年間第9週・火曜日 74 「チェザルのものはチェザルに」。市民としての模範

― 公生活におけるキリスト者。義務の遂行を模範的に。 ― 生活の一致。 ― 良い市民であるためには、神と一致していることが必要。

年間第9週・火曜日

74 「チェザルのものはチェザルに」。市民としての模範。

― 公生活におけるキリスト者。義務の遂行を模範的に。

― 生活の一致。

― 良い市民であるためには、神と一致していることが必要。

74.1 公的生活におけるキリスト者。義務の模範的な遂行

今日のミサの福音は、あるファリサイ人がイエスを告発できるように、イエスのところに来て、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとしたわけです。彼らは、「先生、皇帝に税金を納めるのは律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか」 。主がそうだと言えば、侵略的な力に威圧されたためにユダヤ人が嫌ったロ一マの権力に協力するよう勧めるとして非難することができる、違うと答えるなら、イエスはロ一マの権力者であるピラトに反逆すると非難することができる。税金に賛成しても、反対しても、それは、結局、イエスが、ユダヤ人が置かれている政治的社会的状況の正当性に賛成するか否かを彼らに話していることになります。イエスが何を言おうと、占領された力に賛同して協力しているか、表面化しているユダヤ人の潜んだ反逆を促しているように見えるに違いありません。後に、彼らは公然と裏切り、「この男は、わが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」と非難することになります。

この時、この質問の偽善性を見抜いていたイエスは、彼らに言われた。「デナリオン銀貨を持って来て見せなさい」。そして「これは、だれの肖像と銘か」、彼らが「皇帝のものです」と言うと、イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答え、その単純さと明確な深遠さに彼らは驚きました。イエスは質問をはぐらかさないで、その答えを真実の言葉で言い表されます。国家を神的なレベルまで上げるべきではありません。教会は、常に変化し、相対的な重要性しか持たない現世的な出来事に賛同すべきではありません。そのように答えることによって、イエスは、政治的な救世主的使命についての間違いを正されたのと同時に、ファリサイ人が広めた宗教的なことに干渉するロ一マ帝国(どの国であってもですが)の間違いを正されました

その答えで、主は、2つに分かれた別々の権限の領域をはっきりと確立されました。政治的な団体と教会は、お互いにそれぞれの分野で自治権があり独立しています。しかし、両者は、異なった権限に基づくにもかかわらず、人々の個人的な召命に奉仕します

教会はそれ自体では現世的な事柄について具体的な解決を見出す使命を与えられていませんでした。このように教会は、キリストの王位はこの世のものではないと宣言することによって、地上的な事柄の領域で裁判官に任命されることをはっきり断わられたキリストに従っています。 従って、キリスト信者として、私たちは、キリストご自身がかなり注意を払われて避けようとされた普遍的な福音のメッセ一ジを特別な政治的組織に - 皇帝に結びつけるという誤りに決して陥ってはいけません。即ち、特別の組織、党派、または皇帝に誠意をこめて献身することができない者が、最終的な目的として永遠の生命を持つというメッセ一ジを受け入れることは、当然困難を余儀なく経験させられることになるかもしれないという状況なら、どうあっても避けなければなりません。時代を超えて続く教会の使命、イエス・キリストの贖いの仕事は、人々を超自然的な永遠の目的に導くものです。人間社会に属する問題に対する、教会の正しい必要なかかわりは霊的使命から出るもので、教会の使命の範囲に留まらなければなりません。

社会の真っ只中に置かれているキリスト者としての私たちは、社会人としての権利と義務を施行して、現世的問題の解決を見出します。私たちの周囲がもっと人間的でキリスト教的になる世界を築くために働かなければなりません。あらゆる権利を要求すると同時に、社会に対してのあらゆる義務をどう果たすか理解している模範的な市民であることで、これを行わなければなりません。更に、実に度々、キリスト者が公的生活でとらなければならない態度は、ただ法律上の規範、法律によって制定されたものを果たすことに限られるわけではありません。法的秩序と、私たちの行動を統治する倫理的基準との違いは、時々、法が要求する以上のこと、あるいは法律の厳密な司法上の基準によって求められるものとは異なるやり方で振舞うことを余儀なくさせるでしょう。このようなケースは、非常に低い賃金で働くとか、法律の範囲外の不当な状況で生じるかも知れません。病院の規則や同意によって、厳密に要求されているよりさらに多くの時間を必要とする患者に向けられた医者の献身などの場合です。仕事が何であろうと、私たちは人々から仕事時間やその献身ぶり、関心事や人々とその問題に対して、義務として時間をかけてかかわるのではなく、それ以上に、もっと神と人々への愛のために多くのことを行う人だと、人々は認めているでしょうか?

74.2 生活の一致

「皇帝のものは皇帝に返しなさい(…)」 主は、社会に関する義務と神に向けられるものを区別なさいました。しかし、結果的に二重生活になることを決して弟子たちに押しつけたいとは思われませんでした。人間は一個の存在です。一つの心と一つの霊魂、徳と欠点を備えた一つの存在で、これらすべてが振舞い全体に影響します。キリスト者は、キリストに付き従う生き方とその教えに倣って、私的生活と公的生活の両方を営む必要があります。 これは必然的にその行いをもっと人間的に、また、さらに貴いものにするでしょう。教会は、常に、現世的な出来事の正当な自治権を宣言しますし、もちろん、ある意味で、被造物と社会はそれ自体の法律と価値を備えていると理解してきました。しかし、「地上的な事柄の自治権」という言葉によって、物質的なものは神によるのではなく、人間が創造主に無関係であるかのように利用できることを意味するなら、この主張の虚偽性は神を信じる者にとっては明らかです。創造主がなければ被造物はないはずです。 社会そのものは明らかに非人間的になり、生きていくことが困難になります。

キリスト信者は、心の最も深い確信に従って、政治的、社会的、職業的な選択をします。また、信者が自分の住んでいる社会に与えるものは、人間と社会の真の洞察力です。キリスト教の教義だけが、私たちに、人間について、義務について、創造された永遠の目的について、完全な真理を示すからです。にもかかわらず、時々、二重生活をしたいと思う多くのキリスト者がいます。現世的な公的生活ともう一つは信仰生活。彼らは、党派心や差別的な言葉と行動によって、人間の市民としての義務と、キリストに従うための義務との間に矛盾があると断言さえします。私たちキリスト者は、自分の言葉と首尾一貫した生活の証しを示すことによって、次のことを宣言しなければなりません。「良いカトリック信者であることと、忠実に社会に仕えることとの間に、対立があるというのは本当ではない。同じように教会と国家が、神から託された使命を果たすにあたり、それぞれの権威を正当に行使しても、両者が衝突するはずがない。これと反対のことを主張する人は、嘘、そう、嘘をついている。彼らこそ偽りの自由を口実にして、〈ご親切にも〉、カトリック信者はカタコンブ(地下墳墓)にお戻りなさいと言う人々なのである」10

世の中で私たちの証言は、生活の深い一致において表明すべきです。神の愛によって、私たちは、市民としての義務を忠実に果たし、税金を払い、公共善を推進させるために良心的に投票する、等のことをしなければなりません。無関心、怠惰、または、間違った言い訳から、投票やそれに相当するものによって、自分の意見を表明しないことは、正義に反する罪です。彼らの事実上の棄権で他の人々に与えるかもしれない結果のために、義務でもあるいくつかの権利を怠ることになるからです。その怠りは、もし私たちが、専門的な団体やその国の政治的生活において、子どもたちが通う学校の統轄組織で、キリスト教の信条と異なったイデオロギーを持つ候補者が、私たちが義務を果たさないために当選してしまうことになってしまえば、その怠りは深刻なはずです。

聖ヨハネ・パウロII世は、私たちに熱心に説いています。「この世の現実に生き、キリストの信仰の活力をそこへ注ぎ込みなさい。この信仰は、真に人間的なものを一つも打ち崩すことがないどころか、むしろ、それを強め、清め、引き上げることに気づいてください。重大な問題を扱うときにこの精神を示してください。家族の領域で、結婚の不解消性とそこに含まれる他のすべての徳を実行し守り、受胎の瞬間から、すべての人間の尊厳を育むことによってそうするのです。キリスト教信仰の糧を提供している学校を子どもたちのために選ぶことによって、文化、教育の分野にキリストの信仰を入れていくのです。あなたが、不正義や社会的、経済的差別を照らすことに貢献を要求されている時は強く寛大でありなさい。つまり、この世の物を増し、正しく分配する肯定的な仕事に参加するよう要求されている時です。規律や習慣が、人類が有する卓越した意味や生活の倫理的見方を無視することのないよう、あらゆる努力を傾けなさい」11

74.3 私たちと神との一致。これは、より良いキリスト者になろうとすれば必要です

そして、神のものは神に。それに関して、彼らがはっきりと尋ねなかったにもかかわらず、主は、この側面を強調されました。皇帝は、自分のイメージを求めますから、それを彼に与えなさい。神も、自分のイメージを求められていますから、それを主に与えなさい。皇帝があなたたちのせいで自分の硬貨を失うことにならないように。神があなたたち信者の間で神に相応しい硬貨を失われることのないようにしなさい12。 聖アウグスチヌスは評しています。私たちの全生涯は神のものです。私たちの仕事、心配事、喜び、私たちのすべては神のものです。特に、このような時 - この祈りの時 - 自分をすっかり神に捧げている時、それは神のものです。良いキリスト信者であれば、私たちは良い市民でありたいと望むでしょう。なぜなら、信仰は、良い学生であるように、自分を否定することができ、その信仰と愛が可能な限り最良のやり方で家族を育てる力を与えている良い母親であるように、有能で公正なビジネスマンであるように、などと常に私たちを駆り立てるからです。キリストの模範は、私たちすべての者が、勤勉で思いやりがあり、快活で楽観的であるように導いてくれます。それは,厳しく義務づけられている以上に、行うように私たちを急き立てます。そして結婚しているなら配偶者に対して、そして勤務している会社に対して、属している党やグル一プに対して、忠実に生きるように急き立てるのです。神の愛は、それが真の愛なら、人間に対する愛の保証であり、行いに表れます。

「チェザル・アウグストゥスから、イスラエル全住民の人口調査を命じる勅令が出た。マリアとヨセフはベトレヘムへと向かわれた。主はご自分に関する預言を成就させるため、律法に敬意を払い、律法を几帳面に果たす機会をお使いになった。あなたはこういう考え方をしたことがあるだろうか。まっとうな社会生活に必要な規範を、愛し尊重しなさい。義務を忠実に果たせば、その態度を見た人々が、神の愛から出るキリスト者としての誠実な生き方に気づき、それがきっかけとなって神に出会うことができる」13

マルコ12:13-17

ルカ23:2

J.M.Casciaro, Jesus and Politics, Madrid 1973参照

第2バチカン公会議,現代世界憲章, 76

ヨハネ19:36

ルカ12:13 参照

Spanish Episcopal Conference, Christians in public life, 24April 1986,85 参照

Spanish Episcopal Conference, Christians in public life, 24April 1986,85 参照

第2バチカン公会議,loc cit,36

10 聖ホセマリア・エスクリバー,『拓』,301

11 聖ヨハネ・パウロII世,Homily, Barcelona, 7 November 1982

12 聖アウグスチヌス,Commentary on Psalm 57,11

13 聖ホセマリア・エスクリバー,『拓』, 322