聖ホセマリアの生涯-46

聖ホセマリアの母親ドローレス夫人の一生は、晩年に息子が激しい中傷を受けることを目にしなければなりませんでした。

1939年6月、聖ホセマリアが指導した司祭のための黙想会(スペイン、ベルガラ)

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聖ホセマリアの母親ドローレス夫人の一生は、晩年に息子が激しい中傷を受けることを目にしなければなりませんでした。ある日、「あなたには、一日たりとも心安まる日はないのね」と言って嘆いたそうです。

この迫害は主にある修道会の会員から出ていました。修道会に入ることなしに世間で生活しながらキリスト教的な完徳を目指すという考えは危険な教えで、修道会から志願者を奪うと危惧したようです。中傷は説教台から生まれ、事実をよく知らない他の聖職者たちにも広げられました。そのうち、オプス・デイのメンバーやセンターに通っていた青年たちの両親を訪ね、子どもが異端に陥ろうとしているので気をつけるようにと警告し、家族を悲嘆に陥れるようなこともありました。教会の中で始まった中傷はすぐに世俗世界にも広がり、創立者は裁判所に訴えられる危険さえ生じました。

このような中でオプス・デイと創立者を断固として弁護したのがマドリード大司教、そして創立者を知る各地の司教や司祭でした。聖ホセマリアと同様、これらの人々はこの常軌を逸した迫害は神がオプス・デイを成長させるために許された試練とみていました。事実、カトリック教会の歴史を見ると、何か新しい組織や運動を始めた人は同じ信仰の兄弟から激しい反対を受けるということは珍しくありませんでした。

このような考えと神への強い信頼のために、聖ホセマリアは落ち着きを失うことはありませんでした。しかし、この迫害が教会の内外に引き起こす害と迫害者自身が神の御前で問われる責任を考えると、神父は苦しみました。また、このオプス・デイに対する中傷が反教会の人たちに利用され、また将来外国でも繰り返されるだろうと考えていましたが、やがてこれが杞憂ではないことが明らかになります。

マドリード大司教は、反対を静めるためオプス・デイに公式の認可を与ようとしましたが、当時の教会法にはオプス・デイにふさわしい法律の枠組みはありませんでした。そこで、1941年3月に敬信団として認可を与えました。これは普通の信徒の会で、幅広い活動の可能性がありました。一時しのぎの対策でしかありませんでしたが、一応オプス・デイが教会当局から認められたのです。しかし、この後も迫害はなかなか止みませんでした。

尾崎明夫