスに同化するのです。兄弟である人々の中にあって、本当に<もう一人のキリスト>であると言えるようになるために努力しなければなりません。

ごまかしでないことを確かめるために、マタイ福音書の他の箇所を読んでみましょう。第十六章を見ると、主は一層明確に教えておられます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」[2]。神への道は、放棄の道、犠牲と依託の道です。しかし、悲しみの道でも気弱な人の道でもありません。

ベツレヘムのまぐさ桶からカルワリオの玉座に至るまで、道々キリストがお示しになった模範にもう一度目をやり、飢えや渇き、疲れや暑さ、睡魔や虐待、無理解や涙など、あらゆる種類の窮乏を忍び、自己を放棄する主、そして、全人類の救いを思って喜ぶ主について黙想しましょう。「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、ご自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」[3]。このように呼びかけた聖パウロの言葉を、心と精神に刻み込んでいただきたい。何度も黙想し、実行に移す努力をして欲しいのです。

(ホセマリア・エスクリバー『神の朋友』128)

キリストの謙遜に学ぶ

主イエス・キリストは、教えを垂れるとき、たびたび自らの謙遜を模範としてお示しになりました。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」[4]。これは、人間が自己の虚無を率直に認めるほかに神の恩寵を引き寄せる道はないという教えです。「私たちのために主は来られた。食べ物を与えるために空腹を覚え、飲み物を与えるために渇きを感じ、不死の体をまとわせるために滅びる人間の肉体を持ち、豊かにするために貧しさのなかに来られた」[5]

「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」[6]と使徒聖ペトロは教えています。いつ、どこででも、聖なる生活を送るには、謙遜に生きる以外に方法はありません。主は、人間を辱めることに喜びをお感じになるのでしょうか。いいえ、そんなはずはありません。すべてを創造し、その存在を保ち支配する御方が、しょげ返る私たちを見たとて、何を得ると言うのでしょう。神は私たちの謙遜をお望みです。主がお満たしになるために、自らを無にする私たちを待っていてくださる。人間的な言い方ですが、私たちの哀れな心に主の恩寵が満ちるのを妨げてはならないと仰せになるのです。「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」[7]、その神が、謙遜であれとお勧めになります。主は、私たちをご自分のものとし、私たちの良い意味での<神化>を実現してくださるのです。

(ホセマリア・エスクリバー『神の朋友』97ー98)

心の底からイエスに倣わないなら、主のように謙遜でなければ、真の朗らかさを得ることは到底できないでしょう。神の偉大さがどこに隠れているか気が付きましたかと、もう一度お尋ねします。岩穴の中で布に包まれて、飼い葉桶の中においでになるのです。謙遜に振る舞い、自分のことだけを考えるのをやめて、人を助ける責任を感じるときのみ、私たちの生活は贖いに役立つものとなります。

善良な人たちでさえ、個人的な悩みを作りだし、それを重大問題に発展させることがよくありますが、大抵の場合、客観的な基礎が欠けているものです。問題の原因は自己をよく知らないことにあり、自己を知らないがゆえに傲慢になっているのです。皆の中心になりたいとか、注目や称賛を浴びたいとか、面子がつぶれないように図るとか、善のために尽くしても知られずにいるのを好まないとか、自己の安全を追求するとか、すべて傲慢の証拠です。こうして、この上ない平和を味わい、大きな喜びに浸ることができるはずの多くの人々が、傲慢と自負心のために、不幸で実りのない人間に変わってしまうのです。

(ホセマリア・エスクリバー『知識の香』18)

キリストの軛を負う

自己の聖化への確固たる希望は神の賜物です。しかし、自分からは何もしない受身の態度を保つわけにはいきません。キリストは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」[8]と言っておられるからです。よく読んでください。日々の十字架だ、と言われます。「一日として、十字架のない日はなく」、主の十字架を背負わない日や、キリストのくびきを受け入れない日が一日もないように、と。このようなわけですから、復活の喜びは十字架の苦しみを経てはじめて味わい得るという事実を思い出してください。

しかし、十字架だと言っても恐れることはありません。主自ら次のように仰せになりました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」[9]と。聖ヨハネ・クリゾストムは説明を加えています。「来るがよい、と仰せになるが、それは会計報告をするためではなく、罪を赦されるためである。来るがよい。私に栄光を帰する必要があるからではなく、あなたたちの救いが必要だからである。軛と言われても驚くには当たらない、快い軛であるから。重荷と聞いて恐れなくてもよい、軽い荷であるから」[10]

聖化の道を歩めば毎日十字架に出合うことでしょう。と言っても、不幸な道ではないのです。キリストご自身の助けがあり、キリストと一緒であれば悲しみの入り込む余地はないのです。「喜びのうちに、一日として十字架のない日のなく」と私は何度も繰り返しています。

(ホセマリア・エスクリバー『知識の香』176)


[1] マタイ11・29

[2] マタイ16・24

[3] エフェソ5・1ー2

[4] マタイ11・29

[5] 聖アウグスティヌス『詩篇註解』19, 19 (PL 36, 577)

[6] 一ペトロ5・5

[7] フィリピ3・21

[8] ルカ9・23

[9] マタイ11・28ー30

[10] 聖ヨハネ・クリゾストム『マタイ福音書についての説教』37, 2 (PG 57, 414)