「主を知り、あなた自身を知ること」(3) 「聖人たちに伴われて」

聖人たち、特に聖母の模範は祈り方を学ぶ大きな助けとなります。

イエスは初めて公にエルサレムに上られ、言葉と奇跡を通して本格的に神の国の宣教を始められました。カナでの婚宴中になさった驚くべき出来事以来、彼の名声は徐々に広がっていました。その頃、夜の闇と静寂に身をひそめて、一人の名の知れたユダヤ人が話をするためにイエスを訪れました(ヨハネ3,1参照)。キリストのお姿とお言葉はニコデモの心を深く動かしました。頭の中に沢山の質問が駆け巡っていた彼は、主と向かい合って親しく言葉を交わし、その答えを見つけようと考えたのでした。イエスは彼の誠実な心を見て、すぐに言いました。「誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハネ3,6)。

ニコデモは、その場に居合わせれば誰もが尋ねるであろう質問で会話を続けます。「それはどういう意味ですか。どうやって再び生まれることができるのですか」と。実はイエスがニコデモに求めていたことは、単なる物事の探求ではありませんでした。より大切なこと、彼自身の人生に神が入るに任せることだったのです。聖人になろうと目指すことは、もう一度生まれ変わるようなもの、すべてを新たな光で見るようなものです。もう一人のイエス・キリスト、キリストご自身になるために、少しずつ自ら変化し、新しい人になることなのです。「キリストの生命が私たちの中に現れるように努めねばなりません」(1)と聖ホセマリアが言われていたように。聖人たちは神の国への歩みを終えました。それぞれの人生において山々を登り、谷間で休み、時にはもう少し暗い奥まった所にも入り込みながら。だからこそ聖人たちは私たちの心を希望で満たすのです。キリストを見出す方法の一つ、それは正にこの「聖人たちを通って」です。彼らの生涯は、すべての信者が、祈り方を学んでいくそれぞれの道において、重要な役目を果たすことでしょう。

マリアは嬉しい時に祈ります…

沢山の浮き沈みを経験しながら東奔西走(とうほんせいそう)している日々の真っ只中で、祈ることなど私たちには不可能に見える時もあるでしょう。けれども、私たちの先人である聖人たちは、日常生活の中でも神と活き活きと対話ができることを証しています。聖人たちの中でも聖母の証は群を抜いています。彼女は日々の家族生活において、息子のイエスと愛情にあふれた親しさのうちに過ごされ、それ故御父との対話も最も生き生きと経験された方でした。どんな家族でもあるようにナザレの家族にも喜びの時もあれば、苦しい時もあったことでしょう。しかし、聖母はどんな時でも、どのような精神状態であっても、絶えず祈っておられたのです。マリアの生涯は私たちに、どんな時にも祈ることを教えるのです。

マリアの生涯は、私たちに常に祈ることを教えてくれます

例えば、嬉しい時彼女は祈りました。天使のお告げを受けてすぐ、マリアはいとこのエリザベトを訪問します。「そのころ、マリアは出かけて急いで山里に向かい、ユダの町に行った」(ルカ1,39)。聖母は、もうじき甥が誕生し、いとこの家族が増えるという喜ばしい知らせを受け取りました。しかもそれは高齢のザカリアとエリザベトに全く思いがけなく起こった大いに祝うべき出来事でした。「聖ルカが記す二人のいとこの出会いの場面はとても感動的です。喜びと恵みの場に私たちも立ち会うことができます」(2)。更に聖霊は、救い主が肉体を持ってそこにおいでになることを洗礼者ヨハネとその母親に啓示し、彼女たちの喜びに加わるのです。エリザベトは自分の家にマリアが入るや否や、感極まって彼女を讃えます。今では普遍的な祈りとなったあの言葉で。私たちもその祈りを日々繰り返し唱えて、彼女たちの喜びに深く入り込むのです。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています」(ルカ1,42)と。一方、マリアはいとこの歓喜に対し、感動で心を震わせながら応えます。「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜び讃えます」(ルカ1,46-47)。聖伝が「マグニフィカト」と名付けている聖母の祈りは、神の言葉に浸された賛美の祈りとはどういうものかを私たちに示しています。「マリアは聖書に精通しておられました。彼女のマグニフィカトは旧約聖書から取られた糸で織り上げられたタペストリーなのです」(3)というベネディクト16世のお言葉の通りです。私たちの心が何らかの賜物をいただいて感謝で満ちている時、それは祈りの中で神に心を開く時です。おそらく聖書の言葉を借りつつ、私たちの生活の中で神がなさった偉大な業を認めながら。特に喜びの時に、感謝を表すことはキリスト者の祈りの基本的な態度です。

そしてまた苦しみや落胆の時にも…

しかし、聖母は苦しみに直面したり理解できない状況に立たされたりなど、暗闇の時にもまた祈られます。そのマリアの姿は私たちにキリスト者の祈りのもう一つの基本的な態度を教えます。そのことは福音書が語るイエスの死の場面において、簡潔にしかし明瞭に示されています。「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた」(ヨハネ9,25)。イエスの母は悲しみに打ちひしがれながらも、そこにとどまられました。彼女は自分の息子を救おうとも、状況を解決しようともしませんでした。理解できないこの出来事の説明を神に願おうともしませんでした。彼女は唯々、イエスが十字架の上から弱り切った声で話しておられる事を、一言も聞き逃すまいとされていたのです。だからこそ、彼女は新たな使命を与えられた時、ためらうことなくすぐにそれを受け入れたのです。「『婦人よ、これがあなたの子だ』と言われ、また弟子には『これがあなたの母だ』と言われた」(ヨハネ19,26-27)。息子の死を目の当たりにしたマリアの心の痛みは、人が経験するであろうどのような苦しみよりも深く大きなものでした。それでも彼女はその苦しみを気に留めるどころか、この新たな呼びかけを受け入れ、ヨハネを、そして彼と共にあらゆる時代の男女をご自分の子供として受け入れたのでした。

聖人たちの著作と生涯は、私たちが神との友情を育むのに役立ちます。彼らもそうしたから

苦しみの最中に祈るとは何よりも、神のみ旨を愛して自らの十字架の下にとどまることです。つまり主が私たちのそばに置いた人々や、自分が置かれた状況に対して「はい」という心構えができているということです。祈るとは現実に対して目を開くこと、どんなに暗闇に思える事でも、その背後にはいつも神様がおられ、必ず何らかの賜物がそこに隠されているという確信をもって現実を見ることです。そうすれば、私たちもマリアのように「あなたのみことばのとおりになりますように」(ルカ1,38)と繰り返しつつ、人々や状況を受け入れていくことができるようになるでしょう。

最後に、聖母の生涯にはこうした苦しみとは別の精神状態の中での祈りも見られます。それはマリアが夫のヨセフと共に大きな不安と心配の中で祈る姿です。ある日、毎年行っているエルサレム神殿への巡礼の帰り道で、二人は12歳の息子がいないことに気づいたのです。二人は息子を探しながら引き返すことにしました。ついに学者たちと話をしているイエスを見つけ、マリアは尋ねます。「私の子よ、なぜこんなことをしたのですか。ごらん、お父さんと私とは心配して捜していたのですよ」(ルカ2,48)。私たちも自分の力不足を感じる時、義務を果たしきれず自分がいるのは場違いのように思う時など、度々不安に襲われることがあります。そんな時は自分を囲む世界、生活も召し出しも家族も仕事もすべてが間違っているかのように思えるかもしれません。そして自分が、期待していた通りに人生を歩んでいないと考えてしまうこともあり得ます。過去に抱いていた計画や望みが無邪気な夢物語に見えてくるのです。そんな私たちと同じように、マリアとヨセフも不安の時を過ごさなければならなかったことを知ると、励まされます。心配で胸が締め付けられる思いだった彼らが息子に理由を尋ねても、安心できる明確な答えは与えられませんでした。「『なぜ私を探したのですか。私が自分の父の家にいるはずだと知らなかったのですか』。しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった」(ルカ2―49-50)。

心配な時、祈れば物事がすぐに簡単に解決するわけではありません。それなら、私たちはどうすればいいのでしょう?聖母が一番良い方法を私たちに示して下さっています。私たちの人生の道に忠実であり続けること、いつもの生活を見直し、たとえ完全には理解できなくても、そこに神のご意志を見出していくことです。そして更に、こうした不可解な、時には暗い影を落とすような出来事の全てを、聖母がされたように、心の中に収めて黙想する、つまり祈りの中でじっくり見ていくことです。こうして少しずつ、神の現存をまた感じるようになるでしょう。そしてイエスが私たちの中で成長し、再び姿をお現しになるのです(「イエスは彼らと共に下り、ナザレに帰って、二人に従って生活された。その母はこれらの記憶を皆心におさめておいた。そしてイエスは神と人の前に、その知恵も背丈も寵愛もますます増していかれるのでだった」[ルカ2,51-52])。

聖人伝は私たちの人生と重なる

聖母は我々が切望している神との親密さを唯一無二の形で体験された方ですが、聖人たちもまた、個人的にそれぞれの固有な方法でそれを経験しました。「あらゆる聖人は、神の言葉から流れ出る光線のようなものです」とベネディクト16世は使徒的勧告の中で述べられ、幾人かの聖人の名を挙げられました。「真理の探求と霊的識別を行った聖イグナチオ・デ・ロヨラ(1491-1556年)。若者の教育に情熱をささげた聖ヨハネ・ボスコ(1815-1888年)。たまものと務めとしての司祭職の偉大さを自覚した聖ヨハネ・マリア・ビアンネ(1786-1859年)。神のあわれみの道具となったピエトレルチーナの聖ピオ(1887-1968年)。聖性への普遍的召命をのべ伝えた聖ホセマリア・エスクリバ(1902-1975年)。最も貧しい人のための神の愛の宣教者、コルカタの福者テレサ(1910-1997年)」(4)。

私たちがある種の性格やあり方に好感を持つこと、その人がしている仕事に特に心が引かれたり、その言葉が直接私たちの心と知性に響いたりすることは、人として至極当然のことです。ある聖人の著作を読み、その生涯と経験を知ることは、その聖人と本物の友情を育む最良の方法です。けれども、もし聖人たちの生涯やその祈りについて並外れた点ばかりを強調するならば、彼らの模範は私たちには遠いもの、倣っていき難いものとなってしまうことでしょう。

「ペトロやアウグスティヌスやフランシスコのことを覚えているでしょう。母の胎内にいる時から恩恵にかためられていたかのように、聖人の偉業を語る伝記類は読むにたえません。それは素朴な心から出たものですが、同時に、教理の知識が不足していた結果生まれたものです」と聖ホセマリアは書いています。聖ホセマリアは人々のことを、たとえ教会に列聖された聖人たちであっても、まるで彼らが完璧な人であったかのように理想化をしないことが重要であるといつも強調していました。「キリストの英雄たちの本当の伝記は私たちと同じなのです。彼らとて闘って勝利を得、また闘っては敗北を喫したものです。そして敗れたときは痛悔の心を以て再び闘いに赴いたのです」(5)。こうした現実的アプローチなら聖人たちの証言はずっと信じやすいものになります。

彼らも私たちと同じ人間であると分かるので。フランシスコ教皇は言われます。「(聖人の中には)自分のお母さんや、おばあさん、他の親しい人たち(2テモテ1:5参照)がいても不思議ではありません。必ずしも彼らの人生は非の打ちどころのないものではなかったかもしれません。それでも彼らは、過ちや失敗を犯しても前向きであり続ける、主の心にかなう者でした」(6)。

アルスの司祭、聖フィリッポ・ネリ、幼きイエスの聖テレジア、聖ホセマリアは、祈りの偉大な教師であろう

こうした人たちの生き方に具現された祈りを見ると、「祈り」が何かをより深く理解することができます。聖人たちの事をよく知るならば、それが助けとなって何度も新たに祈りを始めるための様々なやり方を見つけることができるでしょう。例えば、何か月間も牢獄生活を送った聖トマス・モアにとって、詩編91が非常に大きな慰めとなったと知ることで、新たな光を引き出すこともできるでしょう。「神は羽をもってあなたを覆い翼の下にかばってくださる。…あなたは主を避けどころとし、いと高き神を宿るところとした。…彼はわたしを慕う者だから、彼を災いから逃れさせよう」(7)。殉教者トマス・モアが牢獄の悲惨さの中で、前途に待ち受ける惨い死や愛する人たちの苦しみを想いながらも、詩編から慰めを得たように、私たちも人生の大小の困難に出くわす時、詩編によって祈りの道を見出すことができるかもしれません。

神の愛深い眼差しに感嘆して

聖人たちの事をよく知るならば、彼らがしていたように日々の出来事の中で神を見出す助けになります。例えば次のエピソードを読む時、私たちの心は動かされるのです。アルスの司祭、聖マリア・ビアンネは、自分の教区にいる信者で、読み書きのできない一人の農民が、聖櫃の前で長い時間過ごしていることに気付きました。ある日、司祭はその男性に尋ねました。「何を祈っているのですか」。すると善良なその人は答えました。「私はあの方を見つめ、あの方は私を見つめておられます」と。これ以上の答えは必要ないでしょう。この教えはアルスの主任司祭の心にしっかりと刻まれ、消えることはありませんでした。カトリック教会のカテキズムは、このエピソードを引用して「念祷とは、イエスへと注ぐ信仰のまなざしです」と教えています(8)。私が主を見つめ、そしてそれより遥かに大切なことは、主が私を見つめてくださる。神様は常に私たちを見つめておられますが、私たち自身が彼の方に視線を上げ、主の愛に満ちた眼差しを受け止め、愛に愛を返そうとする時、その時こそ主は特別な愛情で私たちをご覧になることでしょう。同様の事が聖ホセマリアにも起こりました。その経験は彼にとって大変印象深いものであったため一生の間度々そのことを話題にしていました。彼がまだ若い司祭として司牧活動を始めたばかりの頃、彼は午前中ずっと告解場に座って、人々が秘跡に与りに来るのを待っている時にしばしば耳に入ってくる、扉が開く音やブリキ缶がぶつかり合う音が気になり、好奇心をそそられていました。ついにある日、好奇心に負けて、若いホセマリア神父はその音の正体を見ようとドアの後ろに隠れました。そこに現れたのは牛乳缶を運ぶ一人の男でした。彼は教会の開いた入口に立ち、聖櫃に声を掛けました。「主よ、ここに牛乳屋のフアンがおります」と。そうして少しそこに居た後、去っていきました。あの素朴な人物は意図せず、若いホセマリアに信頼に満ちた祈りの模範を与えたのでした。神父は感嘆し、心の中で何度も繰り返すのでした。「主よ、ここにホセマリアがおります。ホセマリアはどうすればあの牛乳屋のフアンほどの大きな愛であなたをお愛しできるのか分かりません」(9)。

様々な時代の、様々な背景を持つ多くの聖人たちは、私たちも神様が向けておられる愛情あふれた眼差しを感じ取ることができると証明しています。私たちがどこにいても、私たちのこのありのままの姿を神が愛をもって見て下さっていることを、私たちは聖人たちの言葉によって信じることができるのです。何故なら聖人たちこそが、私たちに先立ってこうした事実を驚きと感動のうちに発見した人達だからです。

眠っていても、目覚めていても

前述のとおり、聖人たちの弱さや疲れを知ることも私たちには役に立ちます。聖ホセマリアは晩年に、「昨日は、アヴェ・マリアの祈りを続けて2度集中して唱えることすらできなかった」と述懐したことがあります。「どれほど悲しかったことか。しかし、難しくてうまくできなかったが、いつものように祈り続け、申し上げた。主よ、お助け下さい。私に託されたこの大きな仕事を前進させなければならないのはあなたです。私が全く取るに足りないことでも、ちゃんとできないことをご存じなのですから、いつものように御身の御手に委ねます」(10)。名誉教皇ベネディクト16世は聖フィリポ・ネリについて次のように述べられました。「聖フィリッポ・ネリは朝、目覚めた最初の瞬間から神にこう語りかけました。『主よ、今日もフィリッポの上にみ手を置いてください。み手を置いて下さらなければ、フィリッポは御身を裏切るからです』(11)。また福者グアダルーペ・オルティス・デ・ランダスリは、ある手紙の中で、祈っても全く慰めを感じない時があることを認めています。「心の深奥には神様がおられます。この所、特に念祷の時には、全くと言っていいほどそのことを感じることがないのですが」(12)。また幼きイエスの聖テレジアは、自叙伝の中で次のように打ち明けています。「本当に私は、聖女どころではありません。これだけでも、その良い証拠です。霊的渇きを喜んだりせずに、自分の不熱心と不忠実のせいであると考えるのが、当然ですのに…。それからまた、念祷やご聖体拝領後の感謝の間に居眠りをすること(もう七年も前から)も、悲しまなければならないはずでしょう。ところが私は、悲しみません。小さい子供は眠っていても、目覚めていても、同じように親の気に入ると思います。お医者様も手術をなさる時には、病人を眠らせるでしょう。とにかく『主は、われらが何でできているかを知り、われらの、ちりにすぎないことを覚えて』いらっしゃる(詩編102,14)と思います」(13)。

このように、私たちは聖人の証言と同伴が必要なのです。自分を主の御手に委ねて、日々主との友情を育んでいくことは可能であり、価値のあることだと確信するために。「本当に、私たちは皆、誰でも神との友情に心を開くよう招かれていますし、また実際にそれが可能なのです。決して主の御手を放してしまうことなく、主の元に戻る努力を弛まず続け、友人と話をするように主との語り合うよう呼ばれているのです」(14)。

Carlo Marchi

(1) 聖ホセマリア・エスクリバー、『知識の香り』104。

(2) 2018年7月13日、スペインのコバドンガにおけるパドレの言葉。

(3) ベネディクト16世、2005年12月18日の説教での言葉。

(4) ベネディクト16世、使徒的勧告『主のことば』48番。

(5) 聖ホセマリア・エスクリバー、『知識の香り』76。

(6) 教皇フランシスコ、使徒的勧告『喜びに喜べ』3。

(7) 詩編91,4;9;14。聖トマス・モア、『苦難に対する慰めの対話』参照(第三章は詩編91番の詳細な解説)。

(8) 『カトリック教会のカテキズム』2715。

(9) El Fundador del Opus Dei, Rialp, 1997 Vol.I, Cap. 8, p.501参照

(10) 聖ホセマリアの1970年11月26日の言葉。『聖ホセマリアの思い出』に引用。

(11) 名誉教皇ベネディクト16世の321回目の一般謁見演説「聖アルフォンソ・マリア・デ・リグオーリの祈りに関する教え」2012年8月1日。

(12) M. Montero, En Vanguardia: Guadalupe Ortiz de Lnadázuri, 1916-1975, Rialp, Madrid 2019, p.94

(13) リジューの聖テレジア、「ある霊魂の物語」原稿A,76枚目の段落1(邦訳は「小さき聖テレジア自叙伝」ドン・ボスコ社、1981年p.223)。

(14) J. Ratzinger, “Dejar obrar a Dios”, en L’Osservatore Romano, 6-X-2002。