年間第2週 日曜日・A年 7. 神の子羊

年間第2週日曜日・A年 7. 神の子羊 ― イエスの公生活開始の初めに洗者聖ヨハネが主に当てはめたこのタイトルの役割と現実。 ― 赦されることへの希望。糾明、痛悔、償いの決心。 ― 度々ゆるしの秘跡に与ることは、細やかな心になり、聖性に進歩するための道。

年間第2週日曜日・A年

7. 神の子羊

― イエスの公生活開始の初めに洗者聖ヨハネが主に当てはめたこのタイトルの役割と現実。

― 赦されることへの希望。糾明、痛悔、償いの決心。

― 度々ゆるしの秘跡に与ることは、細やかな心になり、聖性に進歩するための道。

7.1 公生活の初めに洗礼者ヨハネが名づけたイエスの称号の象徴と実体

私たちは、ベツレヘムで生まれ、羊飼いたちと博士たちが礼拝したイエスのことを黙想しましたが、この日曜日の福音は、私たちを再びヨルダン川の岸辺へと導いてくれます。そこは、洗礼者ヨハネが主の到来の準備をしていた所です。イエスが自分の所においでになるのを見た時、洗礼者ヨハネは言います。「見よ、世の罪を除きたもう神の子羊」(ヨハネ1・29)。私たちは神の子羊という言葉に慣れてしまっていますが、素晴らしい神秘的で力強い言葉です。 この言葉は、過越の子羊の意味、つまり子羊の血が、ユダヤ人がエジプトで奴隷から解放された夜に流されたことの意味を知っている人々にとっては、何という含みを持っていることでしょう。そのうえ、イスラエル人なら誰でも、ヤーウェ(神)しもべ、救い主の苦しみを子羊のいけにえと比べたイザヤの言葉をよく知っていました。 毎年、神殿でいけにえとされた過越の子羊は、民の解放と神が民と交わした契約を思い出させました。すべては一つの約束であり、真の子羊、全人類のためにカルワリオでいけにえになられたキリストの前表になるものでした。キリストは世の罪を除きたもう真の子羊、死によって私たちの死を破壊し、よみがえりによって私たちに新しい生命をお与えになりました。聖パウロはコリントで初代のキリスト者に述べています。過越の子羊、キリストはいけにえとなられ、人々を新しい生命、聖なる生命に招いておられます。

神の子羊という表現は、神学者や霊的著者が大いに黙想し論じてきたもので、神学的内容に富んだ称号です。様々の神的現実を表現するための手段です。むしろ、神がご自身に関する重要なことを言い表すためにお作りになった表現だというべきでしょう。

洗礼者ヨハネは「世の罪を除きたもう神の子羊を見よ」と告げました。世の罪とはあらゆる種類の罪を意味します。原罪は、アダムを通して子孫にも継がれました。一方、人類史のはじめから世代を通して犯されてきた自罪があります。私たちの救いの希望はイエスにあります。イエスご自身が、希望への強い呼びかけです。なぜなら、キリストは罪による傷をゆるし癒すためにおいでになったからです。日々、司祭は、聖体拝領をする前にイエスを示しながら、ヨハネのこの言葉をはっきりと言います。これは神の子羊、イザヤの預言はカルワリオで成就され、今尚一つひとつのミサで再現されています。今日、私たちのいけにえとなられたキリストの記念が祝われるときは何時でも、贖いの業が成し遂げられているのです。 教会は、主が私たちの救いのために死に至るまでご自身をお与えになったこと、そして私たちの霊魂の食べ物になられたことに、私たちが感謝するように望んでいます

非常に古い時代からキリスト教芸術は、神であり人であるイエス・キリストを過越の子羊として描いてきました。時にはThe Book of Life(生命の書)から取り入れながら、聖画像を研究することによって、私たちは信仰が教えてくれることを思い起こすのです。世の罪を除きたもう方はイエスであること、いけにえとなられすべての力と栄光を持っているのはイエスであることです。黙示録の幻視によれば、イエスの前では24人の長老が崇拝して頭を垂れます。 イエスは大いなる婚姻の晩餐を主宰し、花婿を迎えます。血によって祝されたものを清めます。またイエスは7つの封印の本を開けることができるただ一人の者、始めと終わり、アルファとオメガ、優しさに満ちた贖い主、その働きによって一人ひとりを贖うためにおいでになる全能の裁き手でもあります。

イエスはゆるしをもたらすためにおいでになりました。イエスは、贖い主、調停者です。一度だけゆるすのでもなく、人類の罪を一括しておゆるしになるのでもありません。私たち一人ひとりが悔い改めるたびに、何度でもゆるされます。イエスは、私たちをゆるされ新しい生命を与えてくださいます。イエスは、私たちをゆるし、私たちが希望に満たされるように再び恩恵の門を開いてくださるのです10。 ゆるしてくださったことを何度も神に感謝しましょう。天の慈しみの源、ゆるしの秘跡に近づくことを決して怠らないようにお願いしましょう。

7.2 ゆるされる望み。良心の糾明、痛悔と改心の日々

見よ、世の罪を除きたもう神の子羊! イエスは汚点のない子羊11、人類の罪を償い、悪と裏切りを償うために、まったき従順と柔和でご自分を差し出されました。それ故、イエスに与えられた称号には深い意味があります。キリストを示す子羊は3つの物を意味すると、レオンのフライ・ルイスが注解しています。柔和であること、生活の清らかさと罪のなさ、犠牲と奉献を望むこと12

キリストが絶えず罪人に手を差し伸べることに力を入れられたことは、極めて目に留まる事柄です。人の子は失われたものを救い出すためにおいでになりました13。 イエスは御血によって私たちを罪から解放してくださいました14。 同時代の人々の多くはイエスの慈悲深さがわかっていました。律法学者やファリサイ人はお互いに囁きながら、イエスは徴税人や罪人の友で、彼らと一緒に食事をする15と言い合いました。姦通を犯した婦人に「行きなさい、二度と罪を犯してはいけない」という簡単な言葉でゆるしたので、彼らは驚きました[1]16。 イエスは徴税人とファリサイ人のたとえ話の中で、「主よ、罪人のわたしを憐れんでください」17と胸を打ちながら言った徴税人を義とされました。また、放蕩息子のたとえ話でも同様です。イエスの教えと罪人との慈しみ深い出会いの話は終わることなく続いています。ゆるしてくださるのがキリストであるなら、ゆるしていただく望みを失うことができるでしょうか。恩恵を与えてくださるのがキリストであるならば、聖人になるために必要な恩恵を受ける望みを失うことができるでしょうか。答えはノーです。この確信は私たちを平和と喜びで満たしてくれます。

ゆるしの秘跡をとおして、おそらく自分の性質に深く根づいていて、しばしば意気消沈と落胆の原因にもなるこうした欠点と戦い、打ち勝つために必要な恩恵も獲得します。ですから、この秘跡で、主が私たちのために準備してくださっている恩恵をすべて受け入れているかどうかを知るために、良心の糾明、痛悔、改心の決意の3つの点を自分で調べなければなりません。この3つはそれぞれ、私たちの義務に応じて行う行動に関する超自然的な知識、つまり、信仰の行為、受けた恵みに感謝し、恵みに応えていないことを悲しむ愛の行為、私たちの聖化のために与えられた時間がなくなるまでの間に、常に新たな心を持って戦う希望の行為です。この3つの徳のうち最も大きなものは愛です。それほどまでの悲しみ、良心の呵責、痛悔は、良心の糾明の最重要部分だからです。もし、私たちの糾明が悲しみのうちに終わらないなら、おそらく盲目に支配されているか、糾明が神の愛に動機づけられていないかの兆候でしょう。しかし、自分の落ち度を悲しむようになれば直ちに確固とした効果的な決心ができるはずです18

主は私に悔い改めることを教え、愛の道を示してくださいます! 弱さが私を、あなたを、もっともっと愛するように導いてくれますように! つまずいた時はいつでも主の恩恵によって私が痛悔へと向かうことができますように!

7.3 頻繁な告解。霊魂を鍛え、聖化に至る道

イエス・キリストは私たちに聖性と聖化に必要な恩恵を絶えずお与えになるために来られます。イエスは、今日のミサのアレルヤ唱で唄うように、絶えず「神の子になる力」を私たちにお与えになります。この人間の聖化は、神の子羊の贈り物です19。 この神聖さは、霊魂の奥深くを絶えず浄化することによって生じるもので、日々、神をもっともっと愛するために欠くことのできない条件です。頻繁にゆるしの秘跡にあずかることを大切にすることは、神に対する愛の内的な感性が澄んでいる証拠です。私たちがゆるしの秘跡を軽視したり無関心であったりして、簡単に言い訳をして遅らせるなら、霊魂の細やかさに欠け、恐らく、聖霊の霊感に対して粗野で鈍感になっていることの証拠でしょう。

私たちは軽やかに前進し、妨げになるものや欠点の重荷を放棄する必要があります。痛悔による告解をするたびに、将来への展望とすでに眼前に広がる道に沿って希望に満ちて朗らかに歩みを進めることができるようになります。この秘跡を受けるときはいつでも、私たちはラザロのようにキリストの「ほどいてやって行かせなさい」20という言葉を聞きます。私たちの欠点、弱さ、些細な罪はキリスト者を縛り、混乱に陥らせ、軽やかな足どりで道を進むことを妨げます。ちょうど死人がまだ布に巻きつけられて現れるように、告解に行く人にはまだ罪があります。罪から解放されるために、主は、聖職者に「ほどいてやって、行かせなさい」21と言われます。ゆるしの秘跡は、私たちがキリストに向かって進んで行くことができないように、悪魔が私たちを縛ろうとするすべての束縛を解くものです。

頻繁な罪の告解は、聖性、神の愛に密接にかかわっています。というのは、神が私たちを清くするために鍛え、謙遜であるように教えるものが告解にあるからです。また、私たちは弱いので、永続的に高潔で愛の状態に留まるには、頻繁な告解が必要です。告解は生温さ、心地よい安楽、内的生活で愛に欠けることから生じるどのような襲撃に対しても最高の治療になります。

頻繁な告解を大いに重んじる主な理由の一つは、適切に実行すれば、生温さに対して絶対に確実な安全装置となるからです。多分、教会が1週間に1度、告解することを強く勧めるのはこの確信によるものです22。 私たちが正しく、さらに良い準備をしてこの秘跡を受けるように真の努力をしなければならない理由です。

キリスト、汚れのない子羊は私たちの重大な罪だけでなく、日常生活に生じる意向と愛を清めることの不足という罪を清めるために来られたのです。私たちは今日、ゆるしの秘跡を受けることにどのくらい愛を込めているか、また、主が私たちに要求なさるたびに、頻繁にこの秘跡を受けに行っているかどうか、糾明すべきです。

聖ヨハネ・パウロ二世 説教 1981年1月18日

イザヤ 53・7 参照

ミサ典書 復活の叙唱

一コリント5・7参照

A.Garcia Moreno, Christ,Son of God and Redeemer of Man, Pamplona 1982

Prayer over the Gifts

The Navarre Bible,note to John 1:29 参照

黙示録19 参照

10 G.Redondo, Reason for Hope,Pamplona 1977

11 聖ヨハネ・パウロ二世,loc cit 参照

12 Fray Luis de Granada, The Names of Christ,Madrid 1957

13 マタイ18・11

14 黙示録1・5

15 マタイ11・19

16 ヨハネ8・11

17 ルカ18・13

18 福者アルバロ・デル・ポルティーリョ 手紙 1976年12月8日n.16

19 聖ヨハネ・パウロ二世,loc cit

20 ヨハネ11・44

21 聖アウグスチヌス Commentary on St Johns Gospel,29, 24

22 B. Baur, Frequent Confession, pg.121