年間第一週 月曜日。12使徒の召し出し

年間第一週 月曜日 1. 12使徒の召し出し ― 主は、仕事中の人を弟子としてお呼びになる。私たちをも勤務中にお呼びになり、その仕事を聖化し、主を知らせるようにと、そこに留まらせられる。 ― 仕事の聖化。キリストの模範。 ― 仕事と祈り。

年間第1週・月曜日

1. 12使徒の召し出し

― 主は、仕事中の人を弟子としてお呼びになる。私たちをも勤務中にお呼びになり、その仕事を聖化し、主を知らせるようにと、そこに留まらせられる。

― 仕事の聖化。キリストの模範。

― 仕事と祈り。

1.1 主は仕事をしている弟子たちを招かれます。主は私たちをお呼びになります。それは私たちが仕事を聖化し、仕事を通して主を人々に告げ知らせるためです。

公生活を始めるにあたり洗礼を受けた後、イエスは救いのみ業に協力する人々を探されました。主は、日々の仕事に従事している人たちをお選びになりました。選ばれたのは、屈強で順応性があり、簡素な生活と厳しい仕事に慣れていた人々でした。

「ガリラヤ瑚のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師だった。イエスは『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』 と言われた」[1]

使徒たちは主の呼びかけに寛大に応えました。ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人の弟子はすでに主を知っていましたが[2]、神の呼びかけに応えるにあたり、何らの計算も保留もせずに運命を共にする決心をする時がきたのです。今も、使徒的独身を約束してすべてを奉献し、社会の中で主に従う人が大勢います。主の呼びかけに応えた後は、イエスが生活の中心です。主は言葉で言い表すことのできない力と魅力でご自分のもとへと人々を引きつけられます。(最近黙想したばかりですが)、博士たちになさったように、星の輝きのように日常的な事柄や日々の生活や仕事を通して、人々をご自分のもとへと引きつけられます。ベツレヘムの羊飼いたちが羊の世話をしている時、天使の呼びかけを受けたので、神の御子を訪れて礼拝し、その夜マリアとヨセフと共に時を過ごしたのと同じです。イエスが付き従えとお呼びになるのは、日常生活を営み、普通の仕事をしている私たちです。生活の中心にイエスを据えて、世界の福音化に力を貸すよう要求なさいます。「神は、無知やつまずき、歴史上の出来事の間を進む私たちを、不確かな状態から引き出し、社会でどんな仕事をしているかには関係なく、以前、ペトロやアンデレに『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と呼びかけたように、力強い声で私たちを呼んでおられます」[3]

神は私たちがいる所に来て呼びかけられます。大多数のキリスト者、信徒が今いる所、家庭や仕事、文化、スポーツ・クラブなどに属したままで、家庭の絆や仕事、友人とのつながりを通して、主を愛し、人々に主について教えるようお望みです。キリストを生活の中心にしようと決めた途端に、すべてはその決心に従って動くはずです。仕事を通して自然徳と超自然徳をますます身につけているかどうか、仕事がキリストとの友情を増す手段になっているかどうか、自分自身に問いかけなければなりません。

1.2 仕事の聖化。キリストの模範

神は自分の環境や専門職に従事している私たちをお招きになりますが、私たちの仕事の仕方が今までと異なる

ものであって欲しいと望んでおられます。「あなたは台所のかまどの傍らで私に手紙を書いている。夕暮が近づいて

来た。寒い。あなたの傍らで、キリスト者としての召し出しを徹底的に生きるという、神的な狂気を発見したばかりの妹がジャガイモの皮を剥いている。あなたは考える。見たところ妹の仕事は以前の仕事と同じだ。しかし、実際には、以前の仕事と比べてなんと大きな違いのあることか。その通りだ。以前はジャガイモの皮を剥く〈だけ〉だった。ところが今は、ジャガイモの皮を剥きながら、自己を聖化しているのだから」[4]。 毎日の家事、病院のガーゼやピンセットに囲まれた仕事、患者に対する時のいつもの笑顔、大学の講義や事務仕事、トラクターの運転や料理の準備、また散らかったものの片付けなど、いずれを聖化するにも、数日前に黙想したヨセフの仕事場のイエスや使徒たちが果たした仕事のように働かなければなりません。今日、ミサの福音で使徒たちが魚を獲っている場面を見ました。私たちは注意を集中して、働き人としての神の御子を見つめなければなりません。イエスなら私の仕事をどうなさるだろうか、イエスが私の立場におられたらどうなさるだろうかと、頻繁に問いかけなければなりません。福音書によると、イエスは何らのミスもなく人間的に完璧に、「すべてのことを良く行われた」[5]と教えています。これは、秩序正しく、落ち着いて、本当に専心して、隣人に仕えるために働くことを意味します。イエスは、注文された仕事を約束どおりに完成なさったことでしょう。完璧に仕上げられた注文品を受け取った時の客の喜びを思いながら、熟練した職人らしく最後の最後まで仕上げようと愛を込めてお働きになったことでしょう。イエスもお疲れになったことでしょう。イエスは超自然的な効果をもたらす仕事をなさいました。なぜなら、主は仕事をなさると同時に、人類の贖いを実現しておられたのです。御父と一つになって、また神への愛に動かされるイエスは人々とも一つになって働いておいででした[6]。 愛によって、愛のために、愛を通して、愛を込めて仕事をするということは、私たちにとって深い意味のある重大な義務です。

自分の仕事がさほど重要なものでないとしても、また、他人がそれを軽く見たり見下したりしたとしても、キリスト者はいい加減な態度で仕事をすることはできません。仕事をご覧になるのは神です。仕事には、私たちが推し量ることもできないほど重要な意味があります。「私が神にお捧げできるものは何でしょうか、とあなたは尋ねた。答えはわざわざ考えるまでもない。いつもと同じことをより一層完全に仕上げて捧げるのだ。主のことをもっと考え、あなた自身のことをより少なく考えるよう、最後の最後まで愛を込めて仕上げることである」[7]

1.3 仕事と祈り

神を思いつつ生きるキリスト者にとって、仕事は祈りにならなければなりません。皮を剥くのを丁寧にして、自分を聖化する代わりに、ただ皮を剥くだけなら残念なことです。祈りとは一日中ずっと神と共に過ごす方法です。それはまた、徳を実行する良い機会にもなります。祈らなければ聖性に達することができないし、使徒職を効果的に行うこともできません。

祈りとは神と話し合うことです。祈るとは、神を賛美し、感謝し、償いを捧げ、もっと助けを願うために、心と霊魂を神に上げることです。祈るには、思いと言葉、愛情が必要です。祈りには、心の祈り(念祷)と口祷とがありますが、私たちがどんなに神を愛し、どんなに神を必要としているかを神に伝えることのできるような行いで表現することもできます。というわけで、超自然的な見方によって完全に仕上げた仕事が祈りになることがわかります[8]

言い換えれば、被造物を完全にするために意識的に神に協力し、すべてに神の愛を浸透させて、主の贖いのみ業を完成させるのです。贖いはカルワリオだけでなく、ナザレにおいても行われていたのですから。

恩恵によってキリストに一致したキリスト者は、仕事をよく果たすことでその仕事を祈りに変えます。だからこそ、朝の奉献が非常に重要なのです。毎朝、目を覚ますと、今日一日を主にお捧げします、と短い言葉で主に申し上げます。一日中、何度も、特にミサの間に、この意向を新たにしなければなりません。しかし、この祈りの値打ち、即ちキリスト者の仕事の値打ちは、仕事に込める愛、正しい意向、最後まで適切にやり遂げる努力にかかっています。仕事を贖いの道具に変える意向を自覚すればするほど、実際によりよい仕事ができるでしょうし、教会にもより大きな貢献ができるでしょう。仕事の性質によっては大変な集中力が必要で、途中で頻繁に心を神に向けるのが難しいときがあります。しかし、神を見つける努力をし、神に話しかける習慣をつければ、何をするにも神がバックグラウンド・ミュージックのようになるでしょう。このような仕方で仕事をすれば、仕事と内的生活が互いに邪魔をし合うことはありません。ちょうど、心臓の鼓動が何をするにつけても注意力を妨げないのと同じです[9]。 むしろ、仕事と祈りは、声と楽器がハーモニーを作り上げるのと同じで、互いに相補い合うのです。仕事は祈りの妨げにならないだけでなく、祈りのチャネル(運び手)となります。そして、あの美しい祈りでお願いすることが実現します[10]。 「願わくは、私たちの行いがあなたの諭しによって導かれ、あなたの助けに伴われますように。私たちのすべての祈りと行いが、いつもあなたにおいて始まり、あなたにおいて終わりますように」[11]

私たちの存在の中心となっているイエスが、果たすべき事柄すべての中心であれば、毎日の仕事の合間を利用してバックグラウンド・ミュージックを本物の歌にすることが、ますます自然にできるようになるでしょう。活動を変えるとき、車を運転中に信号が赤になったとき、授業が終わったとき、電話がかかってくるのを待っているとき、物を元の場所に戻すとき、こういう時に、射祷が口をついて出るでしょう。また、聖母マリアや十字架のご絵に一瞬でも視線を移す機会となり、心の中で守護の天使に願いごとを伝えることもできるでしょう。こうして内的な力を得た私たちは、仕事を続けることができるのです。愛は実り豊かで創造的ですから、わずかの工夫を凝らすだけで、人間的なものを通して神に向かう助けとなることをたくさん見つけることができます。「あなたの机や部屋、財布などに聖母のご絵を置いて、仕事の始めとその途中、仕事の終わりに挨拶しなさい。聖母は、―この点は私が保証する― あなたの仕事を、神との愛に溢れた語り合いにするために、力をくださるだろう」[12]

[1] マルコ1・14-20

[2] ヨハネ 1・35-42

[3] 聖ホセマリア・エスクリバー『知識の香』45

[4] 聖ホセマリア・エスクリバー『拓』498

[5] マルコ 7・37

[6] J. L. Illanes, On the Theology of Work 参照

[7] 聖ホセマリア・エスクリバー『拓』495

[8] R Gomez Perez, Faith and Life

[9] 聖ホセマリア・エスクリバー 手紙 1948年9月15日

[10] Enchiridion Indulgentiarum,1

[11] サルバドール・カナルス 『私の友イエス』参照

[12] 聖ホセマリア・エスクリバー 『拓』531