黙想の祈り:神のお告げ(祭日、4月8日)

黙想のテーマ:「神は私たちを神化される」「イエスの生活を観想する」「とても人間的な神性」

神は私たちを神化される

イエスの生活を観想する

とても人間的な神性


「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」(ヨハネ1・14)。神のお告げの祭日に、この世に来られることによって示された神の深遠な慈しみを喜びたたえます。真の神であり人間であられるナザレのイエスをほめたたえ、主の御母になられた聖マリアをほめたたえます。またこの祭日は、私たちを含めた全人類のお祝いです。というのも、ご托身の神秘は、私たちの人間性の非常に高い尊厳を表し、恩恵の働きでそれがさらに高められることを示すからです。

今日の祝日は私たちに、人となられた神のみことば・イエスに注目するよう促します。「完全な神であると同時に骨肉を備えた完全な人間である御身を眺め、また、理解され愛されることを私が決して疑わぬようにと、キリストが自らを空しくして奴隷の姿をとって下さった」[1] と聖ホセマリアは驚きを隠せません。この信仰の真理は歴史的な出来事であり、私たちの心に平和をもたらす無限の源泉です。「神はわたしたちの弱さに近づき、触れるために、ご自身も弱くなられた」[2]

また、神が人間になられたのは、私たちの生活のあらゆる面が神化されるよう、主にお任せする事への招きでもあります。ミサ聖祭の初めに、この変容が私たちの内に実現されるよう、大胆にも主にお願いします。「救い主イエス・キリストが、人となられた神であることを信じるわたしたちが、神のいのちに与ることができますように」[3]。受肉の神秘は、私たち人間には、それ自体善である人間性を遥かに超える広がりのあること、また超自然的に生き、はかないものを超えて愛することができることをも示しています。それは、私たちに似ているキリストを通して、神から与えられる力です。


「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(ルカ1・28)。マリアには誕生の時からこの神との親密さを与えられていました。この神との近しさは、ご托身の時、さらに深まりました。聖母は、地上にいながら、神と密接に一致した存在になりました。聖母は、ナザレで、神との唯一無比の親密さの内に、至極一般的な日常をイエスと共に過ごしました。それに続く主の公生活においても、多くの時間を共有されたことでしょう。

聖マリアの体験が、誰の追随も許さないことは確かです。誰もマリアのような深い絆でイエスと結ばれた人はいません。しかしながら、私たちは、肉眼で見ることのできないことを、信仰の目で見ることができます。それゆえ、福音書を観想することは、聖マリアが熟知していた主の人間性を見つめるための、またとない方法です。「水が流れ去る」[4]ように福音書を読むのではなく、聖母が御子のご様子を見つめられたような読み方をすることです。「キリストのご生涯についてはよく知っておかねばならないからです。それもすっかり心に刻みつける必要があるのです。どんな時でも、書物に頼らずに、ただ眼を閉じるだけで映画でも見ているかのように、主のご生涯を思い浮かべることができるためです。そうすれば、私たちは生活のどのような場にあっても、主のみ言葉やみ業を思い浮かべることができるからです」[5]

カテキズムは、メシアの在り方をこのように眺める時に生じる変化を次のように説明しています。「念禱とは、イエスへと注ぐ信仰のまなざしです。聖なる主任司祭がいたころ、聖櫃の前で祈っていたアルスの農夫は『わたしはあの方を見つめ、あの方はわたしをみつめておられます』と話していました。(…)イエスのまなざしが心を浄めてくれます。イエスのまなざしの光はわたしたちの心の目を照らし、あらゆることをご自分の真理とすべての人に対するご自分のあわれみとに照らして眺めるようにと教えてくれます」[6]。愛し合っている二人のように、多言は不要です。私たちを包み込む偉大な愛と忠実を確信して眺めるだけで十分です。


主への信頼をこめたこの祈りの時に、日々の闘いの助けになる多くの振る舞いや言葉を学ぶことができます。神愛と人間的な愛を一つにしたキリストの振る舞い方を観想することは、キリスト者としての私たちの生活に、人間キリストの品格を与えるのに役立ちます。聖ホセマリアは「神のものであるためには、そして神に仕えるためには、人間的な事柄を大切にすることから始めなければなりません」[7] と言っていました。神のお告げの祭日は、神が天上に留まっておられるわけではないことを、思い出させてくれます。イエスは、神が非常に人間的であられることを示しています。主は、全ての人たちと細やかに接し、社会から除外された人たちに寄り添い、弟子たちのことに配慮しておられました。

真の人間キリストを観想することは、単に祈りだけではなく、仕えるというキリスト者としての使命をも豊かなものにします。主は、声と手で癒し、祝福し、十字架を抱えるため両腕を広げ、全身を通して、物理的にも私たちに尽くしてくださいました。プランを練るだけではなく、実際に働かれたのです。

「神のこのような行動様式は、わたしたちが自らの信仰の現実について問いかけるよう強く促します。わたしたちの信仰は、感覚や感情の次元にとどまってはなりません。むしろそれは、具体的な生活の中に入っていかなければなりません」[8]。イエスは全生活をいけにえとして御父に捧げました。地上での歩みの各瞬間を奉献されたのです。これは聖母にも当てはまることで、お告げの日のfiatで「神の約束を」信じました。「その約束はすべての事柄を刷新する唯一の力」[9]です。


[1] 聖ホセマリア『神の朋友』201番。

[2] フランシスコ、「お告げの祈り」でのことば、2021年1月3日。

[3] ローマミサ典書、神のお告げの祭日の集会祈願。

[4] 聖ホセマリア、団らん、1971年1月2日。

[5] 聖ホセマリア『知識の香り』107番。

[6] カトリック教会のカテキズム、2715番。

[7] 聖ホセマリア『知識の香』172番。

[8] ベネディクト十六世、一般謁見演説、2013年1月9日。

[9] フランシスコ、演説、2019年1月26日。