聖ホセマリアの手紙29番(聖ガブリエル職について)

聖ガブリエル職について、すなわち、スーパーヌメラリの召し出しと、この世界と結婚生活と家庭を聖化するという彼らの使命についての手紙。1959年1月9日付でDei amore(神の愛によって)という題名で書かれ、1966年1月初めて印刷に付された。

ホセマリア・エスクリバー・デ・バラゲル

手紙29番(1959年1月9日)

ルイス・カノ 編


目次

解説

手紙

キリストに基づく楽観主義

人間を神化するパン種

聖ガブリエル職:社会全体にキリスト教的な意味を与える

この世界のすべての活動をキリスト教精神で浸す

聖なる全教会の関心事と責任

平和と愛の種蒔き

初代キリスト教徒の行動の仕方

豊富な善で悪を封じ、真理を守る

あらゆる人間的活動の頂点にキリストを置く

市民としての義務を生きるキリスト者の自覚

スーパーヌメラリの形成

旅人よ、己が道を歩め

自由

市民としての権利と義務を遂行することにおける使徒職

間断なく真理を告げ知らせる

あらゆる誠実な仕事は、キリスト教精神と使徒職によって方向づけることができる

奉仕の精神

結婚は地上における神への道

明るく喜びに満ちた家庭

使命を果たすための大胆さ


解説[1]

聖ホセマリアはその生涯を通して、オプス・デイのカリスマとその歴史の中心的な側面を扱った「手紙」と呼ばれる一連の文書を書いた。手紙は親しい間柄における会話のような形式にこだわらない、愛する人に対して大切なことを伝える時のような文体で書かれている。

聖ホセマリアがこの手紙を書いた正確な時期は分かっていない。いずれにせよ、その時期が手紙に付されている1959年1月9日に近いことは間違いない。手紙は印刷された後、1966年1月21日に各国に送られた。

全集の編集にあたり29という番号が割り当てられたこの手紙は、聖ガブリエル職をテーマとしている。聖ガブリエル職とは、一般的に、青年期を過ぎ結婚の道への呼びかけを感じている人々の間で行われているオプス・デイの使徒職を指す。それはおそらく、今日オプス・デイの使徒職の中で最も広がりを持っている。

聖ホセマリアは、1935年から書き始めた「指針」の4番目に当たる「聖ガブリエル職に関する指針」を書いた1950年、このテーマを詳細に扱った。この「指針」は、スーパーヌメラリの在り方の法的な承認と密接に結びついている。聖座は、家庭的・社会的な状況が許す限り多くの時間を使徒職的活動に捧げつつ、神に自らを完全に捧げるというスーパーヌメラリの在り方を真の召命と認めた[2]

1950年から1965年にかけて、世界は大きく変化し、社会の急激な変革が目前に迫り、それは人間生活のさまざまな側面、第一に宗教的側面、それに加え倫理的側面や家庭的側面にも影響を及ぼしていた。聖ホセマリアにとって「指針」の中ですでに言及していた聖ガブリエル職の1つの側面を強調することは緊急の課題であり、この手紙ではその側面が強調されている。それは聖ガブリエル職の福音的展望は、個人の使徒職を遂行することだけでなく、(少なくとも西洋において)神から劇的に離れつつある世界にキリスト教的影響を与えるという側面である。

この手紙が出た1960年代半ば、聖ガブリエル職は各国で大きな広がりを見せていた。そのような時期にこのような手紙があったことは、スーパーヌメラリを指導し形成しなければならない人々の形成に非常に有用であり、また、この手紙で扱われている多くの側面に関する創立者の教えを彼らに伝えるためにも有用であった。夫婦間の倫理に関する問題をはじめ手紙で扱われているいくつかのテーマについての世論は1950年以降大きく変化し、1966年当時は非常に話題性の高いテーマであった。

聖ホセマリアは手紙の冒頭で、イエス・キリストによってもたらされた救いは、例外なくすべての男女のためであることを説明する。しかし、その贖いはあふれるほど豊かなものであるにもかかわらず、多くの人がキリストを知らず、悪が世に栄えていることを指摘する。「キリストの遺産である神が地上に造られた畑には、毒麦が生い茂っているのです。毒麦、何と多くの毒麦があることでしょう」(3番)。この現実を前にして、無関心でいるのではなく、イエス・キリストの贖いに参加するよう呼びかける。練粉の中のパン種のように、ゆっくりと絶え間なく働きかけ、人を神に近づけることが必要なのだ、と聖ホセマリアは言う(1-9番)。

この偉大な使徒職的展望の中に、聖ホセマリアは聖ガブリエル職を位置づける(10-15番)。「聖ガブリエル職は世界のすべての活動を超自然的な意味合いで満たし、(それが広がるにつれて)人間社会の大きな問題の解決に、効果的に貢献していくことでしょう」(10番)。これがこの手紙の主眼点である。聖ガブリエル職の影響は、それに参加する人々のキリスト信者としての生活を向上させるだけにとどまらず、個人的な行動の結果として、キリストの命と光で地上の現実とその仕組みを生き生きとさせ、活性化し、照らすことにつながるのである。このセクションにおいて、聖ホセマリアはスーパーヌメラリの召命について述べ、その福音化と変容を促す力を強調する。スーパーヌメラリは、あらゆる社会構造と社会階層に属し、社会の指導的立場から人生の最もささやかな岐路において、人生そのものが提供するあらゆる多様性に基づく様々な使徒職を通して、キリスト教的な影響を及ぼすことのできる人々である。それゆえ、スーパーヌメラリの召命の一部である社会における職業的召命は重要であり、それは教会におけるその他の使徒職との違いとなる。

中心部分(16-32番)は、聖性と個人的使徒職との関係を扱うことから始まる。続いて聖ホセマリアはこの手紙の主要テーマを発展させる。つまり、職業的活動と使徒職的活動は、個人の使徒職を実現するためだけでなく、より公正でキリスト教的な社会を築くために融合されるものである。それゆえ聖ホセマリアは、世界を愛するよう、そして人間のあらゆる活動や組織の中に恐れず「いる」よう諭す。神の敵を無責任に野放しにしないように、同時に、とげとげしく敵対することがないように教える。「私の子たちよ、私たちの振る舞いは、理解と愛情に満ちたものであるべきです。私たちの態度は、誰かへの反対を目指すのではなく、ましてや党派的なものでもありません。あふれんばかりの善で、悪を封じ込める努力をすることです」(25番)。聖ホセマリアは、「すべての人に対する大きな愛、人々のあらゆる種類の不安や問題に開かれた心、差別や排他的な態度を知らぬ理解に満ちた心」(26番)をもって働くよう、また「この世のあらゆる活動をキリスト教的なものにし(…)人間の諸活動の頂点にキリストを据え」(28番)るべく努めるよう諭す。

その後、スーパーヌメラリの形成の特徴に光を当てるために、短いセクションが割かれている(33-37番)。その中で、とりわけ自由が強調されている。それは特定のカリスマの同化においても、また職業的・社会的分野における取り組みにおいても強調される。「私の子たちよ、自由です。世俗の事柄に関して、オプス・デイからの指示を決して期待してはなりません」(36番)。各自が、自分の良心に基づいて、その時代の課題に対する最適な解決策を模索するようにと聖ホセマリアは諭す。教会には、聖職者主義に駆られ、この自由を理解も尊重もしない人たちがいると苦言を呈する。

さらに38-42番では、男性、女性のスーパーヌメラリの使徒職の特徴を打ち出している。それは、教会としての任務ではなく、謙遜に行われるべきものであり、市民の義務と権利という領域において実現される(召命は「全面的に世俗的な性格」〈41番〉を持つため)。それゆえ、聖ホセマリアは、倫理的に重要な事柄について人々の生活を形成する法の影響力を考慮に入れながら、キリスト教的なパン種として、人間活動や公的生活の中に「いる」必要性を再度強調する。

協力者について短い言及をした後(43番)、特定の使徒職、例えばマスコミを通して世論に福音のメッセージを伝えること(44−46番)、娯楽の使徒職、金融や経済・政治といった分野に入り込むこと(47-52番)に言及する。

最後の部分(53-58番)は、家庭生活と結婚にあて、避妊や離婚などが容認されつつあった時代にあって、夫婦の義務を聖なるものとして生きるための基準を示している。自分自身の神の子としての自覚に支えられながら、与えられた召命に献身するよう諭す結びの言葉で締めくくられる(59-60番)。


手紙

【聖ガブリエル職について、すなわち、スーパーヌメラリの召し出しと、この世界と結婚生活と家庭を聖化するという彼らの使命についての手紙。1959年1月9日付でDei amore(神の愛によって)という題名で書かれ、1966年1月初めて印刷に付された。】

1. 私の愛する子たちよ、私たちは神の愛によって選ばれました。それは、常に若く新しいオプス・デイの道を生きるためです。この人間的かつ超自然的冒険は、地上に愛熱の火を燃え上がらせようと切望された主に、キリストの共同の贖い者として緊密に同伴することです[3]

主は、十字架によって死に打ち勝ち、人間に課された滅びの宣告を破棄し[4]、その御血という広大無限の代価ですべての人を贖ってくださいました。Empti enim estis pretio magno「あなたがたは(高い)代価を払って買い取られた」[5]。私たちは多大な代価で贖われたのです。例外なくすべての人に、新しい命の可能性、霊における再生の可能性、勝利者として生きる可能性が開かれました。その結果、次のように叫ぶことができるようになったのです。「もし神がわたしたちの味方であるならば、誰がわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。(…)わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示しめされた神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」[6]。これは、泥でできた人間がまったく夢見ることさえできなかった、確実さと充満と人間の神化を高らかに歌い上げた賛歌です。

2. 主は、国や民族、言語、個人の置かれた状況などの区別なく、すべての人に救いを提供なさいますが[7]、受け入れるようにと強要はなさいません。人間の自由にお任せになりますが、人間はときにそれを望みません。盛大な晩餐に優しくお招きになるイエスに、habe me excusatum「どうか失礼させてください」[8]と答えて、つまらない利己的な言い訳を認めさせようとするのです。

悲しいことではありますが、20世紀経った今もこの世界にいるキリスト信者は僅かで、しかもその中でイエス・キリストの真の教えを知っているのはごく少数の人だけです。何回か話したことがありますが、信仰をもっていない人が世界地図を見ながら悪意なく言いました。「ご覧ください、東西南北を」。「何を見てほしいのですか」と尋ねました。すると答えが返ってきました。「キリストの失敗を見てください。何世紀にもわたって教えを人々の心に染み込ませる努力をしてきたにも関わらず、結果はどうですか?キリスト者と言える人はいないのです」。

最初は悲しみに襲われました。しかしすぐに愛と感謝の念に満たされました。主は、私たちを贖いのみ業の自由な協力者にしようと望まれたのです。キリストが失敗されたのではありません。その教えとみ業は世の中を豊かにし続けています。その贖いは十分で有り余るほどです。しかし私たちを知性ある自由な存在として扱われます。そして神秘的な形で、私たちが身をもって(私たちの生活において)、「キリストの体である教会のために」[9] ご自分の苦しみの欠けたところを満たすようにと定められました。

贖いのみ業は今も進行中です。そして、あなたがたと私はキリストの贖いの協力者なのです。全生涯をかける価値があります。神のご計画の実現を前進させるために、愛する心で苦しむ値打ちがあります。贖いの協力者として、世の贖いに手を貸す値打ちがあるのです。このような思いを抱いて、あなたがたと私は神を称える賛美の声を上げましょう。Laudationem Domini loquetur os meum, et benedicat omnis caro nomini sancto eius「わたしの口は主を賛美します。すべて肉なるものは世々限りなく聖なる御名をたたえます」[10]

3. 私の子たちよ、主がご自分の国はこの世のものではない[11]と言われたことを忘れてはなりません。人間が自由を乱用するのを許され、収穫の時までは、良い麦と一緒に悪い麦も育つことを忍ばれたのです[12]。悪はなんと繁栄していることでしょう。教会の揺籃期から、十二使徒の存命中でさえ、異端や分裂がありました。初代のキリスト教共同体に対する異教徒からの迫害、そしてイスラム主義、プロテスタント主義、そして今日の共産主義があります。キリストの遺産である神が地上に造られた畑には、毒麦が生い茂っているのです。毒麦、何と多くの毒麦があることでしょう。

聖なる都、新しいエルサレム(新しい天と新しい地)が天から下るまで[13]、「主の主、王の王、(…)小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たち」[14] と、獣と滅びの子に服従するものとの間の戦いは終わらないでしょう。彼らは「すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢に振る舞い、ついには神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言する」[15]のです。

キリストに基づく楽観主義

4. 私たちの楽観主義は、愚かで高慢なものでなく、現実に即したものです。それゆえ、世にある悪を無視することはできませんし、キリストによって急を要するこの戦いに召された、つまり主と共に愛と平和の麗しい戦いを戦い抜くように招かれたという責任を放棄することもできないのです。

随分前のことになりますが、あなたがたの兄弟たちに黙想会を指導していた時、当時の世界の状況に注目するよう勧めました。その状況は今もあまり変わっていません。地上を素早く覆っていく赤い染み(つまり共産主義)に目を向けるよう彼らを促しました。それはあらゆることに染み込んでいき、ほんの僅かな超自然的な感覚さえも壊滅させようとしています。そしてもう一つの波、官能という愚かさの大きな波がまかり通っています。多くの人が、獣のような生き方に傾いているのです。

続いて、別の色の波に注目するよう勧めました。特にラテン諸国に浸透する様子が顕著な別の色の波です。他の諸国においてはより隠れた偽善的な形で浸透しています。それは、神と教会を個人の良心の奥深くに閉じ込めようとする反聖職者主義(悪い反聖職者主義)の雰囲気のことです。あるいはより明確な言い方をすれば、公的な生活において信仰が表明されることがないよう、神と教会を個人の私的な生活内のみに追いやろうとする波のことです。大げさではなく、この三つの波で表された危険は絶えず見られ、荒々しく勢力を伸ばしています。

5. あなたがたは、この現実に目を閉じてはなりません。目を閉じることは、ゆるし難い怠慢だと言えるでしょう。こう言うのは、あなたがたを無気力で不活発な悲観主義に陥らせるためではなく、キリストの聖なる焦燥感を持つようにと鼓舞するためです。主は、最期の旅となるエルサレムへ向かって速足で使徒たちの先頭を進まれます。Praecedebat illos Iesus「イエスは先頭に立って進んで行かれた」[16]。それは、主の霊が絶えず急き立てていたあの「受けねばならない洗礼」[17]を受けるためでした。

「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」[18]という主の招きを感じたら、必ずpossumus!「できます!」[19]と、断固として若々しく大胆な決意があなたがたの唇と心にあることを願っています。

オプス・デイにおける神の子は、いつも神との親子関係に基づいて心の平安を保っていますが、キリスト教的でなく、ましてや人間的でもない世界に対して、無関心をかこつことはできません。というのも多くの人が、この世において、自らの霊的な成長を望むような状態には達しておらず、手で触れることができないようなことすべてにあまりにも鈍感になっているからです。彼らの状態には「この世の命のままに生き、霊を持たない者」[20]という聖書の言葉が当てはまります。そのような可哀そうな人たちにおいて、聖パウロの嘆きが現実となっています。Animalis autem homo non percipit ea quae sunt Spiritus Dei「自然の人は神の霊に属することを受け入れません」[21]。この可哀そうな人たちは霊的な光が見えず、神の霊からくるものを識別できないのです。

6. 文化と物質的進歩が信じられないほど発展した国々に目を向けましょう。技術革命により、物的な生活のレベルは目を見張るほど高くなっています。科学研究は(神はなんと人間の知性をお助けになることでしょう)人間を神に近づけるはずでした。なぜなら、研究は真理であり善である程度に応じて、神に由来し、神へと導くものだからです。

しかしながら、現実はそうではありません。進歩にも関わらず、人間は人間としてより成長していません。というのも、神の次元が欠けていれば、人間の生は、いかに物質的に進歩したとしても、動物のような生き方になるからです。ただ神的な次元に対して心を開いて生きる時のみ人間は、動物と異なる生き方をすることができます。ある点から見れば、宗教とは獣になりたくない人間の最大の反逆と言えます。

私の子たちよ、宗教的なレベルにおいては、進歩はなく、前進する可能性もありません。すでに進歩は頂点に達しています。頂点はアルファでありオメガ、初めであり終わりであるキリストです[22]。したがって、霊的生活において何も発明することはないのです。キリストに一致し、もう一人のキリスト(ipse Christus)になるように戦うこと以外にあり得ません。昨日も今日も、そして永遠に同じキリストを心から慕い、キリストによって生きることです。Iesus Christus heri et hodie, ipse et in sæcula「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」[23]。個人的な聖性以外に〈処方箋〉はないと、あなたがたに再三繰り返す理由が分かりますか。これ以外にないのです。私の子たちよ、これ以外にはないのです。

人間を神化するパン種

7. 人を神化するパン種が必要です。人を神的にすると同時に、真に人間的にするパン種が必要です。イエスの弟子であると呼ばれる人の多くにも、表向きに信心深い様子を見せている人々にも、パン種が必要です。パン種は小麦粉の生地に働きかけてそれを軟らかく、軽いスポンジのように食に適したものにします。パン種なしで小麦粉と水だけでは、固く消化不良を起こす不適切な食物しかできないのです。

私たちの主である神は、多くの人が逃げ去ってしまう中、パン種のように生地を活性化することができる忠実な人を常に取っておかれました。「残りの者が帰って来る。ヤコブの残りの者が、力ある神に帰ってくる。まことに、イスラエルよ、お前が海の砂のようであっても、ただ残りの者だけが帰って来る」[24]。預言者はオリーブの樹をゆすった後、落ちずに残る実について語りました[25]。聖パウロはローマ書でこう言っています。「現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています」[26]。イエスは僅かな人をパン種として召されました。あの聖なる男女のグループは最初の使徒たちに協力しましたが、彼らの心には素晴らしい種まきが主によって行われたのです。

8. オプス・デイが始まった頃、私はあなたがたの兄弟に、人数が少ないことを指摘していました。そして確信を持って彼らに言っていました。「それでよい。向こうには大勢の人がいると言うのですか。しかし私たちは愛のうちに一致しています。ところが、彼らは一致しているように見えても、実のところばらばらに生きています。なぜなら、彼らを一つにしたのは憎しみだからです。憎しみは常に存在してきました。憎しみは利己的な生き方から、創造主に反抗する者たちの永遠なる戦いから生じます」。そして、言い添えていました。「もっと人数を増やしたいのですか。それなら、もっと良い人に私たちがなりましょう」。

私の愛する子たちよ、パン種の効果は、突然、暴力的にある部分において現れるのではなく、急がずじわじわと現れ、内側から生地全体に働きます。神の恩恵によって今日、大人数となった私たちは、パン種の効果を確認できます。初期の僅かなメンバーは、神とこの哀れな罪人を信じました。彼らは、(今、世界のほとんどの地域にいるあなたがたと同様に)超自然的な生活、仕事と喜んで捧げる犠牲の精神によって、効果的なパン種になりました。

9. 何年もの間、私は、この世をご自分の火で焼き尽くすイエスの情熱を考えては、神の愛に燃え上がっていました。心を激しく突き動かすあの熱意は、内心に隠しおおせず、主と同じ言葉での叫びとなって表れました。Ignem veni mittere in terram, et quid volo nisi ut accendatur?...Ecce ego quia vocasti me「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらとどんなに願っていることか。…お呼びになったので参りました」[27]

私の子たちは皆、全力を尽くし、必要ならば犠牲を惜しまないという、大きな望みを持たなければなりません。それは、やる気を失い感覚を麻痺させてしまった人々の活力を蘇らせ神への奉仕に立ち戻らせるためです。それにはまず私たちが、misereor super turbam「群衆がかわいそうだ」[28]と叫ばれた主と思いを同じくし、周りにいる大勢の人々への愛情を持つことです。

オプス・デイにおいては誰も、動物の群れのような、非人格化された大勢の人々を見て、心を動かされずに平気で生きることはできません。一見無関心に見える人々のうちに、多くの高貴な情熱、多くの可能性があります。イエスのように、すべての人に仕えることが必要です。そして、singulis manus imponens「一人一人に手を置いて」[29]彼らを生き返らせ、癒し、彼らの知性を照らし、意志を強めるのです。それは、彼らが役立つものとなるためです!すると、ただの群れだった人々は戦う人々に、高貴な王のために戦う親衛隊に変わることでしょう。

今、オプス・デイは、祝福された野原の香に満たされています[30]。使徒職の実りを前にして、主が惜しみなく祝福されたことを感じ取るのに信仰は不要です。何年も前、主への感謝のうちに祈りつつ、私の故郷の次の歌を口ずさんでいました。「蕾よ、つぼみ、もうすぐバラになるのだね。花開く時が近づいたよ。何かを告げるために」。私の子たちよ、今あなたがたは、棘があるにしても美しく素晴らしいバラを目前にしています。眠り込まずに、奮い立ち、イエス・キリストと聖なる教会に捧げるために、努力を傾けた結果を摘み取る時です。

聖ガブリエル職:社会全体にキリスト教的な意味を与える

10. 私たちの使徒職はすべて、人間社会にキリスト教的な意味を直接与えますが、聖ガブリエル職は世界のすべての活動を超自然的な意味合いで満たし、(それが広がるにつれて)人間社会の大きな問題の解決に、効果的に貢献していくことでしょう。

スーパーヌメラリの間には、あらゆる社会的な立場や職業や役目の人がいます。自己の身分や社会的な状況の中で、「召し出しを十全に生き」、キリスト者としての〈完成〉を目指す私の子たちによって、あらゆる環境や生活状況が聖化されます。

召し出しを十全に生きるというのは、主が求められるすべての事柄に対し、全力を傾けて寛大に応えるべく努力をするということです。責任あるカトリックの市民として、教会と教皇、そしてすべての人に惜しみなく仕えるということです。

大部分のスーパーヌメラリは結婚しています。彼らにとって、夫婦間の愛と義務は神的な召し出しの一部分です。オプス・デイは結婚生活を神的な道、召し出しにしました。結婚が召し出しであることを、多くの人の心に刻みつけることを始めてから30年以上も経ちました。使徒的独身は結婚に優るものですが(これは私ではなく教会が定義したことです[31])、結婚は召し出しとなるほど、崇高なものです。私が「結婚はこの世における神的な道です」と言うのを聞いて、自己奉献の生活と高貴で清い愛は自分の生活とは相容れないと考えていた男女が、何と目を輝かせたことでしょう。この点に関しては、もっと後で話すことにしましょう。

11. キリストの弟子には、当時のあらゆる社会階層を代表する人たちがいました。影響力のある人たちも、市井の人たちも主に従っていました。度々、私はあの二人の弟子にあなたがたが注目するよう促しました。律法学者で名士、おそらく最高法院のメンバーであったニコデモと、裕福で身分の高い、最高法院の議員であったアリマタヤのヨセフです。彼らは物静かで、公生活では良心に従い、困難な時には決然と勇気をもって大胆に行動したのです。この二人が今日生きていたら、オプス・デイのスーパーヌメラリの召し出しを良く理解することができたでしょう。

キリストの最初の弟子たちと同じように、スーパーヌメラリは現代社会のあらゆる所に存在し、これからも存在するでしょう。知識人や商人、専門職、職人、経営者や労働者、外交官、田舎の人、資産家や文学者、新聞記者や演劇界やサーカスの人たち、スポーツ選手。若者や老人、健康な人や病人。生活そのもののように、素晴らしい、組織化されない組織です。真の「専門化」であり、本物の使徒職です。なぜなら、あらゆる(清く、品位ある)職業は、使徒職となり、神的なものになり得るからです。

私たちは、人間社会という相互の奉仕の絡み合いの中に見られる職業や任務、あらゆる社会条件、最も多様な状況にいる人々に関心があります。これらすべての生き生きとした相互関係に、キリストのパン種が行き渡っていなければならないからです。

12. 私の子たちよ、職業や社会的地位に関して、一切の差別をしないことに注目してください[32]。私たちが(差別や階級主義的なメンタリティなしに)あらゆる職業や社会的地位の中に探し求める価値は、共同体への奉仕であり、そのことにより、社会的にあまり評価されていない仕事ですら、それを引き上げ、偉大なものにすることができるのです。これらのすべての仕事は、全人類の現世的善に寄与します。そして、それらを完全な形で、また超自然の意向で果たすなら(霊的なものにするなら)、主の贖いのみ業にも協力することになり、すべての人々に自身が神の子の大家族の一員であると感じさせることによって、彼らの間に兄弟愛を育みます。

私たちは、誰をも現在いる場から引き抜きません。そこ、主の招きを受けたところで、各自が自分自身とその置かれた環境、すなわち自分がつながっている社会の一部であり自己の存在理由を与えてくれているその環境を聖化しなければなりません。この点においても、私たちは初代キリスト信者と同じ思いを持っているのです。

聖パウロがコリントの信者に書き送ったことを思い出してください。「おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい。召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷になってはいけません。兄弟たち、おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい」[33]

この世界のすべての活動をキリスト教精神で浸す

13. オプス・デイへの召し出しを(神の恩恵の助けによって)、社会のあらゆるレベルで、特に人間社会の中にある活発な場、つまり密な社会関係の出会いや交わりの行われる場で働いている人々の間で探しなさい。

国や国際社会における指導的な地位にだけ言及しているのではありません。確かにそのような立場にいる人々は、仕える精神を持つことにより、真の平和と社会の本当の進歩の保証であるキリストの要求に即した社会を築くために素晴らしい善をなすことができます。

しかしそれだけでなく、私は、国よりも小さな組織における、ポストや仕事、任務についても言及したいのです。というのは、それらは、国やその他の共同体と同じように、またはそれ以上に、大切なものだからです。これらのポストや仕事は、その性質上大勢の人と接触できる手段であるので、そこから、オプス・デイにおける神の子たちの特徴であるべき教理を伝えたいという絶え間ない熱意をもって、社会の中にキリスト教的な意見を形成し、その考え方に影響を与え、人々の良心を目覚めさせることできるのです。

それゆえ、市井の人々の生活において鍵となっている様々な職業に就く人の中から多くの召し出しが出ることに関心があると度々言ってきました。主ご自身が関心をお持ちなのです。つまり地方自治体の事務方や議会議員などの公務に携わっている人々、教師、理容師、行商人、薬剤師、助産師、郵便集配人、レストランのウエイター、家事手伝いをする人、新聞売り、店番をする人などの中から、たくさんの召し出しが出る必要があるのです。

私たちの使徒職は世界の隅々にまで及ばなければなりません。私たちを突き動かす愛と平和への熱意はすべてに及び、細部にまでわたる私たちの仕事を通して、社会を形成している細胞とも言える人間活動の一つ一つをキリスト教的な精神で生き生きとさせていくのです。あるスーパーヌメラリが「私たちの精神」を輝かせないような場所があってはなりません。そのスーパーヌメラリは、私たちの伝統的なやり方で、自己の聖なる焦燥感をすぐに他者に移そうと努めるはずです。するとすぐに、そこにオプス・デイにおける神の子のグループが出来上がるでしょう。そしてこのグループが疲弊することなく、生き生きとしながら活動することができるよう、相応しい世話が(必要ならば訪問するための旅も厭わずに)行われるでしょう。

オプス・デイのメンバーの多様性は次のように理解できます。信仰とオプス・デイの精神に関する事柄は最低限の「共通分母」です。それゆえ、これらのことについて私たちは自身のことを「私たち」と呼ぶことができます。その他のこと、つまり現世的な事柄や神学的に自由に意見を言える事柄は、広大で全く自由な領域の「分子」です。ですから、それらについて、誰ひとりとして「私たち」と言うことはできません。「私」「あなた」「彼」と言うべきです。

14. 私の子たちよ、私たちの使徒職には「専門化あるいは特定化された目的」[34]がないことを、良く知っているでしょう。私たちの使徒職的活動には、あらゆる「専門」が存在します。それは使徒職が、人間の生活自体が提供する多様な専門分野に根付いているからです。社会の歯車の中で、人々が互いに提供し合う奉仕を超自然のレベルに高め、真の霊的な仕事にしていくのです。

ここ数世紀の間、活動修道会が(常に外から)世に近づこうと使徒職を「専門化」し、人間的な特定の仕事、教育や福祉活動などに、キリスト教の精神を根づかせようとしてきました。それは称賛に値することです。とはいえ、しばしばそれは、どちらかと言うと、修道士・修道女の固有の召し出しを具現化するためというよりは、カトリックの市民の自主性の不足を補うためのものでした。この自主性の不足は、彼らのキリスト教的形成の怠り、または彼らが社会をキリスト教化するという責任感を感じなかったところから来るものだったかもしれません。

しかし、修道者は「専門性」を求めるにあたって(それは彼らの召し出しに固有なものではなく、あくまで補足的なものです)限界に突き当たりました。人間社会の多くの領域は、気高く清いものであっても、世からの聖なる隔離によって奉献生活の証しを世に示すという修道者の主たる使命とは、決して両立できないものだからです。さらに、最近の世俗主義は(多くの国において、それがいわゆるカトリックの国であっても)教育や福祉活動から修道者を追い出し、あるいは(少なくとも)彼らが宗教的とは厳密には言えない活動に携わるのを制限しています。

オプス・デイの使徒職において、信徒たちは、不足を補うためではなく[35]、教会における自らの使命を果たす場として神が指し示した特定の領域を、明確な自覚と責任感をもって、自分のものとします。その使徒職がどのように「専門化」されるかを予測することはできません。というのは、その使徒職は仕事とその社会的な役割と一体になっており、それゆえ様々な可能性に対して開かれているからです。また、その使徒職は、不動のものではなく、時間の経過と共に起こりうる、社会構造の変化に対して開かれているからです。

ここで、修道者が、「普通の世俗的な職業における召し出し」を感じることは、非常に難しいということを考慮せざるを得ません。その召し出しがあれば、修道者にはならなかったことでしょう。彼らを職業的な仕事のために形成することは難しく、高くつき、後付で不自然なものといえます。このような条件下で、中級の仕事のレベルに達することができるのは、ごく少数の人に限られると思われます。

聖なる全教会の関心事と責任

15. こういう理由から、私の子たちよ、聖なる全教会の関心事と責任(sollicitudo totius Sanctae Ecclesiae Dei)は、私たちのものであるということができます。教皇と教区司教の公的な(法的な、de jure divino)責任を支持しながら、私たちは法的ではない、霊的で修徳的な、愛から来る責任を持って、全教会に仕えます。これは職業的な性格を持つ市民としての奉仕で、キリスト者としての模範の証しを生きながら、市民社会の隅々まで、主の教えを伝えようとするものです。

教会の一致に困難が生じた時、修道会などの全世界的な組織が決定的に重要な役割を果たしたことは、歴史が示しています。私たちは、修道者とは全く異なる召し出しを持つ、全世界的な組織です。また、いわゆる「使徒職的運動」(apostolic movements)と呼ばれている活動との違いを明確にする[36]、全世界的な内的位階制を持っています。このことは、私たちを教会と教皇に仕える、結束力の強い、効果的な道具にします。

16. 私の子たちよ、役立つために必要なことは、あなたがたの個人的な聖性です。それは匿名の仮面に隠れない、責任ある仕事として表れます。善き種まき人、キリスト・イエスは、麦のように、私たちを傷ついた手で握りしめて御血で満たし、洗い清め、夢中にさせてくれます。それから、寛大に私たち一人ひとりを、オプス・デイの子たちがいるべき世界の所々に蒔き広めます。麦は、袋ごとではなく、一粒ひと粒、蒔くものです。

「あなたがたは、主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです」[37]。私の子の生活が使徒職の実りを豊かにもたらさないことは、偽り、二重生活、喜劇で、ありえないことです。繰り返しますが、そういう私の子は死んだも同然で腐っています。Iam foetet「もうにおいます」[38]。そして私は、(あなたがたがよく知っているとおり)遺体は丁寧に葬ります。

仕事や職務の同僚や親戚、友人や隣人との個人的な付き合いにおいて、友情と親しい語り合いの使徒職で彼らの心を揺さぶり、利己的でブルジョア化した生活の視野を広げ、生活をより〈複雑〉にしてあげなさい。彼らが自分自身を忘れて、周りの人たちの問題を理解できるようにするのです。そして、あなたがたが経験したように、彼らの生活が〈複雑〉になる時、彼らには、gaudium cum pace、喜びと平和がもたらされることを確信してください。

この使徒職(それはディレクターたちの教理的・実践的な導きによるので、無秩序なものではありません)を絶えず行っているなら、あなたがたの周りに、落ち着いた雰囲気が生まれるでしょう。そしてあなたがたの家庭において初代信者の家庭が再現されるのです。

黙想会・講演・サークルなど、オプス・デイが準備している共同の霊的・教理的形成の手段に、またオプス・デイの司祭の霊的指導に、この個人的な使徒職で付き合っている人たちを近づけるよう努めます。というのも、これらの手段は、各々が、仕事・社会的立場・家族関係を通して行う使徒職(すべてが使徒職です)によって示す、人々への配慮をより完全にするための効果的な(必要な)手段だからです。

17. しかし、そこで留まってはなりません。あなたがたの親戚や友人を黙想会に参加させたり、オプス・デイの司祭の指導を受けるよう促すだけで、満足するわけにはいきません。あなたがたの使徒職がそこで終わるわけではないのです。あなたがたが働き、活動している職業や団体(機関、組織)にキリスト的な方向づけを与えるべく努力するなら、その時こそ、すこぶる実り多い使徒職を行っていることになるということを、理解しなければなりません。

これらの組織や機構が、人の命に関するキリスト教的な基本概念に沿うものとなるようにする努力は、非常に広範囲に影響を与える使徒職になります。というのも、正義の精神を具現化することによって、人々に彼らの尊厳に相応しく生きるための手段を保証し、また多くの人がより容易に、神の恩恵によって、キリスト者の召し出しに個人的に応えることを可能にするからです。

私が正義について話す時、この言葉を狭義にとらないでください。というのも(人間が幸せになるには)一人ひとりに必要なものを機械的に与えるという正義だけでは不十分だからです。私は愛徳について話しています。愛徳は正義に基づきますが、それを超えるものです。キリストの愛徳は機械的なものではなく、愛情を伴う愛なのです。

平和と愛の種蒔き

18. それゆえ、社会で活動するにあたり、人々の間に対立を醸しだすような言動は慎まなければなりません。キリスト者なら階級意識や特権階級的な考えはしないものです。一方を立てるためにもう一方を貶めるようなことはすべきではありません。こういう言動には唯物論的な考えが潜んでいます。すべての人に人格を磨く機会が与えられ、仕事によって生活の向上が図られるよう、努力すべきなのです。また、憎しみを避けるだけで満足してはなりません。平和と喜びの種蒔きをすることが私たちの「共通分母」であるからです。

私の子たちよ、あなたがたが何であれ仕事を企てる時には、神の現存のもと、その企てを生み出した精神が、キリストの精神に基づいているか否かを検討しなければなりません。歴史的状況の変化により(それは社会の構成に変化をもたらします)、ある時期に、正義に叶っていたことがそうでなくなることを考慮に入れましょう。というわけで、停滞と壊滅を引き起こす惰性を防ぐため、あなたがた自身が絶えず建設的な批判精神を持つ必要があります。

19. キリストのために、あらゆる高貴な人間的な価値を、勝ち取らなければなりません。「すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい」[39]。人間生活に生じるあらゆる現実に神的な意味を見出しつつ、それを神へ導かなければならないのです。それゆえ、度々繰り返してきましたが、決して超自然的な観点を失わないことが必要です。「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」[40]

いつの時代も、その時代を生き、その時代の構造と共に「ある」ので、あなたがたには、今日言われているような、aggiornamento(アジョルナメント、現代化)は必要ありません。というのも、あなたがたは常に、あらゆる時代の世界に対して理解と責任を伴った希望を持っており、一致と愛の心を常に持ちながら、人間の自由と尊厳の価値が肯定されるよう要求していくからです。

主は、私たちの召し出しによって、被造物に対する肯定的な見方とキリスト教固有の「世界への愛」を私たちが表明することを望まれました。あなたがたの仕事において、また地上の国を建設することにおいて、決して夢を失うべきではありません。同時に、「肉を欲情や欲望もろとも十字架につけた」[41]キリストの弟子として、すべてを人間の進歩と力に頼る「キリストの十字架に敵対する」[42]人々の偽りの楽観に対して、罪と寛大な償いの意識をしっかりと保つよう努めなさい。

このような人々は罪を忘れるという重大な罪を犯しています。この世には罪は存在しないと考える人さえいます。一粒の麦は実りをもたらすためには地に埋められ死ななければならないということが贖いの計画の一部分をなしていると考えないのです[43]。「彼らの行きつくところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」[44]

20. この深い謙遜(即ち、強さは戦車や馬という手段にではなく、私たちの神の名にこそあります[45])のうちに「恐れることなく」人間のあらゆる活動や組織に参加してください。キリストがそこに「いる」ためです。私は、私たちの働き方に聖書の、ubicumque fuerit corpus, illic congregabuntur et aquilae「死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ」[46]という言葉を当てはめました。なぜならば、万一、あなたがた一人ひとりが、自ら思いのままに、無精を決め込んだり、楽を求めたりして、社会の現在と未来がかかっている仕事や決定に加わる努力をしないなら、主なる神は私たちに厳しい決算報告を要求なさるからです。

私たちの召し出しに非常に固有な点は、賢明に(賢明であって臆病でありません)、積極的に、物静かに、目には見えなくても非常に効果的な行動をする天使たちのように、私的・公的の多様な協会や団体に参加することです。それは、地域的なものから国際的なものまで多岐にわたります。

あなたがたが、会議や学会、展示会、科学者あるいは労働者の集会、研究会、科学・文化・芸術・社会・経済・スポーツなどのあらゆる種類のイニシアティブに参加しないのは許しがたい怠慢です。ときには、あなたがた自身が主催することがあるでしょう。多くの場合、他の人が組織したものに参加するでしょう。いずれにせよ、受け身的な参加ではなく、責任という重荷(愛すべき重荷)を感じながら、あなたがたの名声・イニシアティブ・影響力によって自分がそこで必要な存在となるよう努力します。それは、あらゆる組織に、相応しい気品を与え、キリスト教的精神を吹き込むためです。

21. 個人として、グループを作らずに(あなたがたは皆、一人ひとり、現世のすべての事柄に関して制限なしの自由を享受しているのですから、グループを作ることはできません)、公的、あるいは私的な組織の中で積極的かつ効果的に働いてください。なぜなら人間の現世的な善と永遠の善は決して無関係ではないからです。例を挙げるならば、猟師協会や収集家のグループであっても、多くの善あるいは多くの悪をなすために活用され得るのです。すべては、団体を指揮する人やそれに着想を与える人にかかっているのです。

この領域では、各自が自由と責任をもって個人的に働くようにと勧めましたが、あなたがたの周りに、自分の代理あるいは後継者となりうる兄弟たちを育てる時、神に奉仕しているのだということを知っておいてください。そうすれば、あなたがたのうちの一人が欠けても、〈畑〉の一部が放置されるようなことはないでしょう。もちろん、兄弟たちを育て導くにあたり、彼らが持っている固有の傾向を歪めることがないようにします。

初代キリスト教徒の行動の仕方

22. 初代のキリスト教徒は上に述べたように振る舞いました。超自然の召し出しがあるからといって、社会的、あるいは人間的プログラムを持っていたわけではありません。しかし、一つの精神に満たされ、人生・世界に関する一つの見方を持っていたので、彼らが活動していた社会に影響を及ぼさずにはいられなかったのです。

私たちと同じような個人的な使徒職で、改宗者を出していました。聖パウロは牢にいる間、諸教会に「皇帝の家」[47]に住んでいる人たちからの挨拶を送っています。使徒がフィレモンに送ったあの手紙に感動しませんか。キリストのパン種がどのようにして、愛徳の影響を通して、(直接狙ったわけではないのですが)主従関係に新たな意味を与えるようになったかを生き生きと証ししています[48]

「私たちは昨日生まれたばかりである。しかるに、大きな都市や、島々、村々、自治体、議会、兵舎、民族、集まり、宮廷、元老院、広場など、あなたがたのいるところは、キリスト信者でいっぱいである。残されているのは、あなたがたの神殿だけだ」[49]と、1世紀が過ぎた後、テルトゥリアヌスが書いています。

23. 私の子たちよ、希望に満ちて元気一杯でいなさい。休まずに「平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか」[50]。「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」[51]

Filii huius prudentiores filiis lucis in generatione sua sunt、「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢く振る舞っている」[52]という主の嘆きを、自己を鼓舞するために、度々、思い起こしなさい。厳しい言葉ですが、とても的確です。残念ながら日々見られることです。

そうこうしているうちに、神と教会の敵たちは、組織づくりのために動き回っています。〈模範的な〉根気強さで幹部を育て、指導者や扇動者を育成する場を設け、それを維持し、密かに(しかし、効果的に)彼らの考えを撒き散らし、あらゆる宗教的思想を破壊する種を家庭や職場に運んでいます。

私の子たちよ、今、マルクス主義は、様々な形で活発に活動しています。個人的に叫び声を上げるというよりは、体系的に、絶え間なく宣伝を続け、あらゆる宗教的な要素を批判し、無神論に科学的な根拠を与えようとし、地上的な信仰と希望を作り上げ、それを真の信仰と希望と入れ替えようとしています。

私は、(教会が教えと両立し得ない考えとしてそれを幾度も排斥している)マルクス主義を歓迎するカトリック信者を理解できません。彼らは、神の敵に手を貸し、自分たちと同じように考えないカトリック信者を敵だと考えます。他の信者を悪く扱い、信者でない人々に見せかけの愛徳で接するカトリックは、大きな間違いを犯し、正義に反しています。彼らは偽の愛徳で誤ちを覆い隠しています。秩序のない愛は愛徳ではありません。

24. 私の子たちよ、「敵からの助言」[53]です。賢く、思慮深くあるように。眠りに陥らないでください。Hora est iam nos de somno surgere「怠惰を振り捨て、眠りから覚めるべき時です」[54]。かつて教会が栄えていた地方が、今は、キリストの名さえ聞くことができない荒れ野になっていることを忘れないでください。このような状況を、「歪んだ行間にも真っ直ぐな字を書くのも神のご計画のうちであり、そして最後には神が勝利するのだ」と考え、その失敗を正当化しようとするのは、安易な態度です。キリストは常に勝利者であることは事実です。しかし、多くの場合、私たちの過ちにも関わらず、です。

好戦的・攻撃的にならずに、in hoc pulcherrimo caritatis bello、この愛徳の美しい戦いにおいて、思いやりの心で皆を歓迎し、(イエス・キリストを知らない人や愛していない人が掲げる間違いに与することなく)すべての善意の人たちと協力します。同時に、主がこう仰せになったことを忘れないでください。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだと思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」[55]。人は容易にイエスの柔和のみに注目し、〈生活を複雑にする〉よう駆り立てる神の言葉を避けようとします。その言葉は、安楽志向や順応主義の邪魔になるからです。

豊富な善で悪を封じ、真理を守る

25. 一般的に、私たちは、他者に真実を告げ、真理を守ることが苦手です。というのは、皆から歓迎されるように、誰かに嫌な思いをさせないように努める方が楽だからです。私の子たちよ、私たちの振る舞いは、理解と愛情に満ちたものであるべきです。私たちの態度は、誰かへの反対を目指すのではなく、ましてや党派的なものでもありません。あふれんばかりの善で、悪を封じ込める努力をすることです。私たちの務めは否定的なものではなく、何かに反対することでもありません。肯定と若さ、喜びと平和です。ただし、真理を犠牲にしてでも、というわけにはいきません。

私たちは各々の自由な人格を育むので、オプス・デイにおける神の子は、自分で考えることができる人です。一過性の熱狂を生み出す、流行りのスローガンやうたい文句を、何も考えずに受け入れるわけではありません。受けたあらゆる形成のお陰で、私たちは良いものを選び、悪いものを捨てることができます。多くの場合(これまでほとんどいつもそうでした)流れに逆らって新しい道を切り開きつつ歩まなければならないでしょう。独創的になりたいからではなく、イエス・キリストとその教えに忠実でありたいからです。流れに任せることは容易です。しかし、そのような態度は、しばしば無責任の表れです。

確かに、あなたがたはいつも、同時代の人たちの考え方や習慣に沿って生きなければなりません。けれども、イエス・キリストにおいて「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるよう備えて」[56] いなければなりません。あなたがたが、イエスの弟子であることが分からないような状態は、受け入れられません。あなたがたは、すでに社会の中にいるのですから、順応する必要がないのです。順応に走る態度には、なんと感傷や恐れ、臆病に流される傾向があることでしょう。

26. 私の子たちよ、私の言葉の裏に、すべての人に対する大きな愛、人々のあらゆる種類の不安や問題に開かれた心、差別や排他的な態度を知らぬ理解に満ちた心以外のものを、見ないでください。私たちを、ひるまないように、すでに成し遂げたことに対して常に満足しないように、栄冠の上に惰眠をむさぼらないように駆り立てるのは(caritas enim Christi urget nos「キリストの愛がわたしたちを駆り立てている」[57])、恐れではなく(私たちは何をも誰をも、私たちの父である神をも恐れません)、いつか私たちが、共同の贖い者としての使命に関して、主である神に報告をしなければならないという責任感です。

「怠らず励み、霊に燃えて」[58] 時間を活用しなさい[59]。人生は短いからです。「今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう」[60]。この哀れな私たちの世を愛で満たしましょう。私たちのものなのですから。神が創造し、遺産として私たちに与えられたのです。Dabo tibi gentes hereditatem tuam et possessionem tuam terminos terrae「わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする」[61]。可能なことは誰にでもできます。そして私たちの主なる神は、不可能だと思えることを私たちが行うようお望みであるということに留意してください。神はそれを実現するための恩恵をくださいます。

27. 理想主義に留まらず、現実主義者でありなさい。偉大な事柄、働くための広大な領域、多くの活動と可能性を夢見ると、それらのことを眺めるだけで満足し、具体的な事(hodie, nunc「今日、今」)を忘れてしまうこともあり得ます。これら具体的な事柄こそ、いつの日か夢を実現させ得るものであることを忘れてはなりません。

この麗しい戦いにおいて、落ち着きを保ってください。不安に苛まれることは有害なことです。Corripite inquietos「怠けている者たちを戒めなさい」[62]とパウロはテサロニケの共同体に訓戒しています。「聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしているものがいるということです」[63]。そして、義務を果たすという唯一の手段を彼らに与えました。すべきことをなし、していることに集中する時、神の偉大なご計画を実現していることになるのです。使徒は続けて言います。「兄弟の皆さん、主イエス・キリストの愛に結ばれた者として、そのような人たちに命じ、勧めます。黙々と働いて、自分で稼いだパンを食べなさい」[64]

あらゆる人間的活動の頂点にキリストを置く

28. 主は、あなたがたの夢と活気にあふれた絶え間ない仕事に、どれほど期待しておられることでしょう。度々、感情が伴わずやる気が出ないことがあっても、あなたがたは、そのような仕事によって、この世のあらゆる活動をキリスト教的なものにしようと頑張っているのです。つまり、人間の諸活動の頂点にキリストを据えようとしているのです。

この仕事は、特に私のスーパーヌメラリである息子たちと、キリストの塩と光を自分の置かれた場所、つまり家庭や社会生活そして様々な職業にもたらすにあたり、(ときに男性以上にたくましい)スーパーヌメラリの娘たちのものです。

旧約聖書のあの場面、ユディトが敵軍に街を明け渡す心積もりの民と指導者たちの思いを変える場面を再読してください。聖書はこう言っています。「人々が町の指導者オジアを非難したことは、ユディトの耳にも入った。(…)それでユディトは、(…)町の長老のオジアとカブリスとカルミスを招いた。彼らがやって来るとユディトは言った。『ベトリアの住民の指導者である方々、どうかわたしの申し上げることをお聞きください。今日、人々の前であなたがたが言われたことは間違っています。(…)。いったいあなたがたは何者ですか。あなたがたは今日、神を試みたうえに、神に代わって人々の間に君臨しようとしているのです。 今、あなたがたが瀬踏みをしている相手は、全能の主です。いつまでたっても何も分かりはしないでしょう』」[65]。力に満ちた大胆なこの諌めは、超自然的で勇気のある良心に忠実な女性がキリストに関わることを守る時、社会の行方に大きな影響を(通常は静かに、目立たずに、でも非常に効果的なやり方で)与えることを示しています。また聖マリアと、あの聖なる婦人たちの強さをも黙想してください。彼女たちは、皆が臆病風に吹かれ、男性たちが逃げ去った時、果敢にも十字架のもとに踏みとどまっていたのです。

私の子たちよ、この良い精神を保つなら、使徒言行録にあるイエスの弟子に関する言葉が、あなたがたに当てはまるでしょう。「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた」[66]。あなたがたによって、目立たないけれども、確かに本物の奇跡が行われることでしょう。

29. 仕事や社会における生活、そして一般的に、現世に関するすべての事柄において、一人ひとりは自由と責任をもって振る舞い、素晴らしい多様性を保ちつつ、いつも良心に従いながら各自が意見を形成していきます。その際、教会やオプス・デイを巻き込まないでください。それはできません。というのも、あなたがたは「十全なる社会人としての考え方」( fully lay mentality)をもっており、それゆえ、自由の友だからです。そして、その自由はイエス・キリストの教理と倫理によって定められた事柄以外の制限を受けない自由です。

神の業(オプス・デイ)の目的と手段は現世的なものではなく、完全にそして専ら超自然的で霊的なものです。オプス・デイは、人間的な関心事、政治、経済などとは無関係です。その本質上、地上の社会を超越しており、それゆえ、決して特定の文化に錨を下ろすことも、具体的な政治体制に結びつくことも、歴史上のある特定の時代に繋がれることもありません。

ときに、オプス・デイは組織として使徒職的な事業を促進することがあります。それらの(教育、キリスト教広報、福祉などの)事業は、すべての人に知られ、また、カトリックではない人、あるいはキリスト者ではない人をも含め、すべての人に開かれています。いずれも、各国の法律の定めに従って運営されます。これらの事業は、教会の事業ではありません。なぜなら、それらは使徒職的な本質と目的を持っているとはいえ、専ら市民による職業的な活動だからです。

市民としての義務を生きるキリスト者の自覚

30. しかしながら、私たちオプス・デイが、現世の社会、経済あるいは社会事業、政治活動などの関心事と全く無縁であるという事実は、現世の社会を動かす精神(あるいはその欠如)に対して、関心がない意味ではありません。私たちは、人々が市民としての義務を明確に自覚し、それを人として、またキリスト者として正しく果たすことに関心があります。

子どもたちがキリスト教要理を学ぶ際、これらの義務についても問答形式で触れるべきだと、私は度々言ってきました。それは、幼年時代から、これらの事柄は神の掟であることを知性に刻みつけ、長じて大人になった時に、それを果たす責任を感じようになるためです。

31. 時々、主が神のものと皇帝のものを区別されたこと[67]についての誤解があります。キリストは、教会と国家という二つの法的な権威の領域を区別し、そのことにより、皇帝独裁と「聖職者主義」という有害な影響に対する予防を図りました。主は、司祭職に対する深い真実の愛である健全な「反聖職者主義」を教え(司祭職の高貴な使命が、この世の事柄や卑しい事柄と混ざり合い、その品位を落とすのは残念なことです)、神の教会の自治と、市民社会が享受する統治とその構造についての正当な自治を定めました。

しかし、キリストが定められた区別は、宗教を神殿(香部屋)に押し込めることでは全くありません。また人間的な事柄は、神とキリスト教の掟と関わりを持たない形で整備されなければならないということでもありません。なぜなら、それはキリストの信仰を否定することになるからです。信仰は、全人格的なキリストへの一致を要求し、そして人間は霊魂と体からなる個人であり、この個人は社会の一員だからです。

キリストのメッセージは個人的な信心の実践という狭い領域だけでなく、人間の生活全体を初めから終わりまで照らします。世俗主義は行いによる信仰の否定です。信仰によって、この世の自治は相対的なものであること、そしてこの世のすべての事柄の究極的な意味は神の栄光と人々の救いであるということが分かります。世俗主義はその信仰を否定するのです。

32. それゆえ、教会と同様にオプス・デイは(オプス・デイは教会の生きた器官の一つです)、人間社会に関心を持っています。社会の中には譲渡できないキリストの権利があり、それを守る必要があるからです。それはオプス・デイの全使徒職は、「教理を与えること」に要約できると言えるほどです。つまり、メンバー全員とその形成に与っている人々が、仕事を聖化し・仕事において自己を聖化し・仕事によって他者を聖化しながら、職業を通した使徒職活動を個人的に、市民として、行うために教理を与えるということです。

繰り返し言ってきたことですが、オプス・デイは、通常、外的には活動しません。あたかも存在していないかのようです。各国の法律を尊重し、その範囲内で働くのはメンバーたちです。オプス・デイの活動は、主に、そのメンバーに、霊的・教理的・使徒職的な深い形成を与えることです。

オプス・デイの活動は広大なカテケージス、広大な霊的指導のようなものです。たくさんの人の良心を照らし、導き、動かし、刺激し、励まします。それによって彼らがブルジョア化しないよう、キリスト信者としての尊厳を生き生きと保つよう、責任あるカトリック市民の諸義務を果たすようにするのです。

スーパーヌメラリの形成

33. スーパーヌメラリである私の子たちよ、オプス・デイがあなたがたに与える形成は柔軟性のあるものです。手になじむ手袋のように、あなたがたの個人的・社会的状況に適合します。あなたがたは霊的指導において話すにあたり、仕事や家庭、社会的義務の具体的状況をはっきり示さなければなりません。私たちの精神と修徳の手段は一つしかありませんが、それらを硬直化させずに各々の状況に合わせて実現させることができ、また実現させなればならないからです。

出遭う困難(それらは度々想像上のものです)を前にして、あなたがたの精神の自由と平和が決して乱れないよう、ディレクターに誠実に話してください。必ず解決策があります。私たちが受ける霊的形成は、複雑さや小心、内的な萎縮とは正反対のものであることを考慮してください。オプス・デイの精神は、心を自由にし、生活を単純にし、ねじれや複雑化を避けるようにしてくれます。自分を忘れて、寛大に他者のことを考えるようにしてくれます。

スーパーヌメラリは、形成を受けるため、例外的にヌメラリたちが家族生活をするセンターに行く必要があります。主があなたがたを招かれた場である職場や家や街中で、ディレクターや世話役(セラドール)と会うより慎みがあります。グループで形成を受けるために共同の使徒職のセンターに行くことは、慎みを欠くことにはなりません。それは、共同の使徒職はあらゆる人に対して完全に開かれているからです。

34. オプス・デイは、霊的・修徳的形成と共に堅固な教理的形成を与えます。これは、オプス・デイにおける神の子たちの「共通分母」(家庭的雰囲気)を、十全にするために欠かせないものです。あなたがたが、多くの人の知性に光を与え、ときに四方八方から来る攻撃から教会を守るためには、根本的なテーマについての基礎的な知識・理解を持っている必要があります。教義的・倫理的真理、キリスト信者の家庭と教育に求められている事柄、仕事・休息・私有財産の権利、結社や表現の自由などについての明確な知識・理解を持っている必要があります。このようにして、veritas liberabit vos「真理はあなたたちを自由にする」[68]という言葉の真理を、喜びを持って実感することができるでしょう。真理はあなたがたに喜びと平和、実りをもたらす力を与えてくれるからです。

年の研修会(それは、初期の熱意を保ち、宗教的教養を高め、使徒職に備えて自分を鍛えるための助けとなります)、サークル、講演会、専門的コースなどにおいて継続的な形で豊富に教理を学び、同時に、キリスト教的な観点から、現代社会の問題について知識を得ます。これらの形成をあなたがたは読書で補います。いつも皆さんが利用できる移動図書館があることでしょう。それに登録して活用し、メンバーでない人たちも登録するよう努めます。

あなたがたに与えられた教理を、自分のものにするよう熱心に励み、滞らないようにしてください。受けた形成を他者に伝える必要性と喜ばしい義務感を感じてください。それが他者の心においても、正しい意向に満ちた、良い行いとして実るように。

今述べた理由で、スーパーヌメラリの世話をするセンター委員会は、その仕事に献身する必要があります。というのも、誰一人として彼らが(誰一人として私の子が)、孤独を感じるようなことが決してあってはならないからです。休暇の時期や孤立状態を余儀なくされた時、どのように彼らに形成を提供するか、注意を払って事前に考えておかなければなりません。

兄弟の統治や指導の仕事を託されている私の子たちは、往々にして、個人的な仕事の輝きを放棄する必要があります。隠れた切石のように、より重要な仕事の基礎固めをするためです。この統治や形成の活動は、私たちの共同の使徒職に全面的に献身している他の兄弟たちの活動と同じように、常にプロフェッショナルな仕事であることを決して忘れてはなりません。

旅人よ、己が道を歩め

35. オプス・デイがメンバーに形成を与えるのは、各メンバーが社会において、職業の実践において、個人の自由をもって、キリスト者らしく行動するためです。オプス・デイのディレクターたちは、この世の事柄に関して、特定の意見を押し付けることは決してしません。繰り返します。あなたがた一人ひとりが、しっかりと形成された良心に従って、全く自由に行動します。

内戦が終わったばかりの1939年、バレンシアの近くで黙想会の指導をしました。場所は、戦時中共産党の兵舎として使われていた、大学の私立学生寮でした。ある廊下で、反体制派の人が書いた「旅人よ、己(おの)が道を歩め」という張り紙を見つけました。皆はそれを取り払いたかったのですが、私は止め、彼らに言いました。「そのままにしておきなさい。敵からの助言[69]だ。気に入った」。その時から特に、何度もこの言葉を説教のテーマとして活用しました。自由に、各自が、自分の道を歩め。キリストの教えが制限を示していない事柄について、唯一の基準をすべての人に強制することは、不条理で不当なことです。

現世的なすべての事柄において、全く自由です。世界の物事を秩序づけるために、キリスト教的な唯一の形式などないからです。社会的・科学的・経済的・政治的問題の解決策はたくさんあります。そして、それらは自然法と福音の教えを含む最小限の原理原則を尊重する限り、すべてキリスト教的な解決策なのです。

私の子たちよ、現世的な事柄において自由、そして教会においても自由です。私は根っからの(皆さんに何度も話してきたあの健全な)反聖職者主義で、私と同じ精神を持っている人もそうです。(司祭としての良い精神のない)聖職者主義的な環境において、あまりにも頻繁に、一致を口実に独占が行われます。人々を小さなグループに閉じ込め、信徒の良心の自由を脅かします(信徒は自身の霊的な指導や形成を探すにあたり、自身が望み、自身が最も適切であると判断したものを求めるべきです)。そして彼らは、すでに神と教会の掟は十分あるのに、否定的で不必要な掟を増やし、その掟を科せられた人に心理的負荷を加えます。

自由

36. 私の子たちよ、自由です。世俗の事柄に関して、オプス・デイからの指示を決して期待してはなりません。オプス・デイが霊的な子たちに与えている自由を脅かそうとする人は、私の精神を持っていない人で、それは、オプス・デイにおける神の子一人ひとりの個性を踏みにじることになります。

現世的諸問題に対して敏感であるべきなのは皆さんです。あなたがたは、受けた形成によって、自由に、諸問題を敏感に意識できる人になり、その結果、正しい基準で正しい方向に導くべく、人間の諸問題や不確かな社会状況に対して、自発的に反応します。他の市民と共に、歩む道に現れる現世的な問題に対して、良心に従って、勇気をもって人間的・キリスト教的な解決策を探すというリスクを取るのは皆さんの役割です。

オプス・デイがあなたがたに、すでに出来上がった解決策を与えることを期待しても無駄です。かつてそのようなことはなかったし、これからも決してそのようなことは起こりません。私たちの本質に反することだからです。オプス・デイは「家父長主義」ではありません。この言葉の意味は曖昧ですが、ここでは否定的な意味でこの言葉を使っています。皆さんのディレクターたちは、あなたがたが持っている反応力と率先力を信頼しています。彼らがあなたがたの手をとって導くことはありません。ところで、霊的な領域においては、彼らはあなたがたに対して父親・母親としての心を持ち、良い意味での「家父長主義的」な心を持っています。

それゆえ、オプス・デイで享受している自由ゆえに、私たちが、社会の中において、いわゆる圧力団体を形成することはあり得ません。ディレクターたちが、現世の問題について具体的な基準を示すようなことがあれば、別の考えを持っているオプス・デイの他のメンバーたちが、反発することは至極当然なことです。その時は、悲しいことですが、私はきっぱりと従うことを拒否する人たちを、祝福し、称賛しなければならないことでしょう。このような場合には、早急に地域委員会のディレクター、あるいはパドレに知らせるべきです。また私は、聖なる憤りをもって、ありもしない権限を振りかざそうとするディレクターたちを咎めなければならないでしょう。また私の子の誰かが(自らの自由を口実に)現世の事柄や自由に意見できる事柄に関して、個人的な基準を押し付けて、兄弟たちの正当な自由を制限するようなことがあれば、それは強い叱責に値します。

この明白なことを見ないように努め、なにか隠し事をしているのだと言い、ありもしない秘密を捏造する人は、おそらく、ex abundantia cordis「心にあふれていることから」そのようにするのでしょう。彼らはそのように行動しているからです。隠し事はこれまで存在したことがありませんし、今後も必要となることは決してありません。彼らは決して、私たちのように、顔をあげ他の人の目を明るい光で見ることができないでしょう。各自が個人的な惨めさを持っていたとしても、私たちには隠すものがないからです。その惨めさとは各自が内的生活において戦います。

37. ある人たちは、ここ31年の間、私たちの活動を嫉妬心のうちに見ていました。別の人たちは、余り好意的に見ませんでした。それは教会に対して、そしてすべての人々の善のために献身している人たちに対して、好意を持っていないからです。それに、幸いにも少数でしたが、聖職者主義によって、私の子たちの仕事が、本質的に世俗的なものであることを理解できない人もいました。また、主に仕える人たちには、主なる神が恩恵(固有の恩恵)を与えてくださることを知らなかったり、それを思い出すことを望まない人もいました。彼らは、オプス・デイの使徒職の熱意と広がりと効果を説明するために、全く偽りの人間的な理由を捏造しました。しかし私たちの目的は超自然的なもので、用いる手段もまた全く霊的で超自然的なもの、つまり祈りと犠牲そして聖化され聖化する仕事です。

他者の個人的な自由を尊重し理解することができない人がいます。彼らは、オプス・デイのメンバーは一つの全く霊的な共通目的を持っており、この目的においてのみ一致していること、そして、世俗の問題に関しては他の市民と同じく自由な市民であり、皆と仲良く共に生きるべきであることを理解できないようです。

先述した人々の中には、香部屋の閉鎖的な雰囲気から来た人がいます。彼らは、修道者が自分の意見を「所属している修道会の学派」に合わせたり、「上長の考え方」に合わせるのに慣れっこになっています。神の子たちの活動において私が誰をも排斥しなかったがゆえに、彼らは「この聖職者主義的な偏見から」、オプス・デイあるいは私個人に、(フリーメーソンと言わないまでも)王党派または共和派のレッテルを貼ろうとしました。

38. 私の子たちよ、あなたがたの使徒職的活動は、教会としての任務ではありません[70]。あなたがたの中の誰かがキリスト信者の会(associations of the faithful)の一員であっても、それ自体として不都合はありませんが、それは普通ではありません。オプス・デイは、あなたがたが特有の使徒職(神が私たちにお望みの使徒職)をするように形成を与えますが、その使徒職は宗教団体的な色合いを持つものではないからです[71]

私たちは、慎み深く、団体としての謙遜を生きています。なぜなら成功や勝利を誇示することなく、静かに働くので(しかし重ねて言いますが、謎めいたことや秘密っぽさなしにです。それは神に仕えるために不必要です)他のカトリック信者から注目されることはなく(なぜならあなたがたはカトリック信者の中の一人だからです)、良い種を蒔いたからといって拍手を受けることもありません。

しかし、特に農村部など、信者の団体(confraternities)や小教区の使徒職的団体に参加しないことが悪い印象を与える可能性のある地域においては、そのような団体に参加することができます。その際、それらを活気づけ盛り上げるよう努めますが、通常は役職に就くことはありません。ですから、キリスト信者の会を、残念ながら、独占的な野心を持って指導する人々は、自らの排他的独裁が奪い取られることを恐れる必要はありません。彼らの活動は彼らのものであり、私たちは、彼らと異なる、私たちの固有の方法で行動すべきだからです。

しかし、あなたがたはキリスト信者である以上、状況や「より高い使徒職の効果」が別の行動を促さない限り、社会が神に捧げる義務のある公の礼拝から遠ざからないでください。私はそのような礼拝が、共同体や家族、神の民の参加なしで催されているのを眺めて、苦しい思いをした事が何度もありました。私は、あなたがたが忠実であるならば、その公の礼拝が本物になること、大げさで極端なものにならずに、質素で格調のあるものになることを確信しています。

市民としての権利と義務を遂行することにおける使徒職

39. 私の子たちよ、あなたがたに繰り返したいと思います。あなたがたが実現する特有の使徒職は、福音と使徒的教えに即した、市民としての国への全面的で誠実な忠実さをもって行われます[72]。その際、法に忠実に従い、市民としてすべての義務を守り、義務の遂行から逃れません。また、共同体の善の中で、すべての権利を軽率に放棄することなく行使します。

この市民権の行使に関する聖パウロの生きた模範が、使徒言行録にあります。全くの誠実さの表れである、臆病な人には傲慢とも思えるような堅固さで、使徒は必要な時に自らがローマ市民であることを明らかにし、その権利を主張し、無為に謙遜を装うことなく、ローマ市民として扱うよう要求します。「ローマ帝国の市民権を持つわたしたちを、裁判にもかけずに公衆の面前で鞭打ってから投獄したのに、今ひそかに釈放しようとするのか。いや、それはいけない、高官たちが自分でここへ来て、わたしたちを連れ出すべきだ」[73]

このような毅然とした態度でフィリピの看守に話しました。そして、エルサレムで鞭打たれる寸前にパウロが護民官と交わした会話は、人としての気品に満ちた素晴らしいものです。「パウロを鞭で打つため、その両手を広げて縛ると、パウロは側に立っていた百人隊長に言った。『ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にかけずに鞭で打ってもよいのですか』。これを聞いた百人隊長は、千人隊長のところへ行って報告した。『どうなさいますか。あの男はローマ帝国の市民です』。千人隊長はパウロのところへ来て言った。『あなたはローマ帝国の市民なのか。わたしに言いなさい』。と言うとパウロは『そうです』と言った。千人隊長が『わたしは多額の金を出してこの市民権を得たのだ』と言うとパウロは『わたしは生まれながらのローマ帝国の市民です』と言った」[74]。私の子たちよ、コメントする必要はないでしょう。手本にしなさい。

40. 折にふれて強調しましたが、私的な領域への国家の介入という嘆かわしい現実が進行しています。これは市民を隷属状態に陥れ、彼らの正当な自由を奪います。国家は冷たく思いやりのないものですから、全体主義は最も厳しい封建主義よりいっそう悪いものに成り変わります。

他の諸々の理由はさておき、このようなことが起こるのは、大方、市民の消極性によるもの、かれらの聖なる人権を守ることに対する受け身的な態度によるものです。この行動の欠如は、知的怠惰や活力のない意思に由来するもので、カトリック市民の中にも見られます。彼らは、第六戒に反する罪の他に罪があることに、そしてそれよりも重い罪があることに、気づかないのです。

41. 娘たち、息子たちよ、神が私たちに委ねられた使命と全面的に世俗的な性格を持つ私たちの召し出しゆえに、人の世のどんな出来事やどんな任務にも無関心をかこつことはできません。それゆえ、繰り返しますが、生活における人との関わりから生じる社会的な活動の中ににあなたがたが「いる」必要があります。またはそこで直接あるいは間接的に影響力を持つことが必要です。あなたがたは、職業団体、保護者会、大家族会、労働組合、新聞社、芸術・文芸・スポーツの振興会などに活気を与え、それらに命を吹き込むべきです。

あなたがたの一人ひとりが自己の社会的立場に従って、そして個人的な状況に最も相応しいやり方で、これらの公共の活動に参加したらいいでしょう。もちろん、個人的に行動する場合においても、協力するに値すると考える市民のグループと共に行動する場合においても、あなたがたは全く自由に行動します。

今、話している公的な生活への参加とは、もちろん厳密な意味での政治活動のことではありません。私の子たちで、いわば「プロ」として政治に携わっているのは、ごく僅かです。私が話しているのは、市民としての義務を認識しているすべての人々に当てはまる活動のことです。あなたがたは、同胞の市民を駆り立てるあらゆる高貴な動機と同じ動機に動かされて、個人的な自由と責任をもって、行動するよう急き立てられていることを自覚しなければなりません。それに加えてあなたがたは、特に、使徒職の熱意と、すべての人間的活動に平和と理解をもたらす望みによって駆り立てられることしょう。

42. このように働き、同胞の市民と一体となり、彼らを動かし、人々の正当な望みを表していない物事が押し付けられることがないように世論を作り上げることによって、あなたがたは国内の法を、特に結婚・教育・公共の倫理・所有権に関するものなど国民の生活において鍵となる法を、キリスト教的な形に方向づけることができるでしょう。

家族の尊重が離婚に基づくような法が、キリスト教的な法と呼べるでしょうか。宗教の多様性を誇りにする社会が、一方で公教育で生徒の信仰に沿った宗教教育を受ける権利を認めないとはどんな理屈でしょうか。

私的所有権は(それは共通善によって制約を受けます)、自由を行使するための手段であり、人間の成長と家庭の発展のための土台の一つであることに気づきませんか。これらの権利が尊重されていない国は、カトリック的でも人間的でもない国です。あなたがたの前に広がる展望が見えますか。あなたがたは、これらの点やその他の重要な点においてしっかり戦わなければならないのです。

43. 協力者たちと共に積極的に働きなさい。恐れずに協力者を増やしなさい。数は多いほど良いのです。彼らの世話をし、形成を与えなさい。協力者たちが、いつもやるべきことを持っているようにしましょう。スポーツのトレーニングのように、彼らがいつも動いているようにしなさい。絶えずあなたがたの友人の輪をひろげ、種々のやり方で、彼らに教理と活力が届くようにしなさい。こうして、弱いように見えても効果的な、神的なネットが張り巡らされるでしょう。この良い使徒職的精神の熱意を保つなら、穏やかで力強い、計り知れない善が、全人類にもたらされるでしょう。

協力者となっている修道会(特に観想修道会)も祈りと隠れた生活で私たちを助けてくれます。彼らは世間の中で観想的に生きる私たちの精神を良く理解しています。彼らは世俗から離れて生きる観想者であり、私たちは市民社会に抱かれて、その中で生きる観想者です。これは同じイエス・キリストへの愛の二通りの(それぞれ固有で異なる形の)表れです。

私たちの間には、使徒職活動において力を合わせて気高い態度で働く、あるいは私たちが働けるように助ける、多くの友人や協力者がいます。そして中には主である神から離れていたり、未だ主に出会っていない人もいます。あの聖ペトロの言葉を黙想してください。Satagite ut, per bona opera, certam vestram vocationem et electionem faciatis「(良い行いを通して)、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい」[75]。私たちが兄弟のように愛しているこの友人たちが、その善良な仕事を続けるように励ましなさい。私たちが、いつも個人の自由を最大限尊重しつつ、祈りと忠実な友情で彼らを助けるなら、彼らの多くがキリスト教徒になるための恩恵を受けることを確信してください。

44. 私たちの使徒職の中核は、教理を与える[76]ことであることを忘れないでください。と言うのも、何度も話したように、無知は信仰の最大の敵だからです。聖パウロがローマ人にしたためています。「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、述べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう」[77]。教育活動は私たちの職業的活動の小さな一部分ですが、あなたがたはこの宣教の責任を感じるので、教職を(それが私的であれ公的であれ、個人のものであれ共同のものであれ、初等教育から高等教育まで)重要視します。

同じ理由から、世論を造り上げるメディアとなる、新聞、ラジオやテレビ、映画などに命を吹き込むよう努めなさい。このような職場で働いている人は、(サークルとか講演とかによって)小さなグループの人たちだけに教理を与えるのではなく、主のように「戸外で」大衆に向かって教えを宣べ伝えているのです。

宗教上のひどい無知があります。多くは私たちキリスト教徒の責任です。私たちが、日毎に技術的に向上し大きな影響を与えている、これらすべてのメディアを通して、教義を伝えないからです。そして、それらのメディアは多くの場合、神に反旗を翻す人たちによってコントロールされています。

間断なく真理を告げ知らせる

45. 私の子たちよ、世の中で最も悪いことは、ひどいことをしている人が、そのことに気づいていないことです。私たちを信じなかったり、信じたくなかったりする人がいるとしても、真理を、opportune, importune「折が良くても悪くても」[78]、休まず宣べ伝え続けなさい。Quidquid recipitur ad modum recipientis recipitur (器の受けとめ方によって受けられるものが決まる)[79]。それゆえ、信じないのです。私たちは彼らにカナの婚礼のブドウ酒を与えることができるでしょう。そのブドウ酒はイエスの最初の奇跡の証しであり、公におけるイエスの神性の初めての現れでした。そのブドウ酒も、彼らの良心に注がれると酢に変わってしまうことでしょう。しかし真理を述べつつ良いブドウ酒を与え続けましょう。私たち一人ひとりは、ipuse Chrsitus(キリスト自身)なのですから、イエスのように言えるようになるべきです。「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」[80]

私の子たちよ、「偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです」[81]。私たちにも経験があります。ここで「私たち」と言うのがぴったりです。悪口、嘘、誹謗中傷。私たち自身の肉でその苦しみを経験しました。ときにはそのようなものが、司祭も含めたカトリック信者によって引き起こされ、大波のように押し寄せてきました。Omnia in bonum!(オムニア・イン・ボヌム、すべては善のために)。あふれたナイル川が泥によって土地を肥沃にしたように、私の子たちよ、あのごみの大波は私たちに多くの実りをもたらしたのです。

46. あなたがたの友だちや同僚たちと定期的に小さな団欒(特に興味深いのはメディアで働いている人々との団欒)を持つことを疎かにしないでください。団欒において、今の世の中についてのテーマが取り上げられるよう努め、会話において、そのテーマに対する適切な判断基準を「言葉の賜物」によって示すようにしてください。オフィスや公共の場において、適宜人々との会話が生まれるようにしてください。

真理を伝え良い種を蒔くチャンスを失わずに、その機会を増やすことです。「時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう」[82]

あの私の子たちのことを喜びのうちに考えます。すなわち、新聞や雑誌の売店で働いている子たち、新聞の社説や記事を執筆している子たち、グラフィックデザインの会社に務める子たち、そして他に、外見上慎ましくても、自己の仕事によって、日々、多くの人と出会うチャンスのある私の子たちのことです。

47. 父母の皆さん、健全で楽しい娯楽を奨励してください。それが厳格でつまらないものにならないように、また、キリスト教倫理に反する世俗的な雰囲気からは遠く離れたものであるようにしましょう。このような集いから、あなたがたの子どもたちの間で結ばれる夫婦が生まれ(主は祝福されることでしょう)、彼らはあなたがたの「明るく喜びに満ちた」家庭で学んだ幸福と平和を受け継ぐでしょう。

この娯楽の使徒職の分野において、あなたがたが市民としての行動によって守らなければならない大事なポイントは、公共の興行物の倫理性であることを忘れないでください。放縦な集団的雰囲気の中で過ごす若者が、キリスト教的な家庭を築くことは容易ではありません。

あらゆる誠実な仕事は、キリスト教精神と使徒職によって方向づけることができる

48. 経済・金融界は使徒職活動の対象にはならないと考えるのは間違いです。この考えは、聖職者主義的な雰囲気から来た人々の間で広く行き渡っています。彼らの中には矛盾を抱えている人も少なからずいます。つまり、この同じ人々が、教会の庇護のもとで、彼らが「カトリック信者である」という理由で信頼され、商売や企業において他人の多額の資金を取り扱っているのです。このような人々について、ある人は悪意からではないにしても、「彼らは天に目を向けながら、手はどこへでも伸ばす」と言いました。経済活動に対する遠慮と用心は、キリスト教的ではありません。なぜなら、それは聖化されるべきもう一つの仕事だからです。

しかし、この警戒心は、カトリック信者の間に大きな影響を与え続けています。そのため、経済界での仕事で善を行えるにもかかわらず、そこに入ることをためらった人が少なからず存在します。あるいは、良心に咎めを感じながらその仕事に携わった人がいます。そうでない場合、この分野の事業は、教会に敵対し霊魂に多大な害を与える者たちの手中に落ちました。

この考え方がどれほど浸透していたかは、教会に伝わる面白い敬虔な考察を読めばわかります。もちろん、当時の考え方や環境を考慮に入れれば、そのように書かれたことも理解できますが、いずれにせよ、そこには次のように書いてあります。ペトロは主の復活の後、漁師の仕事に戻ることができた。それは漁が誠実な仕事だったから。しかし、マタイは以前の職業に戻ることがゆるされなかった。それは、大罪を犯す危険なしに、あるいは単に罪を犯さずにはできない仕事があり、マタイの仕事は、まさにそういうものだったからだと[83]

Contemptus saeculi(世俗蔑視)を表明する人々から生まれたこの誤った考えは、改めなければなりません。信徒としての精神(lay mentality)を生きるあなたがたにとって、商売や金融が悪いことであるなどとは、全く考えられないことです。あなたがたはこれらの仕事を、他の人たちと同様に、超自然的なものにすることができ、そして、それらをキリスト教的精神と使徒職によって方向づけることができます。

49. このようなテーマについて話しているので付け加えますが、残念ながら、経済の領域における私たちの活動について人々が言っていることは真実ではなく、実のところ、そのような活動はほぼ皆無です。私たちの活動は貧しい大家族の生活と発展のための普通のものです。その活動が1000倍あったらどんなに良いことでしょう。

形態がどうであろうとあらゆる組織は、その目的を果たすため、経済的な基盤が必要です。私たちについての陰口が真実であったらどんなに良いことでしょう。しかし、たとえそれが真実であったとしても、オプス・デイは貧しく、そしていつも貧しいことでしょう。というのは、世界中で多くの使徒職的活動を維持しなければならないからです。そのための資金不足を補わなければなりません。オプス・デイは、メンバーたちの形成の面倒を生涯にわたって見なければならず、それには資金が必要だからです。また、病気や高齢のメンバーの面倒も見なければなりません。そして、日毎に多くなる、生活維持のため経済的助けが必要な、高齢または病気のメンバーの親を援助するという幸いなる重荷もあります。

いずれにせよ、そのような経済的な活動があるならば(ないならできるだけ早く始めるべきです)、それは常にそれぞれの国の法律を尊重して行われ、善き市民として分担金や税金を払います。特別扱いを受けることを私たちは望みませんし、また、それは「私たちのやり方」でもありません。

50. ときに、このような中傷を行う人々は公的なグループに属しており、国民の意志に反して、集めた税金を分配しています。それと同時に、彼らは私たちが息をすることができないようにしようとしています。福祉事業、教育事業、文化事業、キリスト教広報事業を維持しそれを発展させるため、貧しい生き方をする私たちに、仕事をする権利も献身する権利も与えられないようにしようとしています。彼らは自由の敵(もちろん、彼ら以外の人々の自由の敵)であり、市民の間で差別を行おうとしています。

例えば宗教、芸術、スポーツ、文化など、どのような種類の団体であれ、目的遂行のための手段を支えるために資金を持ち、それを動かす必要があります。この点で躓く人がいるならば、その人は非常識であると言わざるを得ません。

宗教的な団体について話す時、 英国外国聖書協会(The British and Foreign Bible Society)あるいは銀行や保険会社などを有する救世軍(Salvation Army)の例がすぐに思い浮かびます[84]。このことで躓く人は誰一人いません。宣教や慈善活動のためにそれらの手段が必要なのです。多くの国で、これらの宗教的な団体の経済的な活動は批判されないだけでなく、その社会的な仕事ゆえ税も免除されています。

公的機関が私たちに融資をしたり、さらには補助金や助成金を与えることは正義に叶っています。そのような時、公的機関は自らの義務を果たしているにすぎません。というのは、私たちは、社会的な仕事によって、当局の義務の一部を負担しているからです。同じように、当局が他の文化事業や慈善事業をを援助する時も、正義に叶ったことを行っているにすぎません。

奉仕の精神

51. 「神の仕事」を意味するオプス・デイ(Opus Dei、operatio Dei)は、すべてのメンバーに働くことを要求します。なぜなら、仕事は聖化と使徒職の手段だからです。そのため、全世界で無数の人々が、カトリックであってもなくても、キリスト者であってもなくても、私たちのオプス・デイに感心し、オプス・デイを愛し、愛情を持って助けています。このことについて私たちは主に感謝します。

あなたがたの中には、完全な自由と個人的な責任を持って、政治活動を職業とする人もいます。その人は、祖国の政治に携わるのに十分な知識や才能があると自覚し、政治に携わろうと決めました。市民社会の中で政治に携わる人が少数であるのと同様に、そういうメンバーは決して多くありません。また、この世俗社会で働くオプス・デイの他のすべてのメンバーと同様に、政治家として働く時、カトリック信者やオプス・デイのメンバーという身分を振りかざすことも、また教会を利用することも、オプス・デイを利用することもありません。なぜなら、移り変わるこの世の問題に、神の教会もオプス・デイも巻き込むことはできないと、よく知っているからです。政治の世界で働く際、カトリック信者である私たちが望む社会は、市民の自由を認める(誰もが国家の前に同じ義務と同じ権利を持つ)けれど、社会の共通善を獲得するために、皆が心を一つにして働く社会であることを、忘れてはなりません。その共通善獲得のために、教会の教えの不変の源泉である、福音書の諸原則を適応するのです。

あなたがたは、政治家として働く権利を完全に持っています。もし、ある国家が、オプス・デイのメンバーが政治家になることに邪魔だてするなら、他のキリスト信者の会のメンバーに対しても、同じようにしなければならないでしょう。そして、同じ理由(カトリック信徒が教会当局に払うべき従順)から、当然すべての信者に同じ邪魔だてをするでしょう。そのような行為は、信仰を実践している信者が、世俗社会の中で持っている権利と責任を否定することになります。信仰を生きる信者を、下等の市民として扱うのは不正ですが、現代社会ではこの種の差別の例に欠けることはありません。

政治が自分の天職と考える人たちは、堂々とその道を進みなさい。もしそうしなければ、怠りの罪を犯すことになると考えなさい。政治家として、プロ意識をもって働きなさい。あなたの国のすべての国民にキリスト教的に奉仕することを考え、すべての国が一致協力することを夢見て、有能な政治家になるよう努めてください。

聖人となった統治者を記念するミサの典礼文(この世から離れた人々によって作られた)の中で、聖人が、pietate magis quam imperio、王としての権威よりも信心深さをもって、正しい命令よりも愛情によって国を統治したと称賛されていますが、それは聖職者主義的な考え方の現れです。

あなたがたは、自分の使命を正しい意向をもって、超自然の見方を失うことなく、遂行しなさい。しかし、神のことと人間のことを混同してはなりません。人間として果たさなければならないことを果たしなさい。神によって創造された世界には、独自の原理と法があり、それを〈天使的〉な態度によって踏みにじってはいけないことを忘れないでください。私の子どもに対する最悪の称賛は「彼は天使のようだ」というものです。私たちは人間であって天使ではありません。

52. 政治の世界で働いていた者は、どんな体制の下でも働き続ける必要性を感じてください。キリスト教的な考えとは遠く離れた体制の下でも、働くようにしてください。ただし、その国の教会当局がカトリック信者に異なる指針を打ち出している場合は別です。カトリック信者でない人たちによって、国の政治が独占されることを認めてはなりません。教会に対して最も攻撃的な体制の下でも、(もしあなたがたが働いていたら)よりひどい悪が起こるのを防ぐことができるでしょう。

どんな体制においても、この〈畑〉を放棄しないことが重要です[85]。ただし、それによって不当に「体制の協力者」というレッテルを貼られることのないようにしてください。私の子たちよ、多数がカトリックの国において、信仰を実践する責任感のあるカトリック信者が、したがって様々なキリスト信者の会のメンバーが、政府にいないのは理解できないことです。もしそうでないならば、そのカトリック信者たちは、信仰を実践しておらず、責任感も持っておらず、カトリックとも呼べないと言えるでしょう。または教会が迫害されているのかのどちらかです。

政府の仕事に参加する時は、市民が果たすことのできる正義にかなった法を作ることに全力を傾けてください。不正な法を公布することは、権力の乱用であり、国民の自由の侵害です。それだけでなく、それは人々の良心を混乱させます。そのような場合、国民は不正な法を守らないという権利を持っています。

共通善には共同体の全成員が参与すべきであることを忘れず、全市民の自由を尊重しなさい。すべての人に生活水準を高める可能性を与え、一部の人を高めるために他の人が卑しめられることがないようにしなさい。最も恵まれていない人々が、自分たちの未来に明るい展望を持てるようにしなさい。すなわち、彼らが、正当な給与を受給できる安定した仕事を手に入れ、文化的恩恵を等しく受けることができるように。なぜならそれは、正義に叶ったことで、彼らの人生に光をもたらし、内面を変え、神やより高い現実の探求を容易にするからです。私の心の子たちよ、しかしながら、最も悲惨なのは、霊的な貧しさ、教理を知らないこと、キリストの命に与れないことです。このことを忘れないでください。

結婚は地上における神への道

53. スーパーヌメラリである私の子たちよ、今、結婚という「偉大な秘跡(sacramentum magnum)」[86]から生まれたあなたがたの家族・家庭について考えています。前世紀に行われた、家族を破壊する運動がいまだに続いている現今、私たちオプス・デイは、社会のキリスト教的細胞(家族)に聖性への熱意を与えるために来たのです。

あなたがたの第一の使徒職は家庭にあります。オプス・デイが与える形成によって、あなたがたは家族の素晴らしさ・美しさを認識し、家庭を築くことが超自然的な仕事であること、夫婦の義務が聖性の源泉であることを見出します。結婚の召し出し(そう、これは召し出しです)の偉大さを自覚しながらも、使徒的独身の召し出しに対して特別の尊敬の念と深い愛情を感じるでしょう。あなたがたは使徒的独身の召し出しが、結婚のそれより優れていることを知っています[87]。それゆえに、あなたがたの子どもの誰かが、神の恩恵に助けられて別の道を選んだなら、心の底から喜ぶでしょう。それはあなたがたにとって「犠牲」ではなく、善き神がなさった選び、聖なる誇りの理由、イエス・キリストへの愛によって喜んですべての人に仕えることです。

普通、学校において、たとえそれが修道会が経営するものであっても、若者たちが結婚の尊厳と清さを理解するように教えられることはありません。あなたがたも知っているでしょうが、高校の最終学年の生徒たちに行われる黙想会では、結婚よりも修道士・修道女への召し出しの可能性について考えることに重点が置かれことがよくあります。また結婚生活を軽視する人もいます。その結果、若者たちが結婚を、教会が単に許容しているだけのものと、誤解する危険もあります。

オプス・デイでは、いつもこれとは異なる教え方をしてきました。神の国のための独身が、結婚よりも優れていることをはっきり示した上で、結婚もこの地上での聖なる道であると教えてきました。この方針をとることは、悪い結果を生み出しませんでした。なぜなら、真理は人を自由にするからです。若者は非常に寛大な心をもっており、自由に神への愛を選ぶにあたり、肉を超えて高く飛ぶことができるからです。

私たちは男女の愛を恐れません。私たちの両親の聖なる愛、神はそれを使って私たちに命をお与えになりました。私はこの愛を両手で祝福します。私の子が、聖なる結婚の秘跡への大きな愛を持たないことは許されません。それゆえ、男女の清い愛の歌を憚ることなく称えます。それは、「人間の愛を称え神への愛を表現する歌」[88]でもあります。神への愛のために、この世でその愛を放棄した私たちは、独り者ではありません。愛する心を持つ人です。

54. 神から家庭を築くように呼ばれた私の子たちに言います。互いに愛し合い、恋人だった時持っていたワクワクするような愛をいつまでも持ち続けるように。人生につきものの困難や逆境が始まれば喜びは終わると考える人は、理想であり召し出しである結婚について、惨めな概念しか持っていません。

実はその時こそ、愛は強まり、死よりも強くなるのです。 Fortis est ut mors dilectio「愛は死のように強(い)」[89]。悲しみや困難がどっと押し寄せても、それらは真の愛を消し去ることはできません。夫婦が一緒になって寛大に犠牲を分かつ時、二人は一層強く結ばれます。 Aquae multae non potuerunt extinguere caritatem「大水も愛を消すことはできない」[90]。無数の困難は、それが物理的であろうが、精神的であろうが、愛を消し去ることはできません。

あなたがたの結婚は、通常、子どもに恵まれることでしょう。もし神が子どもをお与えにならないなら、あなたがたのエネルギーをより熱心に使徒職に注ぎなさい。そのことによってあなたがたは素晴らしい霊的な豊かさを得るでしょう。主はキリスト教的家族を子どもという冠で飾られるのが普通であると私は何度も言いました。いつも子どもを喜びと感謝の気持ちで受け入れなさい。なぜなら、子どもたちは神の贈り物であり、祝福であり、神がいかにあなたがたを信頼されているかの証拠だからです。

55. 子どもを生む能力は、神の創造の業に参加するようなものです。ちょうど人間の知性が神の知性の閃光のようなものであるように。命の泉を枯らさないでください。恐れないでください。偽の経済的、社会的、または科学的な理由で、出産制限の必要性を正当化しようとする理論は、キリスト教的でも人間的でもなく、犯罪的です。それらの理論は、真面目に分析すれば、すぐに崩壊します。それらは臆病のなせるわざです、私の子たちよ。それらは、臆病と、正当化できないものを正当化しようとする試みです。

これらのアイデアが、しばしば、司祭や修道者から来ることは残念なことです。彼らは、呼ばれていないのに無分別に問題に首を突っ込んでいます。それは、ときに病的な好奇心の表れであり、教会への愛が欠如していることの証です。というのは、主は結婚の秘跡を、キリストの神秘体の成長と拡大のための手段として、定められたからです。

信者の家庭の子どもの数が減ると、司祭や、イエス・キリストへの奉仕のために人生を捧げようとする人の数も、減ることになると確信してください。私は、神から一人の子どもしか授からなかったにもかかわらず、その一人の子どもを寛大に神に捧げた夫婦を少なからず知っています。しかし、そのようにする人は多くはありません。子沢山の家族の場合、神の召し出しの偉大さを理解するのはより易しく、その子どもたちの中から、あらゆる身分と道を選ぶ者が出てきます。

56. 寛大になり、子沢山の家庭の喜びと堅固さを感じてください。子供を望まない夫婦を、私は恥ずかしく思います。子供を望まないなら、禁欲しなさい。夫婦に対し、妊娠の可能性がある時期における夫婦行為を控えるよう勧めるのは、キリスト教的ではないと思いますし、正直にそう言います[91]

確かにある具体的な事例において、常に医者と司祭と相談の上、そうすることはできますし、そうしないといけないこともあるでしょう。しかし、このやり方を、一般的な規則として勧めることはできません。非常にきつい言葉になりますが、もし自分が、両親の清い愛の実りではなく、親の意志に反して生まれてきたと知ったならば、少なくない人たちが、親の墓につばを吐きかけに行くことでしょう[92]。神のおかげで、私たちは、一般的に、キリスト教的家族の中に生まれました。このことを主に感謝すべきです。私たちは、大方、この家族に召し出しを負っています。

出産制限の考えが幅広く広まっている国で働いていたある私の息子が、この問題について質問した人に対して、冗談でこう答えたことを覚えています。「このようにして、そう遠くない未来、この世界には黒人とカトリック信者以外いなくなるだろう」[93]と。しかし、このことをカトリックが少数派である国々に暮らすカトリック信者は理解しません。なぜならキリスト教的結婚が、通常の摂理において主が定められた、神の民が成長するための手段であるという事実(深い神学的基盤のある事実)について深く考えないからです。

それに反して(もっと賢い)キリストの敵たちは、もっと常識的です。共産主義国家では、生命の法則と人間の生む力の重要性を日に日に理解するようになっています。そして、それらを決定的な要素としてイデオロギーと政治の計画の中に組み込んでいます。

明るく喜びに満ちた家庭

57. 私がいつも「明るく喜びに満ちた」という形容詞をつけるあなたがたの家庭では、子どもたちの超自然的徳と人間徳が、自由と喜びと犠牲の雰囲気の中で、育てられることでしょう。このような家庭を、私はオプス・デイの使徒職的学校と呼びましたが、そこからどれほど多くのオプス・デイへの召し出しが生まれることでしょう!私の大きな喜びの一つは、はるか昔に見たある若者の顔に似た顔を見ることです。その子にこう質問します。「君の名前は?君は某君の子供ではないかね」と。そして「はい」という答が返ってくる時、私は心を天にあげて喜び、神に感謝します。

結婚生活の幸福の秘訣は、日常的なことにあります。そこに隠れている喜びを見つけることです。例えば、帰宅すること、子供の教育、家族全員が協力してする仕事。また家庭をより快適なものにし、教育をより効果的にし、家庭生活をより簡単にする、現代文明が提供するあらゆる進歩を活用すること(あなたがたの家は決して修道院のような佇まいでないように。もしそうならそれは普通ではありません)。このようなことに隠れている喜びを見つけることです。

58. またあなたがたは、オプス・デイのメンバーの家族で、神への奉仕に身を捧げるという道を理解できない人々を助けます(そのような人は少数です)。彼らはオプス・デイにおける神の子の父親・母親になるよう呼ばれるという計り知れない神の好意を受けました。あなたがたは、彼らがこのことについて神に感謝するようになるように助けます。彼らは、まさか自分の子どもが神に身を捧げるとは夢にも思ったことがなく、それどころか、それとはかなり異なった人生計画を子どものために作っていました。そして、多くの場合高貴だが地上的な彼らの計画が潰されるとは思っていなかったのです。いずれにしても、私の長年の経験によると、最初は子どもの召し出しを喜んで受け入れなかった親も、最後には降参し、祈りの生活を始め、教会に近づき、ついにはオプス・デイを愛するようになります。

神のおかげで、上述の考察にもかかわらず、自分たちの家族の一員の召し出しに対して、超自然的かつキリスト教的に反応し、援助を行い、スーパーヌメラリとなる、あるいは少なくとも熱心な協力者になる家族(親、兄弟、親族)の数は日に日に増えています。

私の子たちの母親・父親と話す時、私はよくこう言います。「あなたがたの親としての使命は終わっていません。彼らが聖人になるように助けなければなりません。どのようにしてですか。それはあなたがたが聖人になることによってです。彼らと私が聖人になるのを助けることによって、あなたがたは親としての使命を果たしているのです。あえて言わせてください。オプス・デイの誇りと冠は母親・父親のあなたがたです。あなたがたは自分の心の一部を教会への奉仕に捧げたのですから」と。

使命を果たすための大胆さ

59. 私の愛する子たちよ、これで終わります。あなたがたが、主の呼びかけに忠実でありたいと強く望んでいることを知っていますが、「もう一度思い起こさせようとして、所々かなり思いきって書きました」[94]

自分を捧げ、自分の行為に責任を持つことを恐れずに、大胆に使命を果たしてください。人間というものはすぐに自由の行使を恐れます。何においても、すでに決まったやり方に従う方を好みます。これは逆説的ですが、人間はしばしば(自由を放棄して)定まったやり方を求めますが、それは危険を冒すことを恐れるからです。

オプス・デイは、あなたがたが、各自、自分の環境の中で、勇気をもって、積極的に、イニシアティブを持って、周囲に影響を与え、最前線で戦う男女になるように形成を与えています。あなたがたは、この形成に対して、やる気と努力をもって応えねばなりません。あなたがたの決意がなければ、ふんだんな霊的手段も何の役にも立たないでしょう。よく昔の短剣に刻まれていたあの言葉を思い出してください。「もしお前に勇気がないなら、私を信頼するな」。

毅然とした態度を取りなさい。くじけず頑固でありなさい。なぜなら、決定的でどうしようもないことは一つもないからです。誰をも理解するよう努めなさい。特にカトリック信者の一致のため、尽力しなさい。「だが互にかみ合い、共食いしているなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい」[95]と、聖パウロは言いました。私たちカトリック信者は、互いに知り合い、愛し合わなければなりません。

60. すべての人に、あなたがたのキリスト教的な質素な生活と犠牲の模範を示しなさい。主は言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て(なさい)」[96]。主は、ぶどうのように桶の中で足で踏まれ、潰されることの豊かさを、私たちに教えてくださいました。それはキリストのぶどう酒になるためでした。

どんな時でも落ち着きを失わないように。決して暴力的や攻撃的になったり、激高したりしないように。その落ち着きは枢要徳の実践の結果です。神の子であることを自覚するなら、その落ち着きを得ることができるでしょう。なぜならこの私たちの精神の典型的な特徴は、オプス・デイと共に生まれ、1931年に形をとったからです[97]。それは、人間的には困難極まる時でした。しかし不可能なこと(今はそれが実現したことを見ていますが)を前に、それができるという安心感がありました。主が、なにか強制的な力をもって、私の心と口に「Abba! Pater!(アッバ!パーテル!おとうさん!)」という柔和な呼びかけが生じるよう働かれていることを感じました。私は街の中、市電に乗っていました。街は、私たちの神との観想的対話を妨げません。世間の喧騒は、私たちにとって祈りの場です。私はおそらく、声に出してあの祈りをしていました。周りにいた人は、私を気が狂った人だと思ったに違いありません。「Abba! Pater!」。すべてをご存じで、何でもおできになる御父の子どもであると感じることは、なんという信頼、なんという安らぎ、なんという楽観をあなたがたに与えてくれることでしょう。

私の子たちよ、「なおいっそう励むように勧めます。そして、わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。そうすれば、外部の人々に対して品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないで済むでしょう。キリストの平和があなたがたの心を支配するように」[98]

あなたがたのパドレより心から祝福を送ります。

ローマ、1959年1月9日


[1] この手紙の批判版は、Studia et Documenta 17 (2023), pp. 279–351に掲載されている。

[2] ホセマリア・エスクリバー・デ・バラゲルより教皇ピウス十二世への手紙、1948年2月2日(Carta de Josemaría Escrivá de Balaguer al papa Pío XII, 2 de febrero de 1948, en AGP, serie L.1.1, 10–1–15, en el n.º 342, 3 de los Addenda a las Constitutiones〈en AGP, serie L.1.1, 10–1–17〉)。

[3] ルカ12・49参照。

[4] コロサイ2・14参照。

[5] 一コリント6・20、一ペトロ1・18-19参照。

[6] ローマ8・31-32、38-39。

[7] ガラテヤ3・28、コロサイ3・11参照。

[8] ルカ14・15-24参照。

[9] コロサイ1・24。

[10] 詩篇145(144)・21。

[11] ヨハネ18・6参照。

[12] マタイ13・24-30参照。

[13] 黙示録21・1-2参照。

[14] 黙示録17・14。

[15] 二テサロニケ2・3-4、黙示録13・1-7参照。

[16] マルコ10・32。

[17] ルカ12・50。

[18] マルコ10・38。

[19] マルコ10・39。

[20] ユダ19。

[21] 一コリント2・14。

[22] 黙示録 21・6参照。

[23] ヘブライ13・8。

[24] イザヤ10・21-22。

[25] イザヤ 24・13参照。

[26] ローマ11・5。

[27] ルカ12・49、サムエル上3・8。

[28] マルコ8・2。

[29] ルカ4・40。

[30] 創世記27・27参照。

[31] トレント公会議(1563年11月11日第24総会「婚姻の秘跡についての規定」10条)。(編者注)

[32] 聖ホセマリアは、知識人たちの社会に及ぼす影響が大きいので、彼らの間にキリスト教的な影響を与えることをオプス・デイ特有の目的の一つに数えていたが(ホセ・ルイス・ゴンザレス・グジョン、ジョン・F・カバデル『オプス・デイの歴史』〈José Luis González Gullón — John F. Coverdale, Historia del Opus Dei, Madrid, Rialp, 2021, p. 56, nota〉参照)、創立当初から、「私たちは大勢の人のためであり、決して大衆に背を向けて生きることはない」(ホセマリア・エスクリバーからフランシスコ・モランへの手紙〈Carta de Josemaría Escrivá a Francisco Morán, Burgos 4 de abril de 1938, en Camino, ed. crítico-histórica, op. cit., p. 250〉)と強調していた。保存されている最も古い文書から、労働者、芸術家、看護士等、あらゆる職業と社会的地位の人に近づこうとする聖ホセマリアの熱意が伝わってくる。エスクリバー神父は、彼らの中からオプス・デイへの所属を望む人が出て来ることを予見していた。例えば、『内的考察』373番(1931年11月3日)には、次の言葉が記されている。「神の助けと聴罪司祭の承諾で、早い時期に選り抜きの労働者の小さなグループができるよう努めよう」(ルイス・カノ「初期のオプス・デイのスーパーヌメラリ(1930-1950)」〈Luis Cano, “Los primeros supernumerarios del Opus Dei (1930–1950)”, en Santiago Martínez Sánchez e Fernando Crovetto (ed.), El Opus Dei. Metodología, mujeres y relatos, Thomsom Reuters Aranzadi, Pamplona, 2021, p. 379〉より引用)。(編者注)

[33] 一コリント7・20-24。

[34]「専門化あるいは特定化された目的」:長年、世俗的な領域の使徒職において、信徒を様々な小教区の活動への協力へと導くカトリック・アクションの伝統的な中央集権的モデルに倣うことが良いのか、それとも社会問題のある領域にカトリック活動家を組み入れる「専門化された」モデルが良いのかが議論されていた。創立者によると、オプス・デイにとってすべての誠実な仕事や活動が使徒職の道具である。それゆえ、オプス・デイには人間生活に固有な「あらゆる『専門』がある」。(編者注)

[35] 著者は、世界におけるオプス・デイの信徒の使徒職は、彼らの「教会における自らの使命」であり、それは「世俗的な職業における召し出し」を通して体を成すことを指摘する。即ち、それは世界において修道者が献身的に推進している使徒職に入り込むことでも、それらの使徒職に対して優劣を問うものでもなく、単に種類の異なる使徒職であるという指摘である。なぜならオプス・デイの信徒の使徒職は奉献生活への召し出しから生じるものではなく、神がすべての人を宣教するキリストの弟子に招く洗礼から生じるものだからである。(編者注)

[36] 実際には、社会的・使徒職的観点から見ると、諸々の運動との相違は僅かである。聖ホセマリアがここで指摘する相違は、オプス・デイの司牧現象と交わり、そしてその内部の位階制が全世界的であるという点にある。しかしこの指摘は、世界における聖性・福音宣教・教会への奉仕・交わりと兄弟愛のおける絆という熱意を同じく共有する人々と距離を取ることを意味するものではない。(編者注)

[37] エフェソ 5・8-9。

[38] ヨハネ 11・39。

[39] フィリピ 4・8。

[40] コロサイ 3・17。

[41] ガラテヤ5・24。

[42] フィリピ3・18。

[43] ヨハネ12・24参照。

[44] フィリピ 3・19-21。

[45] 詩編 20 (19)・8参照。

[46] マタイ 24・28。

[47] フィリィピ4 ・22。

[48]フィレモン8-12、エフェソ6・5〜、コロサイ3・22-25、一テモテ6・1-2、一ペトロ2・18~参照。

[49] テルトゥリアヌス『護教論』(Tertuliano, Apologeticum, 37,4〈Fontes Christiani 62, ed. de Tobias Georges, Freiburg-Basel-Wien, Herder, 2015, p. 230〉)。

[50] ローマ14・19。

[51] ローマ12・17-18。

[52] ルカ16・8。

[53] 「敵からの助言」:スペインの俗諺で、敵に対しては賢慮深くあるようにという意味。特に敵が私たちの善を探しているかのように振る舞う時のことを指す。この場合、聖ホセマリアはマルクス主義に不信感を抱くよう私たちに勧める。興味深いことに、エスクリバー師はこの手紙の35番で再度この諺を使い、「ときに敵の言葉は、有用な真理を教えてくれる」という別の意味を持たせている。(編者注)

[54]ローマ 13・11。

[55] マタイ 10・34。

[56] 一ペトロ3・15。

[57] 二コリント5・14。

[58] ローマ12・11。

[59] エフェソ5・15-16参照。

[60] ガラテヤ6・10。

[61] 詩篇2・8。

[62] 一テサロニケ5・14。

[63] 二テサロニケ3・11。

[64] 二テサロニケ3・12。

[65] ユディト8・9-13。

[66] 使徒言行録5・12。

[67] マタイ22・21参照。

[68] ヨハネ8・32。

[69] 「敵からの助言」:24番、脚注参照。(編者注)

[70]「教会としての任務ではありません」:エスクリバー師にとって使徒職は個々人の任務であって、組織のものではない。組織としてのオプス・デイは、属している人やオプス・デイに近づく人たちに、司牧的なオリエンテーションと世話をするだけである。使徒職的活動は、常に、オプス・デイが提供するオリエンテーションと霊的援助を受けるメンバーや協力者、友人たちの責任であり、彼らのイニシアティブの実りである。(編者注)

[71]「宗教団体的な色合いを持つものではない」:世界におけるキリストの弟子としての使命は、洗礼によってもたらされ、各人が繰り広げる人間関係の中で展開される。それゆえ、公にはカトリック的(宗教団体的)な色合いを持たないことが可能である。それは個人の信仰生活から生まれるもので、自らの職業や世俗的な活動において表されるものだからである。(編者注)

[72] マタイ22・15-22、マルコ12・13-17、ルカ20・20-26、ローマ13・1-7参照。

[73] 使徒言行録16・37。

[74] 使徒言行録22・25-28。

[75] 二ペトロ1・10。聖ホセマリアがここで引用しているブルガタ訳の箇所は、ネオ・ブルガタ訳において「per bona opera」の部分が省かれている。新共同訳では「召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい」となっている。(編者注)

[76] 「教理を与える」:聖ホセマリアは度々この表現を「様々な状況において色々な形でキリスト教真理、信仰の遺産を伝える」という意味で用いた。言い換えるならば、それは「福音のメッセージを個人的活動そして職業的活動を通して伝え広める」という意味である。(編者注)

[77] ローマ10・14。

[78] 二テモテ4・2。

[79] 「Quidquid recipitur ad modum recipients recipitur(器の受けとめ方によって受けられるものが決まる)」:スコラ学特有の哲学的格言。聖トマス・アクイナスもこの格言を用いている(『神学大全』〈Summa Theologiae, I, q. 75, a. 5; Scriptum super Sententiis, lib. 4, d. 49, q. 2〉参照)。(編者注)

[80] ヨハネ18・37。

[81] エフェソ4・25。

[82] コロサイ4・5-6。

[83] 大聖グレゴリオ『福音に関する説教』(S. Gregorio Magno, Homiliae in Evangelia, XXIV, en Corpus ChristianorumSeries Latina〉CXLI, p. 197)参照。

[84] 英国外国聖書協会は1804年に設立された。The Bible Societyとも呼ばれる。世界中に聖書を普及させることを目的とする聖書協会世界連盟(United Bible Societies)に加盟している。救世軍は1865年に設立されたプロテスタント運動、慈善団体。(編者注)

[85] エスクリバー師は、教会当局がそれを禁じる場合を除いて、各自が自分の職業的召命を続けることを提案する。オプス・デイに関して、フランコ体制に協力したという批判がよく知られている。この批判は1957年フランコの政府に二人のメンバーが入閣し、その後、他の数人が入閣したことによる。しかしながら、スペインのカトリック教会当局は、信者がフランコの政府に協力することを禁じるどころか、むしろ励ましていた。なぜなら、この政府は、政治的自由を認めなかったにしても、社会的生活における福音の現存を保証するように見えたからであった(ゴンザレス・グジョン、カバデル『オプス・デイの歴史』〈González Gullón, Coverdale, Historia del Opus Dei, pp. 221-225〉参照)。(編者注)

[86] エフェソ5・32参照。

[87] マタイ19・11〜、1コリント7・25-40参照。10番第4段落脚注参照。(編者注)

[88] 「人間の愛を称え神への愛を表現する歌」:十字架の聖ヨハネ(1542~1591)の詩へのリファレンスを暗示している。この聖人が書いた不朽の詩のいくつかは、ルネサンス時代の著作家の男女愛の詩とよく似ているが、それは、神への愛を表現して、つまり霊的な意味合いを込めて書かれたものであった。(編者注)

[89] 雅歌8・6。

[90] 雅歌8・7。

[91] 「勧めるのはキリスト教的ではない」:聖ホセマリアは1960年代の西欧社会に広がっていた、生ぬるくなる一方の風潮の中で、結婚の召命についての非常に高い理想を提示している。人々が、定期的禁欲を「カトリック的」避妊方法であると理解し、その選択に伴う医学的・人間的・霊的影響を考慮に入れずに、手段として用いることをエスクリバ―師は望ましいと考えない。次の段落で、具体的なケースでは「そうすることはできますし、そうしないといけないこともあるでしょう」と言っているが、医師と司祭に相談するよう勧める。聖ホセマリアは、結婚をキリスト教的に聖なる形で生きたいと望むと同時に、妊娠に間をあける必要性を持つ人を助けたいと望む。一般的に言えば、師の言葉は、1959年(手紙の日付)から1966年(手紙を印刷した年)の間に有効であったカトリックの司牧方針と倫理実践に沿っている。それは、聖ホセマリアの個人的図書室にあった、いくつかの当時の倫理神学の書物に見ることができる。この教えは、後に聖パウロ六世の回勅『フマーネ・ヴィテ』(1968年)によって、より正確にされ、改善された。『フマーネ・ヴィテ』はもし妊娠に間をあけることを望み、そのためにこの手段を取る場合に条件となる正当な理由について触れる(16番参照)。それと同時に、この手段は、「良心的産児」(responsible parenthood)と貞潔の徳と切り離すことはできないと説明する。聖ホセマリアのこの手紙が出た頃は、この問題についての神学上の議論があり、教導職は、1965年の第二バチカン公会議の『現代世界憲章』(50-51番)ですでに示された方向性に沿った教えを、正確に表現しようと努めていたところであった。現行の『カトリック教会のカテキズム』(2369~2370番)は、『フマーネ・ヴィテ』の定式を取っており、それに聖ヨハネ・パウロ二世の教えが加えられることにより、説明がさらに豊かになっている。(編者注)

[92] 「非常にきつい言葉」:聖ホセマリアはこの手紙を、自身の話し方、つまり率直でごまかしのない話し方を、知っている人たちに向けて書いていることを思い出さねばならない。それと同時に、師が説教や文書において、ある教えを強調したい時、誇張表現を使う事が稀でなかったことを思い起こす必要がある。例えば、百人の公証人が同じことを言ったとしても、自分の霊的な子どもたちの言うことの方を信じると言う時(『主との対話』〈En diálogo con el Señor, op. cit., p. 282〉)、あるいは陰口を言うくらいなら、歯で舌をかみ切って吐き出すと言う時(『ロマーナ』〈 «Romana» 42 [2006], p. 84〉)、この他多くの例を引くことができるが、どれも印象に強く残る表現である。これらは拡張表現で、言うまでもなく文字通りとるように意図したわけではない。エスクリバー師の両親への愛、また人をゆるす能力、そしてこの手紙をはじめ師の書物に明白に現れている人間の弱さへの理解などを知っている者は、師がここで言っていることを決して実行する気はないことを、推し量ることができるだろう。しかし、「非常にきつい言葉」を使うのは、読者に、自分が両親から望まれて生まれたのではないことを知った子どもたちの、悲劇にもっと敏感になって欲しいからである。聖ホセマリアがこの手紙を書いたのは、いわゆる「性の革命」が始まる直前であった。それ以降、避妊と堕胎の実践は幅広く普及し、その結果、社会に深刻な実存的・心理的問題がのしかかっている。既婚者に提示する聖性のモデルは、夫婦間の「清い愛」と子どもへの大きな愛を含むこと、重大な理由がある場合を除いて、神が送ろうと望む子どもを恐れないことを含むことを、聖ホセマリアははっきりさせたいのである。(編者注)

[93] 「この世界には黒人とカトリック信者以外いなくなるだろう」:この言葉は、この手紙が書かれた20世紀の50〜60年代における、アメリカ合衆国での公民権運動の高まりという歴史的コンテクストを考慮に入れて理解せねばならない。その頃、アメリカにおいて産児制限の手段が広まっていたが、アフリカ系アメリカ人活動家はその背後に人種差別的な意図が隠されていると考えた。カトリック信者もそれに反対したが、それは倫理的理由からであった。エスクリバー師が引用するオプス・デイのメンバーの皮肉的表現は、アフリカ系アメリカ人とカトリック信者の出生率の高さを嘆く人種差別主義者と反教皇主義者の偏見を嘲笑する意図がある。聖ホセマリアは、この機会を利用して、人種差別主義とあらゆる人種や宗教に対する差別の愚かさを示す。(編者注)

[94] ローマ15・15。

[95] ガラテヤ5・15。

[96] マタイ16・24。

[97] 「1931年に形をとった」:この出来事を神からの重要な照らしであると考えていたオプス・デイ創立者は、色々な時にこのことを回想した(アンドレス・バスケス・デ・プラダ『オプス・デイ創立者』〈Andrés Vázquez de Prada, El Fundador del Opus Dei, vol. I, Madrid, Rialp, 1997, pp. 388–392〉参照)(編者注)

[98] 一テサロニケ4・10-12、コロサイ3・15。