マナー

礼儀正しさ、丁寧さ、などの小さな徳は、より大きな徳と深くつながっています。家庭は年齢に関係なく、これらの徳を学ぶための最良の場です。良い真マナーについての記事。

 作法というものが時代とともにどのように変化したかを考えるなら、またそれが場所によって変わることを考えるなら、マナーというものが人間社会の作り上げたもので、それゆえ好き勝手に修正したり、取り除いたりできると考える人もいるだろう。しかし、礼儀という点では基本的なことは変わらない。例えば、「あの人の振る舞いを見ると、良い家庭に育ったことがわかる」とか、「しつけの良い子だ」とか普通に言われるし、もし私達にそのようなことが言われたら嬉しいだろう。

 人間徳というものは、超自然徳の土台であるが、世間でよく上品さとかよいしつけとか言われる、社会の行動の仕方や習慣の基礎にある。人と楽しくつきあうための条件である愛想良さという徳が、最も大切な徳であるとは言えないだろう。しかし、愛想良い人は、相手に親近感や心が通じ合うものがあると感じさせる。上品さは、それがなければ社会生活が何となくぎすぎすするもので、私達をより人間的に、よりよい市民にしてくれる。行儀正しさ、親切さ、上品さとそれらに類した習性は、より大きな徳の小さい兄弟とも呼べる。しかし、その特殊性は、それらなしには社会生活が嫌なものになるというところにある。また、下品で無愛想な人が愛徳を実践するのは困難である。

イエスの模範

写真: Creative Commons.

 私達は、自分が何か無礼な態度や行動をしてしまった後で、「どう思われただろう」とか「なぜこんなことをしたのだろう」とか「恥ずかしい」とか思ったことがあるだろう。福音書には、対照的な態度の人を並べる箇所がある。一人は当時の名士、他方は罪深い女である。シモンと言うファリサイ派の人が、預言者の評判のある人のためにそれ相応の宴会を催した。きっと招待客の席順を決め、給仕に気を配り、ご馳走のメニューや師にどういう会話をしようかなどについて頭を巡らしたであろう。地域の有力者である招待客と主賓の前で、面目を施さねばならなかった。しかし、いくらかの心遣いを忘れ、主はそれを残念にお思いになり、こう言われた。

 「この女をご覧なさい。私が家に入ってきても、あなたは足を洗う水さえくれなかったが、彼女は涙で私の足をぬらし、自分の髪の毛でふいてくれた。あなたは私に接吻しなかったが、彼女は私が入ってきたときから、私の足に接吻してやまなかった。あなたは私の頭に油を塗ってくれなかったが、彼女は私の足に香油を塗ってくれた」(ルカ7、44-46)。

 一見したところでは、これは取るに足らない些事のように見える。しかし、完全な神であり完全案人であるイエスは、そのさりげない無礼を見逃さなかった。聖ホセマリアは、神の子が人になられたという受肉は一体どういう意味を持つのかについて深く黙想し、その一挙一動に現れる深遠な意味を見つけ、この場面についてこうコメントした。「(イエス・キリストは)救いをもたらすお方であって、人間性を破壊するようなことはなさいません。キリストから他人をあしざまにあしらってはならないことを学びましょう。私達は例外なく神に造られた存在であり、神のかたどり、神の似姿なのですから」(『神の朋友』、73)と。

 ここに、社会の様々な小道において、神に近づきたいと望む人にとって有益な教えがある。つまり、どんなに小さく意味のないように見えても、神に捧げることのできないものはありません。「あなたがたは、食べるにしても、飲むにしても、また何かするにしても、すべて神をほめ称えるために行いなさい」(『コリント前』10章、31)。人間のするまっとうな活動はすべて、すでに浄化されている。だから神との一致のうちにそれらを成し遂げるなら、人々の救いの業に役立てることができる。同じように、恩恵のうちに生きようと努めるキリスト教徒が実行する諸徳も、自然的であり同時に超自然的である。言い換えるなら、純粋な自然のレベルにだけあるのでも、純粋な超自然のレベルだけのものでもない。

 受肉の秘儀を考えるとき引き出されるもう一つの結論は、個人的な徳と社会的な徳の区別は難しいということだ。集団に埋没して個性がない人はなく、集団とは無関係の孤立した人間もない。私達は社会との関係の中で生活し、他の人々と肘をつきあわせながら生きる。人は各々独立の存在であると同時に、周囲に依存している。ということは、「ペルソナ(人)」というものは、暗黙裏に他人との繋がりを持っているということである。「徳は徹底的に個人的なもの、パーソナルなものであると言わねばなりません。・・・(しかし同時に)お互い何らかの方法で助け合い、また迷惑を掛け合っているのです。誰一人孤立した存在ではなく、みな一つの鎖の環を作り上げているのです」(『神の朋友』76)。どうして甲さんと一緒の時は楽しく、乙さんとではそれほどではないのか。ひょっとしたら、甲さんは私の話に耳を傾け、私を理解してくれ、急かせないし、落ち着いていて、自分の意見を押しつけるのではなく、助言をしてくれる、敬意を払い、控えめで、必要なことだけを質問するなどの特徴を持っているからではなかろうか。徳とは、人々に見せびらかすため、自尊心を満足させるためにあるのではなく、つまるところ他人のためのものである。

 人と仲良くやる、好みを合わせる、思いを共有する、何かの奉仕を申し出る、相手を受け入れる、落ち着きを周囲に広げる、こういったことができる人は本当の有徳の人間になる道を歩んでいる。イエスは、もしこれらの条件の何かがかけるなら、社会生活にも支障をきたすことを教えている。社交の徳とでも呼べる徳は、愛徳という宝石をはめ込む基盤である。


写真: Sean Dreilinger (Creative Commons).

テーブルのマナー(徳)

 今日、父親も母親も家の外で働くという現象が広がっている。家計を維持するために二人の収入が必要という事情もあろう。そのため家族全員が家で一緒になるということがますます困難になっている。多くの母親は、「子供たちが学校で給食を食べるんだったら、ラッキーだわ」と考えるだろう(注。ラテン系の国では昼食は家に帰ってとるのがこれまで普通であった)。以前家族で昼食をしていた頃は、すべてがバラ色であったというわけでは毛頭ない。というのは、子供たちは喧嘩、食事の文句、そこで両親は彼らを絶えずしからねばならない、という風景も珍しくなかったからである。このことは、だいたい今と変わらない。しかし、日常生活でふつうに見られる機会を利用し、難しい時間を教育を与える機会に変えるために努力することは価値がある。

 毎日の夕食、あるいは土日の昼食を家族が一緒に集まる機会にしようと考えたことは、どれほどあるだろうか。多くの若者が男女を問わず、自分たちにとって最も大切なことはと尋ねられ「家族で一緒に食べること」と答えているという社会学者の見逃せない調査結果がすでにある。私達を愛してくれる人たちと一緒にいること、何かを分かち合うこと、自分のことをわかってもらえること、このような経験によって、私達は文明化され、他の人との接し方や、互いに自分を与え合うことを学んでいく。また、家族の関係を改善し、親たちには子供とざっくばらんに話す機会を提供する。それによって親は子供たちをよりよく知り、困難を予想して事前に助けの手をさしのべることが可能になる。

写真: Helga Weber (Creative Commons).

 それだけでなく、家族の食事の中でどれほどの行儀作法が教えられることか。「塩をとってくれない」、「テーブルに着く前に手を洗いなさい」「背筋を伸ばしなさい。食べるときは足を組まないこと」「食事の準備(かたづけ)を手伝ってくれない」「パンは捨てません」「ちゃんとお箸を使いなさい」「肉は小さく切って、口を一杯にして話してはいけません」「出されたものは、好き嫌いせずに、残さず全部食べなさい」「口を茶碗に近づけるのではなく、逆です」「スープを飲むときは音を出さない」「テーブルでは肘をつきません」。これらのうちのあるものは場所によって異なるだろうが、多くのものは万国共通だろう。これらすべてを、ましてや絶えず言う必要はないが、これらの注意は周囲の人のためにどのようなことを注意すべきかを表している。つまり、上品に、正しい作法で、清潔な振る舞いをすること。またなおざりにすれば他人に不快感を与えるかもしれない小さなことへの配慮など。

 食事のなかで、基本的な生活習慣を学ぶことができる。例えば、他の人にも残るように考えて自分につぐ分量を加減する。出されたものをより美味しく食べるために間食を避ける方が良いこと、など。他方、一緒に食事をすることは単なる社会的な行為に過ぎないわけでもない。それは、言葉の最も高貴で厳密な意味で、文化でもある。よく言われるように、文化cultureは礼拝cultusと関係がある。神にふさわしい礼拝を捧げることは人間の本性に従ったことである。礼拝は、儀式や制度の形をとるとき、文化となる。食事を祈りで始めるなら、それは主にすべての栄光を帰す立派な行為となろう。もし神の祝福を家族と頂く物の上に求めるなら、日々与えられる糧を主に感謝するなら、食事を準備してくれた人々のためや食べる物がなく苦しんでいる人々のために祈るなら。食前食後の祈りは、神がいつもそばに居て下さることを思い出すように、またもらった物を感謝するように、日々の生活の中で周囲の人に敬意を払うように助けてくれる習慣である。

よい雰囲気を維持する

 食卓や家族の団らんにおいて、子供たちは社会でどうやって振る舞うかを学んでいく。昨今「なんでもいい」ということが本当ではないことが、ますます明らかになっている。どんなことにも不満を言う人、どんなことについても議論したがる人は、つきあいにくい人である。人前に出るとき、身だしなみに気をつけない人は、自分自身と周囲の人に対する敬意を欠いていることを示し、少なくとも第一印象として、信頼できる人とは見られない。正しい言葉遣いで話すこと、会話において必要な時に話し、あるいは聞くことができること、身だしなみと立ち居振る舞いにおいてきっちりしていること、これらは社会生活に要求される態度である。

 低俗さから人を遠ざけるのは、衣服そのものよりも、洗練された生活様式と品格である。その特徴とは、極端や対照的なものを上手に調和させることができるゆえに現れるバランス感覚と質実さであって、決して流行を追うことはしない。この品格は私達のパーソナリティーの一部である。この意味で、状況に応じた服装を学ぶことは大切である。おしゃれとは高価な衣服やブランド品を揃えることではなく、むしろ清潔でアイロンのかかった衣服を羽織ることである。このことは、子供たちは家庭で親たちの上品で控えめな振る舞いを見て、自然に学んでいくのである。晩餐に行く時と友達と一緒に食べる時、あるいは家族水入らずの食事の時とでは、身につける服は同じではない。朝起きたばかりのときパジャマ姿で居るのはいいが、廊下を歩くときは異なる。

 家族の集まり(食事もその一つだが)はまた、子供たちが学校で起こったことを話す機会でもあり、親にとっては、ためになるコメントをしたり、あることについては行動の基準を教えたりする機会でもある。その他に、趣味について話したり、アウトドアの活動や読書の話しを聞いてうきうきしたり、また子供たちが上手に話すように導くこともできる。休みの日のためにハイキングや散歩の計画を話し合うこと、少しずつ家系の歴史や宗教的伝統を教えていくこともできる。子供たちは大声を出したり叫んだりしたりせずに落ち着いて話すことを学び、もっと大切なことだが、人の話を静かに聞くように努め、会話の腰を折らないことや自分の意見や要求を強硬に言い張るのを控えることに慣れていく。

 家族の中で、互いに気を配ることができる細かなことは一杯ある。見苦しい格好をしない、だらしない姿勢で食事をしない。お母さんは、誰かの記念日には、その人の好きな食事を考える。食卓で大盛りの皿が回されるとき、第一に自分の食べたいものを考えるより、他の人たちのことを考える。自分の皿につぐ前に、パンや水をそばの人についであげる。感謝の言葉を言う。感謝は人と人を結び、喜びと笑顔を生む。家族一緒によい食事をしたあとは、みんな満足する。それは健康な動物の生理的喜びではない。私達が最も愛している人たちと心を分かち合ったことで感じる喜びである。精神的に、一人一人が豊かになったからである。

 これらのことは、私達の内面を形成し、神に対して、隣人に対して心を向けてくことに役に立つ。成熟した男女はしっかりと現実に根ざした行動をする。そのため、持っている物で満足し、それを十分に楽しむことができる。自分自身を大事にし、自分の霊魂と体を支配することを学んだ人なので、どんな状況の中でも、変わったことをすることなく、分別とバランスを保って行動する。友情においても、仕事においても、立てた目標においても、途中で放り出すことはせず、最後まで忠実にやり遂げる。なぜなら、人から受けるよりもむしろ与えることができるからである。寛大になることを学んだ。そして毎朝「勇士のように喜び勇んでその小道を走る」(『詩編』19、6)ために出て行く。