聖ホセマリアの生涯-12

オプス・デイが生まれた当時のスペイン社会には、反カトリック的な雰囲気が満ちていました。

聖ホセマリア

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18世紀にフランスで啓蒙思想と呼ばれる考え方が知識階級の間に広がります。この思想は、人間理性だけに信頼するなら人類は無限の進歩をする、この進歩を妨げる最大の敵がカトリック教会だと主張しました。この考えに従ったフランス革命は激しくカトリック教会を迫害しましたが、教会は生き残りました。しかし、啓蒙思想は欧米の知識人階級に徐々に浸透していき、19世紀の初めにはスペインにも入ってきました。

19世紀の後半には、これとは別に社会主義(マルクス主義)の考えも広がりました。この思想は、社会の不平等の主要な原因は宗教にあるとし、平等な社会を作るためにはまずキリスト教を抹殺しなければいけないと信じました。この考えに従って1917年に革命を成功させたロシア共産党はロシア正教の教会を残酷きわまる仕方で弾圧し、同じ政策を世界に広めようとしていました。スペインも例外ではなく、社会主義者の人々は産業の発展とともに増えてきた労働者の間に、教会に対する憎悪を植え付けていきました。この啓蒙思想家と社会主義者たちはそれぞれ政党を作り政治の世界に進出し、20世紀になるとスペインでも社会主義や共産主義の政党が勢力を伸ばしていました。

1931年に選挙が行われました。反カトリックの政党はどれも過半数からはほど遠い議席しか獲得しませんでしたが、右派が分裂していたので、連立政権を作ることで政権を握りました。王は国外に退去しスペインでは共和政が始まりました。新政府は早速、教会弾圧に乗り出しました。教会の抗議にもかかわらず、憲法を変えて、教会の財産を没収、修道会を教育から追放などの法案を矢継ぎ早に審議していったのです。

また巷では、反カトリックの組織に扇動された民衆が教会や修道院を焼き討ちするということも始まりました。警察がそのような暴行を傍観したため、このような野蛮な行為が全国の主要都市に広がっていきました。選挙の興奮がまださめやらぬある日、聖ホセマリアの病人援護会の教会にも暴徒が集まってきました。師は教会に安置されているご聖体を友人の家に避難させようと考え、友人の服を身にまとい、革命の雰囲気に酔ってうかれている暴徒の中を祈りながら歩いて行ったのです。ご聖体の避難は何度か繰り返されました。生まれたばかりのオプス・デイはこのような社会の中で育っていくのです。