親の権威

子どもたちに、自由を尊重することと規則を守らせることを両立させるのは簡単ではない。この記事は、家庭教育につていくつかの提案を勧める。

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神は命の主であり、すべての権威の源であるが、権威を振われる際には憐れみを存分に示される。被造物の権威はこの神の権威から来ている。その中に親の愛のこもった権威もある。親の権威の行使には、確かに困難がつきまとうことがある。親は日々の生活の細かいことにまで口出しをすることは避けられない。子供を教育しようとするとき、「行動や生活にルールがなく、日々の生活の細かいことを子供の好き勝手にさせるなら、その性格を形成することも、大人になって遭遇するであろう試練に立ち向かうための準備をすることもできなくなる」(ベネディクト16世、2008年1月21日の講話)という経験は誰にもある。しかしながら、私達は自由を尊重することと規則を守らせることを両立させるのがそう簡単ではないことも知っている。実際、多くの親は、おそらく彼ら自身がその経験をしているのだが、子供に何か強制することからよくない結果が生じるのではと恐れている。例えば、家族内の平和が損なわれたり、子供がそれ自体は良いことも受けつけないようになったりするのではないか、と。

ベネディクト16世はこの表面的なジレンマを解決する道を示される。その秘訣は「人を教育するのには、相手の尊敬を勝ち取ることが必要です。それがあれば、相手の抵抗なく権威を行使することができます。その権威が備わるためには、経験と仕事上の優れた技術が必要ですが、とくに言行一致した生き方と問題に正面から取り組む姿勢を示すことが有効です」と(ベネディクト16世、前掲講話)。

権威の光

権威を行使することと、ただ相手に自分の意見を押しつけることや無理矢理にでも従わせるということは別である。一定の権威者に従うのは、罰を恐れるからというより、たとえそれが理解できないときがあっても、その権威者が何が正しく何がよいのかを教えてくれると感じるからである。権威は真理を示すという意味で、真理と深く結ばれている。

こういうふうに考えると、権威はこの上なくポジティヴな意味を持ち、奉仕であることがわかる。つまり、権威は何かを探す人を導く光と言える。実際、語源的には、権威autoritasはラテン語の「成長する、発展する」という言葉augereから派生している。権威を認める人は、なによりも権威者が示す価値や真理に接近するのだ。「教育者とは真理と善を証しする人です」(ベネディクト16世、前掲講話)。言い換えれば、人が探し求める真理をすでに見つけ、自分のものとした人のことである。他方、教育される側は、教育者を信頼する。それは単にその人が多くのことを知っているからだけはなく、それらの真理に達するように自分を助けてくれると感じているからである。

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親の役割

子供たちが明らかに親に求めていることは、言うことと行うことに矛盾がなく、自分たちに愛を示してくれるということである。子育てのために親が必要とする権威と評判はいかにして得ることができるのだろうか。権威は親子の関係の中で自然に生まれる。ゆえに、権威をいかに獲得しようかと心配するより、いかにそれを保ち上手に使うかに心を配るべきである。親子の間で権威が自然生まれることは、特に子供が小さいとき明らかだ。もし家族が一致しているなら、子供たちは自分よりも親に信頼を置く。親の言うことを聞くのは抵抗を感じることもあるが、家族の一致と暖かさの中では子供はそれを自然に受け入れる。つまり、両親は自分を愛していて、自分が幸せになることを望んでいて、そうなるように助けるために言ってくれるのだと考えるので、自然に従うのだ。そうなると、不従順は何かおかしいこととして、信頼と愛に欠けていることとして、理解される。

というわけで、権威を強めたければ、親は本当の親になる以外のことを試みる必要はない。つまり、生きることが喜ばしくすばらしいことだと示し、あるがままの子供たちを愛していることを行いで見せるのである。当然のことだが、そうするためには家にいる必要がある。現代社会の生活リズムではそれは容易なことではないが、子供たちと一緒に時間を過ごすこと(『そして親になる』で電気屋さんが言っていた)、「神と人々に対する愛と敬虔の心で満たされた家庭環境を作り出すこと」(第二バチカン公会議「キリスト教的教育に関する宣言」3)は大切だ。例えば、家族一緒に夕食をするように努めることは、たとえかなりしんどいことであるにしても、価値がある。それは、家族のみんなが互いに知り合うすばらしい仕方である。子供たちは、その日にあった出来事を話し合いながら、両親の話を聞きながら、何か問題があっても、それを大げさに考えないことを学ぶ。

このような会話の中で、その上、必要ならば、子供たちにはっきりと何が善で何が悪かを示し、そして子供の年齢に合わせて、なぜこうするか、こうしないかの理由を説明することが容易になる。なぜある行いをするかの理由の中で、神の子として振る舞うという理由も教える必要がある。「子供たちが神の御前で自分の行動を考えることを学ばせなさい。彼らに超自然的な理由を教え、自分の行動について自分で考え、責任を感じるようにさせなさい」(聖ホセマリア、1972年11月17日の団らん)。権威を行使するとは、つまるところ、小さいときから子供たちに人間として成長するために必要な材料を提供することである。最も大切な材料は生きる模範を見せることである。子供たちは親のすることを逐一見つめ、それを真似ようとするからだ。

権威を行使することは、家庭の温かさを守るために必要な決定を下すことと、受けるより与える方が喜ばしいことであることを子供たちが発見させることに表れる。この意味で、子供たちが小さいときから、互いに心配りができる雰囲気を作るため手伝いの仕事を任せることが役に立つ。各自に担当の仕事を与える。例えば、例えば、テーブルの準備をする、一定の時間を使って家の片付けをする、ベルが鳴ったらドアを開けに行くなどなど。それらは家族みんなが気持ちよく過ごせるために役立つことで、子供たちもそれを理解できる。ただ何かをさせるために仕事を与えるのではなく、子供が自分がしていることが家のためになっている(親の仕事を代わりにするから、兄弟を助けるから、家の何かを世話するから・・)ことを理解させ、自分に任せられた仕事であるという責任を感じさせるためである。こうして従うことを学んでいく。

親は子供と話すだけで十分役目を果たしたというわけではない。彼らに誤りを犯した場合、その過ちの意味と影響を理解させねばならない。事が起こる前、あるいは起こった後で、親は子供に注意をし、彼らがすることが彼ら自身と他の人たちに悪い影響を与えることを教えるのである。多くの場合、やさしくはっきりした言葉で足りるだろう。しかし、時には、反省だけでは足ら、償いを必要とする場合もあり、その時には何らかの処置を講じるべきである。罰は犯した悪事を償う手段となるべきである。例えば、何かを壊した場合、それを賠償するために小さな仕事をさせるのも一つの可能性だろう。時には償いにある程度時間かけた方がよい場合もある。例えば、学校の成績が悪かった場合、一定の期間、外出を禁じることが良いかも知れない。しかし、この場合も、この措置がしなければならないこと(勉強)をするために必要な時間と手段を捻出するためであることを忘れてはならない。この場合、外出はしないが、家でぶらぶらしているなら意味がない。あるいは、その必要はないのに、ただそれに行きたがっているからという理由で、それ自体よい活動(形成の手段とか)にも参加することを禁じることもいかがなものかと言わざるを得ない。

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信頼と権威

親が子に伝えたいと望む大切なことを、子供の自由と個性を尊重しながら理解させることも親の権威の一部である。このためには、第一に子供が親から愛されていると感じること、そして親が自分のいうことを理解してくれると感じること、つまり子供が親を知り親に信頼することが求められる。これはしても良い、あれはしたらだめと、何ができて何ができないかを明確に示すことは、もし愛情と信頼が伴っていなければ、おそらく絶えず口答えを引き起こすだけで役に立たない。「親が権威を持つことは教育のために欠かせないが、それは子供と同じレベルにまで下りていくことによって子供の友達になることと完全に両立します。子供たちは、最も反抗的で愛想のない子供さえ、親と親しくなりたいと望んでいるのです」(聖ホセマリア、『対談』、100)。

子供が成長するにつれ、親の権威はますますこの信頼関係の有無に左右されるようになる。子供は誰でも親が自分に対してまじめに接してくれることを必要としているが、思春期の子供はなおさらである。彼らを当惑させる肉体的精神的変化に遭遇し、その変化の中にいることを示す。自分からは認めないが、自分の参考になる大人を探している。しっかりした考えを持ちたい、首尾一貫した生活をしたいと望むので、それを体現している大人を求めている。これとともに、大人になるという仕事は自分以外にできる人はいないことも感知している。それゆえ、親の言うことを無批判に受け入れることはしない。これは親の権威を疑っているというのではなく、その裏付けになる真理をよりよく理解することを助けてくれと頼んでいるからだ。

そのために、彼らに必要な時間を割くこと、一緒にいる機会を作り出すことが重要である。車でどこかに一緒に行くこと、テレビの番組や学校での出来事を種にして会話を始める。そういう機会に、彼らが関心を持つテーマについて、明快な考えを要する重要なテーマについて話すことができる。ときどき子供たちはその会話に興味を示さないように見えても心配するには及ばない。父親が、うるさく言うことを控え、また無理に相手に話すよう強要せずに、必要なことだけ話すなら、その話は子供の頭に残る。後で子供が親の助言を実行に移すかどうかは問題ではない。大切なのは、子供があるテーマについての親がどう考えているのかを確認でき、自分がどのように行動するかを決める際のヒントを得ることである。父親は子供のそばにいて、彼が関心を持っていることについて話す用意があることを示した。それは教皇の次の教えを実践したことになる。「私達の持っているものを互いに与え合いましょう。私達の時間を互いに与え合いましょう」という勧めである(ベネディクト16世、2012年12月24日の講話)。

親が子供にノーと言って許可を与えないことのいくらかは、実際は対して重要ではなく、言い合いをするほどのことでもなく、短いコメントをすればそれで終わるはずのこともある。そのようにすれば、子供は自分の価値観を自分で作り上げていき、重要なこととそうでないことを区別することを学ぶ。親が望んでいることは、自分たちが親と同じような大人になることではなく、幸せになること、一人前の社会人になることだと発見するだろう。それゆえに、親は子供の尊厳や家族に直接関わりのないことなら、それに興味を示しはすれど、干渉することは控える。つまるところ、子供を信頼するということ、「(子供が)自由を悪用する危険を無視することなしに、子供たちが間違った考えや決定をした場合、それを正すことを助けようと身構えていることです。反対に決してしてはならないことは、彼らの過ちを見てみるふりをすることで、ましてやそれを肯定することは言語道断です」(ベネディクト16世、2008年1月21日の謁見)。

子供はこういうふうに信頼されていると実感すれば、その信頼を裏切ることはできないと考える。問題は「親が子供を家庭的な雰囲気の中で育てることができること、子供に不信感を与えないこと、彼らに自由を与えると同時に、個人的な責任をもって正しく使うことを教えること。時には子供にだまされたままでいる方が望ましい場合もあります。子供に信頼しているなら、子供自身がその信頼を裏切ったことを恥じ入り、自ら改めるでしょう」(聖ホセマリア、『対談』100)である。親子の間では、当然小さな喧嘩や不仲は時には起こるだろうが、平静さを失わずにユーモアをもって対処することが可能だ。そうすれば子供たちは、あることをダメと言われても、親の愛と理解には何ら変わりがないと知るだろう。

聖ホセマリアは子育ての任務は夫婦両方の肩にかかることを強調した。もちろん、彼らだけがそれを担うのではない。子供を天国に導く使命を与えた神がその任務の遂行を助けて下さる。それゆえ、親になるという召命は子供たちのために祈るということを含む。神との対話(祈り)の中で、子供たちについて、彼らの徳と欠点について話したり、どのように彼らをよりよく助けることができるかを尋ねたり、また彼らのために恵みを、また自分のために忍耐を頼んだりするのだ。教育の実りを神の御手に任せることができれば、心の平安が生まれ、それは周囲にも広がるだろう。教育の仕事においては、聖ホセマリアがある母親に忠告したように、「乱暴なことは避けて柔和に行動しなければいけません。お母さんたちはそれをするための聖なるずるがしこさと、神の特別の恵みをお持ちです。それは身分の恩寵というものです。いつもご主人と同意の上で行動し、ことがうまく行くように神に願い、小さな犠牲を捧げ、自分の性格を制御するようにして下さい。そうすれば、子供たちは変わるでしょう。心配無用です」と。なんと言っても、子供たちは神のものなのである。

(注、ベネディクト16世の2008年1月21日の講話と2012年12月24日の講話の邦訳は、『霊的講話』にも司教協議会のホームページにも掲載されていない)