聖ホセマリアの生涯-3

真っ白な雪の上に裸足の足跡が続いているのを目にしたホセマリは司祭となる決心をしました。弟は生まれる。お父さんは亡くなりました。

ログローニョで聖ホセマリアと弟のサンチアゴ

スペインは暖かい国と思われるかもしれませんが、冬はかなり寒いです。1917年の年末ログローニョは厳しい寒波に襲われました。クリスマス休暇のある朝、ホセマリアが外に出てみると、真っ白な雪の上に裸足の足跡が続いているのを目にしました。それはある修道士が残したものでした。彼は深い感動を覚え、「神様と隣人のためにこんな苦行をする人がいるのに、自分は何もしなくていいのだろうか」と考えました。

後にこう言っています。「神が私に何を求められているかは知りませんでしたが、自分をお選びになったということははっきりわかりました。」つまり、少年は神から呼ばれたと感じたのです。カトリック教会はこれを召し出しと言います。では、何をすればよいのでしょうか。ホセマリアはもっと深く祈るように努め、福音書に出てくる盲人の言葉、「主よ、見えますように」を繰り返すようになりました。

1918年の春、将来の進路を決める時期になりました。ホセマリアは神のお望みに応えるために、とりあえず司祭になろうと決心し、それを父親に打ち明けました。

ホセ氏は「息子よ、よく考えなさい。家庭を持たないことは辛いことだよ」と言って二粒の涙を流したそうです。「父が泣くのを見たのは、後にも先にもこのときだけです」とホセマリアは言っています。ホセ氏には家族の計画を変更せねばならないこと、息子がその理想実現の過程でぶつかるだろう困難、などが頭に浮かんだのでしょう。「でも反対はしない」と言い切り、友人の司祭に紹介し、同時に法律の勉強もするよう助言を与えました。このとき、ホセマリアは両親を助ける義務について考えました。そして、瞬間的に将来両親を支えることのできる弟を下さいと神に頼んだのです。しかし、この祈りについてはすぐに忘れてしまいました。

ホセマリアが司祭になる決心をしたという噂は、友人や知人を驚かせました。実はホセマリア自身、雪の上の足跡を見るまで、司祭になろうという考えはまったく持っていなかったのです。

司祭になる決心をしたホセマリアは、16歳で高等学校を卒業すると、ログローニョにあった神学校に外部生として入学し、2年間、家からこの学校に通いながら神学やラテン語の勉強に励みました。この間、うれしい出来事がありました。それは弟の誕生です。弟はサンチアゴと呼ばれました。以前、司祭になると決意したとき密かに神に弟を送ってくれるよう祈ったことが思い出されました。

1920年秋、本格的に神学校で学ぶため、両親の家を離れてサラゴサという町に引っ越し。この町はローマ時代にさかのぼる由緒ある町で、アラゴン地方の首都で大学もありました。ホセマリアは父の忠告に従って、神学校で学びながら大学で法学部の授業も受けました。しかし、父にとって息子の進学はかなりの犠牲となっていたようです。ある年の夏休み、ホセマリアの実家で数日過ごした神学校の同級生は、「あの方を見ると心が痛みます。まだそれほど年をとっていないのに、もう老人のように見えました」と言っています。

ホセマリアが神学校に入ったのはもちろん司祭になるためでしたが、彼にとって司祭になることは神のお望みを果たすための手段でした。しかし、肝心の神のお望みが何であるのかがまだわかりません。そこで、「主よ、見えますように」という短い祈りを何度となく繰り返していました。まるで暗闇の中で一条の光を求めるかのように。

神学校での生活はつらい出来事を交えながらも順調に進んでいきました。そろそろ司祭叙階の準備が始まろうとした1924年秋「父、危篤」の電報が届きました。ホセマリアは大急ぎで帰省しましたが、ホセ氏は部屋の床の上に遺体となって横たわっていました。「父は消耗しきって死にました。口元には微笑を浮かべて」。この父の思い出はその後苦難の中でホセマリアを支え続けます。「父が苦しさを表に出さず、喜びのうちに苦しむのを見ました。・・私はどれほど多くを学んだことでしょう」。

大黒柱を失った家族に、ホセマリアは自分が亡き父に代わって彼らの面倒を見ると約束しました。こうした苦境の中で1925年3月28日ホセマリアは司祭になるのです。