福者アルバロ・デル・ポルティーリョの著作から

諸徳に関する教令は、Vir fidelis multum laudabitur(忠実な人は多くの祝福を受ける)(箴言28,20)という聖書の言葉をアルバロ・デル・ポルティーリョ司教に当てはめています。事実、ドン・アルバロは、神と教会、オプス・デイへの忠実を貫き、人々への奉仕で一生を送りました。それは特に、1975年6月26日の聖ホセマリアの帰天後、最初の後継者としてオプス・デイを率いることになってから顕著になりました。19年の統治の間、創立者の教えを広め根付かせることに努めました。これから紹介するドン・アルバロの種々の著作からの抜粋は、聖性へ普遍的招き、キリストを知り、キリストに一致する道、社会生活の中での信仰の喜びと愛徳の力を思い起こさせます。

Opus Dei - 福者アルバロ・デル・ポルティーリョの著作から

      目次

  1. 聖性への招き
  2. キリストに従う
  3. キリストは私たちを急き立てておられる
  4. 社会の中の観想者


1.聖性への招き

イエスのお望みは私たちが聖人になること

 イエスは私たちが聖人になることをお望みである。このメッセージをキリストのスピーカーであるかのように、エスクリバー・デ・バラゲール師は50年以上にわたって、力強くひびかせました。若者や年配の人たちの心を捉えたこのメッセージは、第二バチカン公会議で再確認されました。現代の人々は、この世限りの理想を追い求めているかのように見えますが、心の奥底では神を渇望し、無意識のうちに神を捜し求めているのです。

(1982年6月26日聖ホセマリアの帰天記念日の説教。1992年マドリードのRialp社出版の『Una vida para Dios』p.214-p.215)

信徒と教会の使命

 「あなた方は行って、全ての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなた方に命じておいたことを守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」(マタイ28,19-20)これは、イエスが最後の晩餐で「私を世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。」(ヨハネ17,18)

と仰せになったことを思い起こさせます。第二バチカン公会議では次のように解釈しました。「教会は、使徒たちから、救いの真理を告げよというキリストの厳然たる命令を、地の果てまで実行すべきものとして受けている。」(『教会憲章』17番)

 教会の使命に関して話すとき、それは、あたかも祭壇から語りかける人たちだけに当てはまるかのように考える危険があります。しかし、キリストが弟子たちに託された使命は、教会の全構成員が果たすべきことなのです。信者はそれぞれの方法で共通の仕事に一致協力するように。(『教会憲章番』30参照)

(1989年の説教。1989年の”Catholic Familyland”p.11-p.14)

キリストにおける神の子としての聖性

 聖パウロが述べています。「時が満ちると、神は、その御子を女から(…)生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなた方が子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。」(ガラテア4,4-6) 何と深い意味のある言葉でしょう。私達に神との父子関係を示すため、使徒は御独り子をお遣わしになる御父、私たちと同じ人となられた御子、私たちのうちにお住まいの聖霊、そして聖マリアについて語ります。私たちは、御子が人となられたことによって-主によって-、主と共に、主において、神の子の高みに上げられたのです。ですから、どのように行動すべきか、神の子としてどのように振る舞うべきかを知りたいなら、キリストを見つめ、その足跡に続く(1ペトロ2,21)、つまり主に倣わなければなりません。

 私たちは、神の養子としての状態を、外的な肩書のように考えたり、キリストに倣う、つまり主に似たものになることを、単に外面的なもののように考えたりしてはなりません。キリストが私たちのために勝ち取ってくださったこの特権は、私たちの存在のもっとも根底に関わることです。それゆえ使徒は、「神が『アッバ、父よ』と叫ぶ、御子の霊を私たちの心に送ってくださった」(ガラテア4,6)ことを、強調したのです。貴い主人公の役目を与えられた私たちは、偉大な真の神秘に出会いました。このことを度々、黙想しなさい。御父と御子の一致の絆・聖霊ご自身が私たちの内にお住まいなら、私たちは神の子であり、キリストと一致し、キリストにおいて生きていることになります。

 私たちは、ipse Christusキリストと同じです。主と全く一つになっているのです。その結果、子としての信頼を持って神と付き合うよう招かれています。私たちが愛情を込めて「アッバ、父よ」と呼びかけ、全てを主に委ね、主は、一日中を愛と祈願と賞賛の対話にするようお望みです。(1990年1月24日、司牧書簡)

 苦しみ、不名誉、貧困、迫害のさなかにあっても、聖人たちはなぜ平和に満たされていたのでしょうか。答えは非常にはっきりしています。キリストに倣って天の御父のみ旨に一致しようと努めていたからです。快いことや、不快なことに直面したり、あまり努力の要らないことや、多くの犠牲を要求することに直面しても、神のみ前に立って『主よ、〈これ〉をお望みですか…それなら、私も喜んで〈これ〉を望みます』(「道」762番)と、きっぱりとした態度で応える決心をしていたからです。これこそ効果をもたらす根源であり、喜びの源なのです。(1987年5月1日、司牧書簡)

聖霊の働き

 超自然的生活において-聖パウロの教えによると-「聖霊によらなければだれも『イエスは主である』と言うことができない」(1コリント12,3)、聖霊の助けなしにはどんな些細な行いにさえ永遠の価値を与えることができません。聖霊は私たちが神の子であるという事実を味わわせつつ、「アッバ、父よ」と叫ぶよう力を貸してくださいます。聖霊は弁護者として、内的生活の闘いにおいて私たちを守ってくださいます。神の賜を私たちにもたらしてくださる使者であり、私たちの心に、全世界に蒔くべきgaudium cum pace喜びと平和を注ぎ込んでくださる慰め主です。(1986年5月1日司牧書簡)

教会の聖人たち、神の子供たちの家族

Omnes, cum Petro, ad Iesum per Mariam!この僅かな語句に、私たちが聖人になり、キリストの共同救済者になるために従うベき行程が要約されています。度々黙想してきた「わたしは地上から上げられて、全ての人をわたしのもとに引き寄せる」(ヨハネ12,32)というキリストのみ言葉を思い出してください。全てのこと、全ての人を引き寄せ、そして教会の中でペトロと一致している人共々、私たちをご自身に引き寄せられます。聖霊降臨のときにおこったことを良く考えてください。ペトロと弟子たちの働きで数多くの民族や言語の人々が洗礼を受け、聖霊の賜を授かったのです。その日、三千人余りの人が教会の一員になりました(使徒言行録2,38-41参照)。わかりますか。聖霊は、私たちがキリストと一体となるためにキリストに引き寄せ、ペトロの後継者であるローマ教皇―共通の父親―を家長とする神の子供たちの家族にして下さる御方です。この計り知れないほどの素晴らしい出来事を十分に深く知ることなどできません。また、神に対してふさわしい感謝を捧げることもできないでしょう。神は、私たちが聖三位一体の神的生命に参与できるようにしてくださり、「御子において子となる」(現代世界憲章、22)という状態に私たちを高めて下さったのです。(1991年8月1日司牧書簡)

教会に仕える

 ペトロの舟は、何度嵐にあっても沈むことはありません。イエスが共にいてくださるのですから。ペトロの舟は生ける神の御子イエスのものなのです。私たちは心をこめて聖なる教会に仕えなければなりません。キリストが、ご自分の教会を築くために協力するようにと私たちをお招きになったからです。この建設は、全キリスト信者の適切な協力によって主が前進させてくださいます。その神秘体、選ばれた民を常に成長させてくださるのはイエス・キリストです。(1988年5月2日説教、1998年『Romana』IV, p.101)

教皇様との一致

 主に忠実でありたいと申し上げましょう。忠誠であることによって私たちは、ペトロという基盤から離れまいと努力するでしょう。さもないと神の神殿であるはずの私たち一人ひとりが崩壊してしまいます。ペトロの後継者であり、地上におけるキリストの代理者であるローマ教皇とその教導権に一致し従うことが不可欠です。ですから私たちは教皇様がどなたであろうと愛し、喜んで人間的超自然的な愛情を表明します。教皇様との一致を保つことは主のみことばへの忠実を示す唯一の方法です。主はsuper hanc petram aedificabo Ecclesiam meamと仰せになりました。教会は、聖霊を通してキリストが―そして私たちは主と共に―築いていきますが、その礎は主ご自身が据えられたものです。ですから、ペトロと共に、ペトロの下で、つまり教皇様と共に、そしてその権威の下にいつも振舞う以外の道はないのです。(1988年5月2日の説教、1988年の『Romana』IV, p.101)


2. キリストに従う


祈りの生活

 主との対話。これこそ私たちの念祷のあるべき姿です。愛するもの同士の語らい、そこには嫌気がさしたり気が散ったりすることなどないはずです。イエスをもっと知り、主と深く接したいとの飢えを感じて念祷に赴く者が待ち焦がれる対話、愛に夢中になった心が心をこめて話し続け、主のためにのみ生き、働きたいという意欲を新たにして締めくくる語り合いです。

 この祈りの時には、恩恵の助けによって、私たち一人ひとりに対する神の、み旨―聖性―と私たちの人生の確固たる完全な奉献という全面的な応答を求める愛のこもった要請とを、完全に再発見することでしょう。(1987年11月1日の司牧書簡)

福音を知り、福音を生きる

 子よ、この小さく哀れな、極貧の馬小屋、吹きさらしの家畜小屋を倦むことなく観想しなさい。「神よりの神、光よりの光」(ミサ聖祭のクレド)と宣言するとき、産着に包まれて飼い葉おけに横たわる主イエスを見出し、神として礼拝します。確かに神なのですから。「神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神」(同)を礼拝するのです。お望みでしたら何一つ不自由しない宮殿でお生まれになることもできたでしょう。ベトレヘムには何もありません。二つの宝以外には頼るものがありません。それは、主の御母マリアと聖ヨセフです。聖母は、主が十字架上で亡くなる際に残される唯一の宝石となられる方であり、その後、私たちにゆだねられることになります。主イエスは御母と養父ヨセフをどれほど愛されたことでしょう。

 あの愛すべきお二方と幾らかの産着を持っておられただけでした。後で、天使から救い主のご誕生を知らされた貧しい羊飼いたちか礼拝にやってきました。すぐさま天使の大群が「天のいと高きところには神の栄光、地には善意の人に平和あれ」(ルカ2,14)と歌いました。主が全ての人にお望みの平和を自分のものにできるのは善意の人たちだけです。あなたと私が主に近づき、主から学び、主に倣い、主に仕え、主を礼拝し、主を愛するという善い決意を強めるために、このことばを思い起こして欲しいと思います。(1976年12月25日、降誕祭の説教)

主のご受難

 ゲッセマニの園でのイエスに思いを馳せましょう。身近に迫ったことをご存じでしたから、あの恐ろしい苦難に立ち向かう力を祈りの中にどんなにお求めになったことでしょう。あの時、聖なるご人性は友人たちが物理的にも精神的にもそばにいることを必要となさいました。使徒たちは主を孤独にさせます。「シモン、あなたは眠ったのか。ただの一時間も目を覚ましていることはできなかったのか。」(マルコ14,37) 同じことをあなたにも私にも言っておられます。私たちはペトロのように何度も死ぬまで主にお伴をしますと断言しながら、度々、主を置き去りにして眠り込んでしまったからです。このように自分が主を置き去りにしたこと、また他人がそうしたことに対して心の痛みを感じるべきです。私たちは毎日、仕事上、使徒職上の義務遂行を疎かにしているとき、信心が表面的で雑に流れるとき、負担や疲労を人間的に感じて自分を正当化するとき、霊魂と肉体が抵抗してみ旨に従属することへの神的喜びに欠けるとき、主を置き去りにしていると考えるべきです。

 ゲッセマニでの捕縛の後、カイファの邸までイエスについて行き、衆議所の裁判―冒涜的なデッチ上げ―に立ち会いましょう。ファリザイ人、律法学士たちの侮辱、偽証人たちの中傷、司祭長の下男のごとき臆病者からの平手打ちを浴びせられ、恐れおののくペトロの否む声が聞こえてきます。われらの主イエスの御苦しみはどれほどであったでしょう。私たち一人ひとりにとってなんという教訓でしょう。その後ピラトの前での裁判です。この男は臆病者です。キリストに何の犯罪も見出せなかったのですが、正しい行動に伴う結果に向き合う勇気にも欠けていました。まず策を弄します。だれを釈放して欲しいか。バラバか、それともイエスか(マタイ17,17参照)。この方便に失敗すると、兵士たちに命じて鞭打ちや茨の冠で主を苛みます。(1987年4月1日の司牧書簡)

ゆるしの秘跡

 教皇ヨハネ・パウロ二世は一度ならず、オプス・デイには「告解のカリスマ」があると言われました。私たちが人々を告解に近づけ、また司祭の場合には骨惜しみせずこの秘跡を司るよう熱望するのは、神の特別の恩寵です。これには深い意味があります。赦すことは両親特有のことであり(神学大I,q.21,a.3,c全参照)、私たちはオプス・デイの精神に導かれて、無限に憐れみ深い父として神を見つめます。敬虔な子として神にゆるしを願うことは、神と親密に接している証拠です。創立者は(聖ホセマリア)、痛悔するのを非常に重要な信心の一つと見做し、それゆえ神の全ての赦しとあわれみを与える告解の秘跡を心から愛し、私たちにもそう教えました。「よい告解に勝る痛悔と償いの行為はない」(1972年2月)からです。(1993年1月9日の司牧書簡)

 私たちが誤ったり罪を犯したりしたら、あわれみ深い神は、特に平和と和解の秘跡・ゆるしの秘跡において助けてくださいます。必要ならいつでもゆるしの秘跡に赴き、罪を清め、神の恩恵を取り戻し、ご聖体を頂くことができるようにすべきです。聖体には「教会のすべての霊的富が含まれている。すなわち、われわれの過越、いのちのパンであるキリストご自身が、聖霊によって生かされ、また生かすご自分の肉を通して人々にいのちを与えられるのです」(『司祭の役務と生活に関する教令』5番)。あなた方も、たとえ大罪がなくても度々ゆるしの秘跡を受けなさい。ゆるしの秘跡は、あなた方が神の栄光と人々の救霊のために喜んで平和の戦いを続ける力を与えるからです。(1985年3月30日、世界青年の年の晩の集いでの説教。1985年の『Romana』I,p.62-p.63)

自分をよく知る:糾明

 これからの人生のために新たな戦いを皆さんに提案します。それは良心の糾明を丁寧にすることです。神が求めておられることとしてこの戦いを受け止めなさい。糾明は、現実的な―業―献身によって、神への愛を日々活きいきとさせる第一歩であり出発点だからです。心を込めてこの「キリスト信者の信心」である規定に配慮することは、生ぬるさに陥ることを防ぎ、罪の機会から遠ざけてくれます。

 心の清さを心から望むなら、あらゆることに主を見ることができるようになるでしょう。ですから本当にまじめに毎日良心の糾明をすることが必要なのです。習慣的に、表面的なことだけで糾明を終えて満足している人は、生ぬるさにつながる無頓着や霊的鈍感の坂道を下り始めることになります。このような近視眼的な見方は、善と悪、神からのものと自分の情欲あるいは悪魔からのものであるかを識別できないようにしてしまいます。(1976年12月8日の司牧書簡)

誠実

 糾明の時には、イエス・キリストとの親密さから引き離すことになる大なり小なりの動機や機会を勇気をもって見つけ出すために、行ないや怠りについて一つひとつその原因を探ることです。

主の御前で熟考し、ある徳を獲得するため、あるいは悪い習慣を取り除くために、どのような手段を講じるかを考えます。(1976年12月8日の司牧書簡)

ミサ聖祭はキリスト信者の生活の中心であり礎である

 信仰の人には、祭壇上の犠牲がこの世で行なわれる最も感嘆すべきものであると解っているのです。ミサに与ること―司祭にとっては捧げること―は、人間に固有な時間と空間というはかない絆を断ち切って、ゴルゴタの頂上に立ち、私たちの罪ゆえにイエスが亡くなってくださったその十字架の傍らで、贖罪の犠牲に積極的に参加することを意味します。

 全人類の解放、われわれの霊魂と身体の贖いが成就されつつあると知って、あの残忍を極めたときに、聖母、聖ヨハネ、聖なる婦人たちと共に、キリストのおそばに付き添うという恩恵が私たちに与えられたとすれば、私たちはどのように振る舞ったでしょうか。勿論、イエス・キリストが、父なる神に私たちのために捧げてくださった時、ずっと、礼拝、感謝、償い、祈願において、我らの贖い主との親密かつ直接的一致を求めたことでしょう。(1986年4月1日の司牧書簡)

私たちの生活とミサ

私たちの日常生活はミサが「中心」です。ですから、私たちの思考、行いの一つひとつと関係があるべきです。あなたの生活に、ミサ聖祭と無関係に展開するものが何一つあってはなりません。ミサの中で、私たちの奉献の完全な模範となるお方に出会うのです。愛に高鳴る生けるキリストがあそこにおいでになります。何もしていないかに見えますが、神秘体全体と共に―ご自身の人々と共に―完全にして終わることのない燔祭において、礼拝、感謝、我らの罪の償いおよび賜の祈願を父なる神に絶えず捧げておられるのです。秘跡においでになるキリストは、ありのままに、救霊に全存在を捧げるための永続的で喜ばしい刺激を下さいます。(1986年4月1日の司牧書簡)

ミサ聖祭における共同救済者

 私たちの全存在が共同の救済であるべきならば、ミサ聖祭であなたの生活は共同救済的側面を獲得し、そこから力を得、そして、とりわけその力が明らかにされるということを忘れないで下さい。ですから、ミサ聖祭は内的生活の「根源」なのです。この根源にぴったりと結びついているべきですが、これも私たちの受け方応え方にかかっているのです。このことから、私たちの奉献の価値は、私たちのミサがどうであるかによります。我々のパドレの言葉を具体的に解説しましょう。超自然的に話すならば、私たちの生活の効果は、イエス・キリストとその贖いたいという思召しに一致して、祭壇上の聖なる犠牲を執り行い、あるいはそれに与るときの信心、信仰、敬虔の程度にかかっているのだということです。事実、聖なる犠牲(ミサ聖祭)において日々の戦いで消耗した力を回復し、聖化と使徒職への意欲で充たされます。(1986年4月1日の司牧書簡)

始めることそしてまた始めること

 強い人になるため主により頼みましょう。私たちが続けるベき霊的戦いには勝つときもあれば負けるときもあります。しかし、皆、希望に満ちて戦わなければなりません。誰もこの個人的な内的戦いから逃れることはできません。内的生活において戦わないことは敗北を意味します。しかし、何度でもやり直すことは勝利を意味するのです。ローマのMilvio橋の近く、コンスタンチノが勝利を得て、キリスト教徒の迫害が幕を閉じ、教会の新たな歩みが始まったところのアーチの上にVictores victuri乗り越える者が勝利者、という碑銘があります。息子と娘よ、敗北を喫しても、毎回やり直すなら、神の御助けであなたは勝利者と呼ばれるでしょう。主にとっては、勝利の冠を与えるため善意だけで十分なのです。(1988年7月24日、スペインの聖母巡礼地・トレシウダでの説教)

キリスト信者の希望

Possumus! (マルコ10,39)できます。罪を犯し、哀れな存在であっても、私たちは聖人になれます。神は善良で全能であられるから、また私たちは神の御母を母としているから。そしてイエスが御母に「いいえ」と言うことなど決してなさらないからです。

 希望にあふれ、全面的に信頼しましょう。惨めさにも関わらず、私たちは聖人になることができるのです。来る日も来る日も戦っているなら、ゆるしの秘跡で心を清めているなら、しばしば、天国から降った命のパン(ヨハネ6,41参照)を頂いているなら。このパンには、主イエス・キリストの御体と御血、ご霊魂が神性ともども実際に現存されているのです。

 魂を神にお返しする時が訪れても、恐れることはありません。私たちにとって死は住いを替えることですから。それは神がお望みのときに訪れるでしょう。私たちが解き放たれ、本当の命、つまり永遠の命が始まるときです。(1989年8月15日、スペインの聖母巡礼地・トレシウダでの被昇天祭の説教。1989年『Romana』V,p.243)

聖母の母なる御手によって

 子としての信頼をもって神の御母により頼みましょう。聖母は必ず神なる御子に導いてくださいます。Omnes cum Petro ad Iesum per Mariam. こうして私たちは必然的に教会と教皇様を愛しつつ歩みを進めることになります。私たちの祈り―イエスの聖心のように普遍的なものでありたい―を聖母の御手に委ね、教皇様のため、司教と司祭、全ての信者と全ての人々、特に、悲しみや苦しみに苛まれている人たちのためにお願いしましょう。私たち全員が母なる汚れなきおとめの御手に導かれて、神が主を愛する人たちのために準備された(1コロサイ2,9参照)永遠の命にいたる確実な道を前進することです。(1988年12月8日、ローマの聖エウジェニオ教会でのマリアの無原罪の祭日の説教。1988年『Romana』V, p.287)

よい子供として単純に、聖母と共にあらゆることをなし、全てのために聖母を頼りにしましょう。創立者(聖ホセマリア)が教えたように「神の知恵に基づいて」生きることを学ぶため聖マリアに目―知性と心―を凝らしましょう。そうすると感謝のできる心、償いのできる心になるでしょう。(1978年1月9日の司牧書簡)


3.キリストは私たちを急き立てておられる

Regnare Christum volumus!

Regnare Christum volumus! キリストが支配しますように。主イエスも支配することをお望みです。しかし、決して押し付けることはなさいません。どこまでも人々の自由を尊重されます。人々が度々、主の愛を拒むことをご存知だとしても、あえて自由にお任せになるのです。自由は偉大な賜であり、私たちに天国を勝ち取らせる可能性を与えてくれるものだからです。

 主にお願いしましょう。私たちの模範と言葉で、何よりも祈りによって、多くの人たちに、主の光をもたらすことのできる恩恵をお与えくださいますように。神の国を築き広めるための処方箋は、イエスがお与えになりました。「願いなさい、そうすれば受けるだろう」(マタイ7,7)。私たちの全存在を傾け、言葉と業をもって心を込めてしつこく主に願いましょう。すると、イエスは聞き入れてくださるでしょう。主はいつも聞き入れてくださいます。しかし、私たちが来る日も来る日も執拗にお願いすることをお望みです。(1988年2月3日のお説教・アメリカにて)

神への信頼

 私たちは何もできないし、何も知らない、無に等しい存在です…。しかし、主は完全なお方で、全てをご存知で、全てのことがお出来になります。私たちが、素直な道具としてイエス・キリストの御手に全てを委ね、みことばに信頼して沖に漕ぎ出すなら、困難は煙のように消えうせてしまうでしょう―たとえ体は傷つき、傷跡が残ったとしても―。そうして、神に飢え渇いているこの世は花にあふれ、果物も実る緑深い庭園になるでしょう。(1978年9月24日、司牧書簡)

私たちの生活全体が使徒職である。

 「第一にいのり、次に償い、三番目、実に三番目に活動がくる」(『道』82番)。すべてを祈りに変えることができますし、またそうすべきです。私たちの生活全体が使徒職であることを忘れてはなりません。ミサ聖祭に支えられた仕事が使徒職なら、家庭における聖化する熱意も、活動に先立つ祈りと犠牲という手段によって私たちは、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」(マタイ28,19)る、という主から託された使命の根本的な部分を果たします。(1992年3月19日、司牧書簡)

人々を神に近づける

Caritas Christi urget nos (2コリント5,14)、キリストの愛が私たちを駆り立てます。職業を通して、人々との付き合いをキリスト教的意味と正しさに潤されたものにするべきです。「大工の息子」(マタイ13,55)であられたイエスのように、どのような環境においても、人々と神的で人間的な会話を始め、自分の振る舞いと言葉で、兄弟たちを惹きつけなければなりません。人々がこの世の現実に隠れている「神的なもの」と出会うため、仕事関係によって築き上げられる人間的な枠組みの中には、当然神の足跡が入っていなければなりません。(1991年12月1日の司牧書簡)

友情と親しい語り合いの使徒職

 友情とは何ですか。それは人に会い、挨拶を交わす間柄のことではありません。そうではなく、理解し、その人のために犠牲を捧げ、いつでもその人に頼まれたことを引き受け、手伝う心構えを持っていることです。こうして真実の友情が生まれます。そうすると当然、私たちの最高の宝、つまり信仰と神との交わりをその友だちと共有したいと思うようになるでしょう。それこそ自然な成り行きです。自然さを欠いているわけではありません。岩からほとばしり出る泉のように、努力なしにそうなるのです。

 友だちと真の友情を育みなさい。弁解し、理解し、愛し、手伝いながら。そうすると、その友だちは、遅かれ早かれ、あなたに心を打ち明けるようになるでしょう。人は誰でも時々心を開く必要があります。私たちには苦しいことがあったり、誰かに相談したりすることがあるものです。喜びがあると他の人たちと分かち合いたいと思うものです。全ての人は心を開くことのできるところを求めます。それはちょうど用水路、あるいは水力発電などのための貯水池にたとえることができます。必要以上に水が増えたら、適当なところに流すはけ口が必要です。同じことが霊魂や心にも言えます。排水溝、はけ口が必要なのです。

 では、人は誰に心を打ち明けるでしょうか。友だちや愛する人たちに打ち明けるはずです。あなたと友達になると少しずつ、こんなことがあった、こんなことを喜んでいる、こんなことを悲しんでいる、とあなたに話すようになるでしょう。そのときあなたは―神の御助けのもとに―、傷ついた心を癒し、困難を克服し、また内的生活を活気付けるような忠告をすることができるのです。(1988年2月22日、家族の集まりのメモ(カナダにて))

大胆さ

 全能にしてあわれみ深い神に頼るのですから確固たる自信に満ちて、オプス・デイの最年長者から、召し出しを受けたばかりの人に至るまで、楽観主義で、皆一人残らずこの重荷を担う幸せと幸いな責任感を持つ必要があります。なぜなら、これは主が私たちにこの世を遺産としてお与えになった結果ですから(詩篇2,8参照)。また、明らかに卑小な私たちであるにもかかわらず、愛徳と剛毅の徳をもって人々を正しい道に導くよう協力せよと主がお求めになっているからです。最初の十二使徒に言われたように私たちにも「私の名によって網をおろしなさい」(ルカ5,4)と仰せになっているのです。(1985年12月25日の司牧書簡)

喜びをまき広める

 急ぐべき時が訪れました。世界中が、キリストから遠ざかり、怒りや悲しみに満ちています。不安や恐れのうちに生きている人たちに、希望に満ちた楽観的な心と喜びを植え付けなければなりません。これは偉大な仕事です。人々にgaudium cum pace 喜びと平和をもたらすことですから。―それを創立者(聖ホセマリア)は、力強い筆跡で記した―しかし、私たちの心が喜び、しかも比類のない静かな喜びに充たされるのは聖母と共にあるときだけです。このとき初めて付き合っている人たちにも私たちの喜びが伝わっていくのです。(1978年1月9日の司牧書簡)

 貧しい人々と病人の訪問を通して、苦しんでいる人々に真の理解と愛情で織りなされている愛徳の香油を提供し、キリスト信者の結束を誠実に実践したいものです。(1987年5月31日の司牧書簡)


4. 社会の中の観想者

みことばは人となりこの世を聖化する

 「み言葉は肉体となって、我らのうちに住まわれた」(ヨハネ1,14)のです。これは神の愛の偉大な奥義で、降誕祭に特にあらわにされることです。万物がによって造られた(ヨハネ1,3参照)み言葉は、真の神であることをおやめにならずにご託身なさいました。人間の心で愛し、私たちと同じように自らの手で働き、罪以外私たちと同じ限界や疲れを感じられたのです。そのときから、全ては新しい意味、新しい価値を持つようになりました。(1991年12月1日の司牧書簡)

仕事を聖化する

良い仕事をすることと愛のために働くこととは、密接に一致しており、三位一体の愛と上智の一致を反映するものです。人間的及び超自然的完全性を求めて、良く働くためには、愛のために努力することが必要です。私がここで言いたいのは、あることにおいてすばらしい結果を得ることではなく、私たちが払うべき献身ということです。良く成し遂げられた仕事は、うまくいった仕事と同じではありません。ミツバチは完全な巣を作り、非常に美味しい蜂蜜を作りますが、愛することができないから<働く>とは言えません。大切なことは内的な態度であって、結果ではありません。「主は心を見抜く」(1サムエル16,7)と聖書にありますが、そこにこそ良くできた仕事か、粗雑な仕事かの鍵があります。(1991年12月1日の司牧書簡)

神に面を向けて働く

 いつも人にではなく神に面を向けて働きなさい。主は、もっとも目立たない仕事であっても、皆さん一人ひとりの努力をご覧になっているのですから。全ては神の栄光のために―Deo omnis gloria―そして全ての人間的な活動の中心にキリストを据えるという唯一の熱意を持って働きなさい。主イエス・キリストと一体となり、聖なるミサ聖祭を通して永続されるその贖いのみ業に固く一致して働きなさい。(1984年10月1日の司牧書簡)

現代社会を聖化する

 社会人としてのメンタリティーと司祭的魂を併せ持つ召し出しを有する私たちは、受身的な態度のままでいたり、あるいは世の中の傍観者でいることはできません。全被造物を三位一体に引き上げるよう奮い立つべきです。

 それゆえ子供たちよ、剛毅とイニシアティブが必要です。神は、私たちの自由と責任感そして社会人としてのメンタリティーを頼りにしておられます。私たちは食物全体に滋味豊かにしみ込む塩のようになり、塊のまま残らず、自分を取り巻くすべての環境の中でキリスト教的品位―味わい―を伝えていくよう主はお望みです。(1993年1月9日の司牧書簡)

正義と愛徳

 キリスト教的精神は、各個人に割り当てられるものだけではなく、尊敬と愛情を持って、厳密に必要以上に与えるべきです。また、人々のために自分自身を捧げることを要求します。特に英雄的な振る舞いで正義を実行しなければならないとき、愛徳こそは、強力な力です。こうしてのみ、人間の尊厳にふさわしい働きができます。つまり「神の子たちに対して私たちは神の子らしく振る舞うことができます」(『知識の香』36番)。(『Scripta Theologica』(1981)13, p.383-p.401.『Rendere amabile la veritá』p.264-p.265に記載)

家族生活の聖化

 結婚生活は、自分自身を捧げること、惜しみない心を持つこと、謙遜などすべての徳の学び舎です。夫が立てた計画に何度も気が付いたことがあるでしょう。たとえば、週末の計画などです。あなたは他のことをしようと考えていたかもしれません。しかし、愛はとても敏感なので、どんなことでも察することができます。夫は別の計画を考えているということがわかると、あなたは自分の計画については黙り、次のように言うでしょう。「ねえ、これをしてはどうかしら。」すると夫は大いに喜ぶはずです。皆こういう風に、夫は妻に、妻は夫に対してするでしょう。これは一つの神の祝福です。

 主がお望みになる夫婦生活をするなら、霊的な一致がもたらされ、共に喜び合うことができるでしょう。つまり神への愛に導かれるのです。夫は妻が、妻は夫が、より立派になるよう助け合うことができるようになります。あなた方が婚姻の秘跡を受けたときから、言葉では説明しきれませんが、秘跡による特別な恩恵を与えられているからです。互いに愛し合っているなら神が共におられるのです。そして、愛し合う時には理解し合っています。時々少し難しいことがあっても理解し合わなければなりません。愛情は与えるよりも理解することにあるのですから。(1987年11月22日、ダブリンでの家族の集まりでのメモ)

子供たちの教育

「あなた方のもっとも大切な仕事は皆さんの子供たちの教育ですよ」とオプス・デイ創立者は企業家たちによく話していたものです。効果的な教育をするには、子供たちの友だちになることです。幼いときから彼らを信頼していたら、何か難しいことが出てきたときに心を打ち明けることができるようになるでしょう。

 現代の生活リズムは、子供たちとのこのような関わりが難しいように思えます。ますます私たちは、時間を失い、その他の持ち物は多くなってきています。両親は、子供たちのより良い未来のためにという高貴な望みのためとは言え、仕事に追われ、疲れきっています。しかし、子供たちの将来は、子供たちに与えた快適な生活よりも、彼らと個々に関わった時間によるのです。こういうわけで、子供たちが嘆くのは、両親が与えなかったことについてではなく、彼らに関わってくれなかったからです。

(1989ローマ、教会の使命における信徒の使命についての記事「Sal, luz y fermento」『Catholic FamilylandIssue XXVII, p.11-p.14)

日常生活において観想者となるために

 私たちにとって「社会の中で観想的な人」になるとはどういうことでしょうか。簡単に言えば、愛に動かされ、天国で顔と顔をあわせて見奉るという確固とした希望を持ち、信仰の光で全ての内に神を「見る」ことです。聖パウロは「今私たちは、鏡を見るようにぼんやりと見ているが、しかし、そのときには、私が知られている通りに知るであろう」(1コリント13,12)と書いています。(1991年11月1日の司牧書簡)