年間第12週・木曜日 103 ミサ聖祭の実り

― ミサの実り。ミサ聖祭と信者の日常生活。 ― ミサ聖祭には「意識的に、行動的に、信心深く」与る。ミサ聖祭に与ることは、司祭でありいけにえであるイエス・キリストと一致して捧げる自分の個人としての祈りである。 ― ミサに与るための準備。使徒職とミサ聖祭。

年間第12週・木曜日

103 ミサ聖祭の実り

― ミサの実り。ミサ聖祭と信者の日常生活。

― ミサ聖祭には「意識的に、行動的に、信心深く」与る。ミサ聖祭に与ることは、司祭でありいけにえであるイエス・キリストと一致して捧げる自分の個人としての祈りである。

― ミサに与るための準備。使徒職とミサ聖祭。

103.1 聖体の犠牲とキリスト者の日常生活

第2バチカン公会議は、「十字架上の犠牲とミサにおける秘跡としての再現は、形式の違いは別として、全く同じ唯一の現実であることを思い出させています。(…) 従って、ミサは同時に、賛美のいけにえ、感謝、贖罪と償いであることを思い出させます」。私たちの救い主が十字架上の犠牲にお与えになった目的は、この4つにまとめられます。

ミサの4つの目的は、それぞれ異なるやり方であり、異なる程度をもって成し遂げられます。神に直接向けられる目的、即ち、礼拝、賛美、感謝は、私たちの協力とは無関係に常に確実に、限りない価値を生み出します。これは、信仰深い人が一人も出席していなくても、あるいはたった一人だけの参加であっても、気を散らしてミサに与っていても、ミサ自体は本物です。主である神は、聖体の犠牲が祝われるたびにいつでも限りない賛美を受けられます。神を完全に満足させる感謝が捧げられます。聖トマスはこう述べています。この奉献は、神に背く世の中のあらゆる罪に勝って神を喜ばせます。 なぜならキリストご自身が、あらゆるミサで捧げられる現実の犠牲であると同時に、それを捧げる真の司祭だからです。

けれども、聖体の犠牲の他の目的である祈願と償いは私たちのためで、ミサの実りではありますが、実際には、必ずしも常に十分に受け入れられるとは限りません。これら神の恩恵からの実りは、神との和解と私たちが願っていたことを神にかなえてもらったその実りでもあるので、無限の価値があるはずなのです。それもキリストの功徳のお陰なのですから。しかし、決してこれらの実りをすべて申し分なく受けることはありません。なぜなら、私たちの個人的な心構えに応じて受けるからです。祭壇上の神聖な犠牲に熱心に参加すればするほど、償いと祈願の実りを更にたくさん受けるでしょう。キリストご自身の祈りが、私たちの祈願と償いの価値を倍増され、ミサにおける十字架上でのキリストご自身の祈願と償いとに一致するまでになります。

私たちがミサの実りを受けられるように、教会は、キリストの犠牲に自分を一致させる事を私たちに求めます。それは、イエス・キリストの賛美、感謝、償いと祈願に参加することだからです。ミサの行為と式典からなる外的儀式は、どちらもイエス・キリストの内的犠牲を意味し、キリストに一致したすべての信者の奉献と献身の表れです。 ここに、私たちは全存在をかけて日常の生活で行うあらゆる奉献を、完全にしかも正しい意向でやり遂げようとする理由があります。第2バチカン公会議で提言しているように、「彼らのすべての行いと活動、祈りと使徒的事業、家族と結婚生活、日々の仕事、心身の休養を霊的に行い、なお生活のわずらわしさを忍耐強く耐え忍ぶならば、これらすべては、イエス・キリストをとおして神に喜ばれる霊的犠牲になり(1ペトロ2・5)、聖体祭儀の挙行において主の御体の奉献と共に御父に敬虔に捧げられるでしょう」。私たちの行いと生活すべては、一日の活動の中心がミサに置かれていれば、新たな価値を帯びてきます。私たちの考えと行いがすべてミサに向けられていればです。ミサは、私たちがこの世での生活を聖化するために必要な恩恵が溢れ出る豊かな泉です。

103.2 行っていることを自覚し、敬虔で積極的な態度でミサに与ること。ミサに与るとは、司祭であり犠牲(いけにえ)でもあられるイエス・キリストに一致した個人的な祈りであるべきです

私たちの母である教会は、ミサからさらにもっと多くの実りを得ることを望んでいます。ですから、教会は、私たちがミサに与っているとき、ぼんやりとした無関心な傍観者でいて欲しくありません。常に、祭儀への理解と祈りを増し、自分が行っていることを十分自覚し、敬虔に、熱心に協力して、この神聖な儀式に参加するよう望んでいます。私たちは、心を声にあわせ、神の恩恵に協力して、正しい心構えを育まなければなりません。 対話と歓呼に特別に注意を払わなければなりません。定められた沈黙の時間、特に聖変化の時と聖体拝領で主を受ける時を、信仰と愛徳の行いで満たします。最も大切なことは、内的参加、ご自身を捧げるイエス・キリストとの一致です。そのためには、礼拝の役割を形作る外的要素である、ひざまずいたり、立ったり、座ったりなどの身体の姿勢やグローリア、クレド、サンクトゥスなどを唱えたり歌ったりする事は、とても役に立ちます。

ミサの司式者の祈りに合わせることが大いに役に立つのに度々気がつきます。ミサが始まる数分前に着き、時間を守る努力をすることは、よりよいミサの準備に役立ちます。しかも、それはキリストに対する愛の表れでもあり、出席している他の人々に対して、そしてミサを捧げる司祭に対する礼儀の表れでもあります。神は、私たちがこのことに関して模範的であるよう望んでおられます。大切な会見に相応しい時間に着いていただけませんか? ミサほど大切なものはありませんから。

内的にミサに与るとは、主に、信仰、希望、愛の徳を実践することです。聖変化の瞬間に、私たちは、使徒トマスの言葉、それは、信仰と愛に溢れた言葉、「わたしの主、わたしの神、あなたが祭壇上にまことにおられることをかたく信じます」。または、各々の信心の祈りを祈ることもできます。

聖なるミサに参加することは、何にも増して個人的な祈りでなければなりません。この祈りは真実で意識的な典礼参加ができるために不可欠な条件です。しかし、それだけではなく、個人的な祈りの精神は、このような参加の実りともいえます。しかしながら、絶えざる親しい個人的な祈りの生活、信仰と愛の生活なしにキリスト者として歩み続けることはできません。これなしで、私たちは、この典礼を通して自らを有効かつ有益に刷新することはできません。それなしには、キリスト者として本物の証人(あかしびと)になることはできません。もしこのようにミサに参加しないのであれば、生きて流浪する教会と共に考え、呼吸し、行い、苦しみ、希望することはできません。すべての人に言います。「祈りましょう」、霊魂の深奥から、神に親しく話しかけることに決して飽きてはいけません。言葉を超える神、あなたを見守っておられる神秘的な他者はあなたを待ち望み、あなたを愛しておられます。だから、あなたは決して倒れることなく、独りになることはないでしょう。そして心躍るこの応えに、新たな喜びを経験するでしょう。「見よ、わたしはあなたとともにいる」。神は、ミサへの参加が最高頂に達する聖体拝領において、特別な方法で私たちと共に私たちの内におられます。聖トマス・アクィナスは次のように教えています。この秘跡固有の効果は、人をキリストに変えることです。ですから、使徒とともに「もはやわたしが生きているのではなく、キリストがわたしの内で生きておられる」と言うことができるのです。

103.3 ミサの準備、使徒職と聖体の犠牲

ミサという世の中で起こる最も重要な出来事に備えるために、私たちは毎日、霊魂を準備しなければなりません。どんなに片田舎であっても、世界の最果てで、しかも一人としてミサに参加していないとしても、司祭なら誰であっても捧げられるミサは、その時この世で起こる最も素晴らしい出来事です。それは、人間が捧げることのできる、神に最も喜ばれることです。私たちが受ける多くの恵みを神に感謝する機会です。多くの罪と愛の欠如のゆるしを願い、霊的物質的必要のすべてを祈願する機会です。お願いしたいことのない人がいるでしょうか。「主よ、この病気を」、「主よ、この悲しみを」、「主よ、あなたへの愛のためでさえ受け入れることのできない恥辱を」。私たちは、家族の者への祝福、幸福と喜びを望みます。私たちは、食べ物や正義に対する飢えと渇きに苦しむ人々、孤独に苦しむ人々、生涯の終わりに愛のこもった世話や友人の助けもなく、死を迎える人々の運命をみて悲しみに沈みます。

「しかし、真に苦しみの原因となるのは、惨めさである罪です。私たちが贖わなければならない、世界中に広まった不快な罪です。それは、私たちを神から引き離し、霊魂を永遠の破滅への危険にさらすからです。人々に神の愛の永遠の栄光をもたらすことは、カルワリオで生命を絶たれた時のキリストの真の望みでしたし、それはミサを祝う時の私たちの望みでもなければなりません」。こうして、私たちの使徒職はミサに向けられ、ミサによって強められるのです。

ミサの後の数分間の感謝の祈りは、その日の最も大切な瞬間、瞬間を締めくくる事になるでしょう。それは、仕事と家庭生活に、またすべての人に私たちが示す朗らかさに、さらにその日の残りの時間を過ごすための確信と自信に、大きな影響を与えるでしょう。このように捧げられたミサは、決して隔離した出来事とはならないでしょう。ミサは、私たちのあらゆる行いを育み、それに特定のリズム、そして価値と意味を与えます。

私たちは、常に、ミサで、御母マリアを見出します。最高の司祭、犠牲の御母である聖母を思い出したり頼ったりしないで、どのようにこのいけにえの儀式に与ることができるでしょうか? 聖母は、この地上で生活されている間、息子である御子の司祭職の実行に、とても親密な役割を果たされたので、その司祭職に永遠に一致しておられるのです。カルワリオにおられたように、カルワリオの延長であるミサにもおられます。聖母は、御父に息子を捧げることで、十字架上の息子を助けました。キリストの犠牲の再現である祭壇上の犠牲において、教会が、その頭であるキリストに一致して、自らを神に捧げるのを助けられます。マリアの祈りをとおして自分をイエスに捧げましょう。 ミサの間、マリアを思い出しましょう。そうすれば、聖母は、私たちが信仰と黙想を深められるように助けてくださるでしょう。

Roman Missal, General Instruction, Foreword, 2

聖トマス,神学大全,III,8,2 参照

PiusXII, Mediator Dei, 20 November 1947 参照

第2バチカン公会議,教会憲章,34

第2バチカン公会議,典礼憲章,11;48 参照

パウロ6世,Address, 14 August 1969

聖トマス,IV Boock of Sentences,12,2,1

聖ホセマリア・エスクリバー,In Love with the Church,47-48

P.Bernadot, Our Lady in my Life, p.233