年間第10週日曜日・B年 80 悪の根源

― 原初の正義と聖性の状態における人間の本性。 ― アダムにおけるすべての人間の連帯。原罪とその結果の伝達。罪との戦い。 ― 人間の諸現実を再度、神に方向づける。

年間第10週日曜日・B年

80 悪の根源

― 原初の正義と聖性の状態における人間の本性。

― アダムにおけるすべての人間の連帯。原罪とその結果の伝達。罪との戦い。

― 人間の諸現実を再度、神に方向づける。

80.1 正義と聖性の本来の状態の人間性

神は人間を他の被造物を支配するように創られました。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」。そのため、神は、人間に知性と意志を授けられました。それで、他のどの被造物に与えられるより、さらに素晴らしい栄光を与えられました。そのうえ、神は人間を愛するがゆえに、更にご自分の神的な生命を共有させ、何とかして、最も深い神秘を浸透させることができるように人間を高めるように定められました。これほど、人間本性に備わったものの中で素晴らしい授かりものはありません。このために、神は、聖化する恩恵と超自然的な徳と賜物を惜しげなく人間に与えられました。神は、人間を聖性と正義を持つものとして創造され、超自然的に振舞う能力をお与えになりました。 恩恵によって、霊魂は、人間であることをやめずに神化されます。その変化は、火の中に入れられると白熱の光となって輝き、それ自体が火のようになる鉄の変化に比較されます。このたとえはまだ十分ではありません。恩恵は、火が鉄に引き起こしたものより、もっと深い変化を霊魂にもたらすからです。

さらに、神は、死、情欲、無知の免除など外自然の賜物と称される無償の賜物でアダムの本性を豊かになさいました。本来の正しい状態での人間性の高潔さは、創造主に対する人間の意志の完全で自由な服従から生じるものです。これらの賜物に強められていれば、人間は、自分が知っていることにおいて欺かれず、すべての過ちを免れています。人間の身体は自分の力によるのではなく、霊魂に印された超自然的な力のお陰でそれが神と一致してさえいれば、腐敗を免れ永遠を享受しました。 神は、アダムに全人類を見ておられます。本来の正義と聖性の賜物は、一人の人間にではなく、アダムの後も子孫に伝えられるという原則により、全人類に与えられました。 私たちは皆、神との友情のうちに生まれ、霊魂と身体を神から授けられた完全さで飾られ美しくされていたはずだったのでしょう。その瞬間が訪れた時、神は、一人ひとりを恩恵のうちに強め、苦しみもなく死の瞬間を被ることもなく、この世から連れ去ったことでしょう。神は、このように、天国で永遠に続く幸福を楽しませるために来られたことでしょう。

これほどまでして、神は、最初の人間にご自分の善を注ぎ込まれたのです。これは、神のご計画によるものです。この計画が成就されるために、神は、人間が恩恵によって自由に協力することをお望みになりました。同じように、神は今、この祈りの時に、私たちが受ける多くの恩恵に一致するように願っておられます。私たちが、永遠のために天国を手に入れなければならないのは、今いるここ、つまりこの世です。

80.2 すべての人はアダムの仲間であること。原罪の伝えられることとその結果。罪との戦い

私たちは啓示で、神の似姿として創られた人間に原始義(もともとの義の状態)と完全性が与えられていたとは言え、人間が自由を付与された被造物である限り、他の霊的存在と同じく、最初に自由に関してテストを受けないわけには行きませんでした。神は、一つの条件を人間に与えました。善悪の知識の木の実を食べてはならない。それを食べるなら必ず死ぬだろう。 この掟は悲しいことに破れられたことを私たちは聖書で知っており、今日、ミサの第1朗読では、人間が置かれた状態について読みました。蛇に化けた悪魔が神の命令に従わないように最初の女性をそそのかし、神の掟に従わせないようにさせたのでした。女は木の実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、男も食べました10。 神への従順は打ち破られました。諸能力の間の調和は崩壊し、聖性と原始義は失われ、不滅の賜物も失いました。そして、「死の力をもつもの」に服従し始めました(ヘブライ2・14)。 つまり悪魔に、です。ごまかしの罪によって、アダムの全人格は、身体と霊魂に関するすべてが悪い方に変わりました11。 彼は、楽園から追放されました。たとえ、人間の本質に楽園にいたときの固有のものが残っていたとしても、人間は、それ以来ずっと良いことを行おうとしても厳しい障害に出合うのです。なぜなら今や、人間の内に悪への傾きがあるからです。歴史の初めに人祖によって犯された原罪は、この世に生まれてくるすべての人間に世代を超えて伝えられました。これは、教会で幾度か宣言された信仰の真理です12

原罪の事実と、それが個々の人間の霊魂の内奥に引き起こす葛藤は、証明できる真理です。信仰はその根源を説明します。そして、私たちは皆、その結果を経験します。神の啓示によって知らされるこれらのことは、人間の経験と一致する。人は自分の心を糾明すれば、悪に引き寄せられる、聖なる創造主に源を発するはずのない多くの悪のもとに自分が埋没しているのがわかります13。 恩恵がなければ、人間は、人としての尊厳を取り戻す力がないことに気づきます。

教皇パウロ六世は、人間は、堕落した本性を持ち、人間が以前与えられた恩恵の賜物を持たないので、罪のうちに生まれると教えています。人間の本質に固有の自然の力は傷つけられ、死の力に服従しています。さらに、原罪は、模倣によってではなく遺伝によって人間の本性に付随して伝えられて、一人ひとりに特有のものであるかのように、すべての人間の中に見出されます14

アダムの中には全人類が持つ神秘的な仲間意識があります。それは、人は誰でも、その中で自分は一人の人間だとみなすことができるほどまでに、人祖から受け継いでいる同じ本性に共に結ばれているということです15。 最初の不従順以前のアダムにおいて、すべての人間を一つにした連帯の恩恵は、罪における連帯に変わりました。元々の聖性(原始義)の状態がアダムの子孫に伝えられたはずだったのが、その代わりに無秩序が伝えられてしまったのです16

悪がこの世と私たちの内にもたらした光景、また理性に従わない身体の傾きと本能を見ると、啓示にある深い真理が良く理解できますし、唯一の真の悪であり、この世に存在するすべての悪の根源である罪と戦うようになります。

「あなたとわたし、そして全人類の罪と惨めさが、こんなに数多いとは。『わたしは咎のうちに産み落とされ、母がみごもったときも、わたしは罪のうちにあったのです』(詩編50・7)。 原罪に汚れた人間の一人として生まれたわたし。知りつつ、望みつつ、犯してしまった自罪の数々。この汚れからわたしたちを清めようと、イエスは自分を低くして奴隷の姿をとられた(フィリピ2・7参照)。主の御母でありわたしたちの御母でもある聖マリアの胎内で人となり、三十年間、聖ヨセフと共に大勢の人々と変わりなく働かれた。教えを垂れ、奇跡をなさった。しかし、そのお方にわたしたちは十字架で報いたのだ。痛悔しないでいられようか」17

80.3 人間の全現実を再び神に向ける

神は、私たちの人祖を楽園から追い出しました18。 人間が神から離れた状態でこの世に来たしるしとして追い出されました。超自然的なものを伝えるかわりに、アダムとイブは罪を伝えました。彼らは、子孫に残るはずだった相続を失いました。罪の結果は、直ちにアダムとイブの最初の子どもたちに現れました。カインは妬みからアベルを殺したのです。同じように、個人的であろうと社会的であろうと、すべての悪は、人祖にその根源を見出します。たとえ、洗礼が原罪と洗礼を受ける前に犯してきた個人的罪の罪と罰を完全にゆるすとしても、洗礼は、罪の結果から彼を解放せず、過失や情欲、死に依然として支配されたままです。

「原罪は高慢の罪でした」19。私たちが社会で、個人の生活で、すべてにおいて、神の教えを守ろうとすれば、必ず私たちはそれぞれ皆これと同じ高慢の誘惑に陥ります。「あなたは神のようになるだろう」20。五感と能力の乱れた人間が耳にするのはまさにこの言葉です。初めのように今もまた、多くの場合、人間は自分を善と悪の間の調停者にする自治権を追い求めて、創造主への愛と従順からなる偉大な最高善を忘れてしまいます。彼が、平和と本能と理性の調和、そして他のすべての良いものを取り戻すのは創造主においてしかありません。

世間の只中で行う使徒職は、私たち一人ひとりとその行い(法律や教育、その他の仕事)を、創造主との関係において正当な場へと導くことでしょう。神が、国や社会のある所に現存される時、人々とともに生きることがより人間的になります。世の中を荒廃させ、社会のより進んだ正義の成就を妨げる争いを解決するには一つの方法しかありません。それは再び神に近づき、改心を実現させることです。すべての悪は、人々の心の中にあります。それこそ癒されるべきなのです。原罪つまり、今日も人間や社会の内で働いている原罪についての教えは、要理教育とあらゆる種類の養成(形成)において根本的に重要な点で、決して無視されるべきではありません。時に深く混乱しているように思われるこの世の中で私たちが直面しているのに気づいても、私たちは、ただ腕を組んで何もできない状況に圧倒された人のように、肩をすくめていることはできません。大きな決心をすることは必要ありません、おそらくいずれにせよ、大きな事は私たちの関心事ではないでしょうから。そうではなくて、神が私たちの手の届く範囲内に置かれた事柄での自分の役割を果たさなければなりません。そこにキリスト教的な方向性を付与するためです。

並外れた恩恵と特典によって、純潔のままの受胎の最初の瞬間から、原罪の罪のすべての汚れを免れている至聖なる御母マリア21は、私たちを悩まし続ける悪の根源まで見極めるように教え導いてくださるでしょう。何よりも、聖母は、私たちがどんな立場にいようと、神との友情の内に私たちを強めてくださるでしょう。

創世記,1:26

第2バチカン公会議,教会憲章,2 参照

PiusXII, Humani generis, 12August 1950 参照

トレント公会議,Session V, can.1 参照

聖トマス,Summa Theologie, I 97,1

聖トマス,Summa Theologie, I 4,1

ヨハネ・パウロII世, Address, 3 September 1986

First Reading of the Mass, 創世記2:17

創世記,3:9-15

10 創世記3:6

11 トレント公会議,Session V, can.1

12 Council of Orange, can.2参照

13 第2バチカン公会議,現代世界憲章,13

14 パウロ6世,Creed of the People of God,16

15 聖トマス,神学大全I-II,163,1

16 聖トマス,神学大全I-II, 81,2

17 聖ホセマリア・エスクリバー,『十字架の道行』,第4留,2

18 創世記,3:23

19 聖トマス,opcit, II-II, 163,1 参照

20 創世記,3-5

21 Pius IX, Ineffabilis Deus, 8 December 1854