属人区長の説教:最後の晩餐で一つになる

主のご受難についてのフェルナンド・オカリス師の説教を提供します。

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Opus Dei - 属人区長の説教:最後の晩餐で一つになる

フェルナンド・オカリス師の説教:最後の晩餐で一つになる

オーディオ(スペイン語 10分)

日本語の訳


聖週間が近づいてきました。おのずと主の御受難、御死去、御復活について考えさせられることでしょう。それは歴史の中心であり、私たちの信仰と生涯を照らす出来事です。

ローマから祈りによってすべての国々、一つひとつののセンター、皆さんのそれぞれの家庭に思いをはせるのは容易なことです。特に今、コロナウイルスのために非常に厳しい隔離状態に置かれている人々のことを思っています。

この思いと祈りは、とりわけすべての病者と介護にあたる人々に向かいます。病院のベッドから、あるいは、それぞれの家庭から、主の御受難に寄り添うことができるでしょう。十字架は神秘です。しかし、キリストのように、キリストと共に十字架を抱くならば、それは、私たちにとって光となり力となり、また、人々にも光と力を与えることができるでしょう。

私たちは皆、このパンデミックの収束を願い、忍耐強く祈っています。この状況は、神の私たちに対する愛への信仰を目覚めさせ、また、他者への奉仕によって、神の愛に応えるための機会となるでしょう。

先日の手紙にも書いたように、聖徒の交わりによって、私たちは他者に起こる出来事を自分のこととして受け止めます。それは、聖パウロの、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しむ」(1コリント12,26)という言葉を真に繰り返すことができるからです。主よ、母なるマリア様、どうかそうであるように助けてください。

「ウイルスのパンデミックに対して、私たちは普遍的な祈り、憐れみ、優しさで応えましょう」

先日の日曜日、教皇様は、「ウイルスのパンデミックに対して、私たちは普遍的な祈り、憐れみ、優しさで応えましょう。一つになりましょう。孤独にある人々、試練にある人々が、私たちを身近に感じることができるようにしましょう」と、お話になりました。ウイルスに苦しむ人々のために祈りましょう。また、この危機による社会的経済的な影響が最小限に抑えられるように祈りましょう。将来に対して不安を抱いている多くの家族を思いましょう。また、仕事に対して心配をしている多くの人々、多くの経営者の恐れを思いましょう。一致、希望、寛大さ、犠牲が必要です。

最後の晩餐において、主は仰いました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。この信頼をもって、聖なる過越しの三日間に向けて準備しましょう。今年は、世界の多くの国々で、空っぽの教会で典礼が挙行されることになるでしょう。しかし、多くの信者たちが、メディアを通して典礼に参加し、思いと心によって教会を一杯にすることでしょう。主は勝利なさいました。いかなることも、いかなる人も、私たちを失望させることはできません。主の勝利は希望をもって戦いを新たにするよう励ましてくれます。

聖体の制定を祝う聖木曜日が近づくにつれて、聖ヨハネの福音に語られるイエスの言葉を読むと心が動かされます。

「過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(ヨハネ13,1)。

想像力を駆使してエルサレムの高間に赴きましょう。主が私たちに与えてくださった偉大な愛の表現を観想しましょう。

神は常にそばにいてくださいます。しかし、聖体においては、御体、御血、御霊魂、神性をもって御自身を捧げてくださいます。主の愛から除外されている人など誰もいません。イエスは、「この上なく」愛してくださったのです。

この上ない愛によって、主は人類すべての罪を担うことを望まれました。それは、私たちを父なる神との親しさに連れ戻すためだったのです。

聖木曜日には、主が、私たちの贖いのために、秘跡的いけにえである聖体を制定なさった瞬間を思い出しましょう。この日は、伝統的に多くのキリスト者が、様々な方法で礼拝し、秘跡に現存されるイエスへの愛を表わす日なのです。

しかしながら、今年の聖木曜日には、いつもとは異なる味わいがあります。誰もが、至聖なる秘跡の御前で徹夜礼拝を望んでいるでしょう。長期間に渡って聖体拝領を妨げられている人々は特に、主が共にいてくださるという確信をもって、霊的聖体拝領を生きるよう努めてください。

長期間に渡って聖体拝領を妨げられている人々は特に、主が共にいてくださるという確信をもって、霊的聖体拝領を生きるよう努めてください。

私たちは、またと無い時にいるのです。神の助けによって、聖体のイエスへの愛、ミサへの愛に、新しい仕方で成長できることでしょう。

イエスよ、心に刻みたいのです。これまでにいただいた聖体拝領の一つひとつについて感謝いたします。常にそばにいてくださるとはいえ、秘跡に現存される御身を受けることができない欠乏によって、いつの日か御身を受けたいという望みに成長できますように。

聖ホセマリアは、スコラピオ会の修道士から学んだ祈りを多くの人々に教えました。「主よ、あなたの尊いみ母が、あなたをお受けになったときの、清さと謙遜と信心をもって、また聖人たちの心と熱意をもって、私もあなたをいただくことを望みます」。

愛情を込めてこの祈りを唱えることは、聖木曜日の良い準備となるでしょう。「主よ、あなたの尊いみ母が、あなたをお受けになったときの、清さと謙遜と信心をもって、また聖人たちの心と熱意をもって、私もあなたをいただくことを望みます」。

聖体のいけにえに与ることは、単なる過去の思い出ではありません。ミサ聖祭は、カルワリオのいけにえの秘跡的現在化なのです。最後の晩餐において前もってなされた私たちのための主の奉献なのです。「これを私の記念として行いなさい」(ルカ22,19)。

聖ヨハネ・パウロ2世は記されました。十字架のいけにえは、「人類の救いにとって決定的に重要なものでした。そのためイエス・キリストは自らをいけにえとしてささげ、御父に返す前に、わたしたちがその場にいたかのようにしてそれにあずかる手段をわたしたちに残してくださいました(回勅『教会にいのちを与える聖体』11番)。

教会は聖体を挙行するたびに、キリストの御受難と御死去を秘跡的に現存させます。いかなるミサも「私的」な行為ではありません。すべてのミサは、「普遍的」なものです。なぜなら、一つひとつのミサはキリストのものだからです。そして、キリストと共に、教会であるキリストの体が現存するからです。洗礼を受けた一人ひとりが教会なのです。つまり、私たち一人ひとりが教会なのです。

それゆえ、ミサに参列できない現在の状況において、会衆の参列なしに司祭が捧げる聖体祭儀に、私たち皆が現存していることを確信してください。聖ホセマリアは説明しました。「一人の侍者と聖なるミサをたてるときも、そこには民全体がいます。私のそばにすべてのカトリック信者とすべてのキリスト者、さらに神を信じない人々がいるのを感じています。地も天も海も、動物も植物も、神のすべての被造物がそこにいて、全被造物が主に光栄を帰しているのです」(『永遠の司祭』)。

聖体のいけにえの挙行によってすべての人に届けられている力への信頼をさらに強めてください。また、そこにいることのできない人々にも届けられていることに信頼を強めてください。司祭たちはすべてのミサにおいて、兄弟姉妹、親戚や友人、全教会、人類全体を、特に病人や孤独に置かれている人々を担うことを望んでいます。

司祭たちはすべてのミサにおいて、兄弟姉妹、親戚や友人、全教会、人類全体を、特に病人や孤独に置かれている人々を担うことを望んでいます。

主よ、聖体を感謝します。ミサを感謝いたします。教皇様が、聖体顕示台を手に聖ペトロ広場のColonnato(列柱)を臨み、人類を祝福されていた姿が思い起こされます。主よ、聖体を感謝いたします。そして、時代を越えてあなたの愛を永続させる司祭職を感謝いたします。司祭たちのためにさらに祈りましょう。