年間第12週日曜日・B年 98 困難な時の落ち着き

― 湖の嵐。主は、困難に遭遇する私たちを、決して一人ぼっちにはなさらない。 ― 社会の中で本物の使徒である私たちは、無理解を勘定に入れているべき。「先生に 勝る弟子はいない」。 ― 困難に対する態度。

年間第12週日曜日・B年

98 困難な時の落ち着き

― 湖の嵐。主は、困難に遭遇する私たちを、決して一人ぼっちにはなさらない。

― 社会の中で本物の使徒である私たちは、無理解を勘定に入れているべき。「先生に 勝る弟子はいない」。

― 困難に対する態度。

98.1 湖における嵐。神は決して私たちを見捨てられない

福音によると、ゲネサレト湖で使徒たちは、主が話されるので対岸に舟を出している間、2回嵐に遭いました。今日のミサの福音で、聖マルコは、イエスは彼らと共に舟にいたと述べています。一日中懸命に説教をされた後、休息されるために時間をとられました。布や毛糸をつめた簡単で粗末な皮袋のクッションに頭を乗せて休まれ、船尾に横になられました。それは、船乗りが舟に持ち込む通常のものです。天国の天使たちなら、王であり主である方が体力を回復させるのに固い床の板に横になっておられるのを、どのように眺めるのでしょうか! 万物を支配される主は、そこに疲れ果てて手足を伸ばされていました。

その間、多くが漁師である弟子たちは、暴風雨になりそうだと感じました。まもなく、ものすごい勢いで、舟は波をかぶって水浸しになるほどでした。彼らはできるだけのことをしましたが、波は高く荒くなり、舟は沈みそうになりました。それで、最後の頼みとしてイエスに助けを求めるのです。悲痛な叫びをあげて、イエスを起こしました。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか?」

海で鍛えられた漁師の技術でもどうしようもありませんでした。主が舵をとらねばなりませんでした。主は起き上がって、風を叱り、湖に「黙れ! 静まれ!」と言われました。すると嵐は止み、すっかり凪になりました。恐れた人々の心も平安になりました。

嵐は時々私たちの周囲や内にも起こります。そして、私たちの脆い舟では、とても耐えられないように思われます。時には、神が私たちの運命に無関心なのではないかという印象を持つときもあります。波は私たちに覆いかぶさります。個人的な弱さ、職業上の問題、私たちの手に負えない経済上の問題、病気、子どもたちや両親の問題、中傷による脅迫、敵対する状況、名誉毀損、など。しかし、「神の現存を保つなら、耳をつんざくような嵐が襲ってきても、見渡す限り常に太陽が輝いていることだろう。そして、荒れ狂った破壊的な波の下でも、心は平安と落ち着きに満たされていることだろう」

神は私たちを決してお見捨てにはなりません。私たちは、必要のあるすべての手段を用いて神のところに行かなければなりません。いつでもイエスを主とみなし、無条件に従いたいと望んでいる人の自信を持ってイエスに言いましょう。「主よ、わたしを独りにしておかないでください!」 ですから主と共にいれば、いろいろな試練に立ち向かい、打ち勝つのです。それはもはや辛いことではなくなり、私たちは嵐に吹きつけられてもうろたえないでしょう。

98. 2 私たちは誤解に臆せずに向かう覚悟をしなければならない

イエスは起きあがって風を叱り、湖に「黙れ! 静まれ!」と言われました。この奇跡は、使徒たちに忘れることのできない印象を与えました。そのお陰で、彼らは信仰を強め、先にあるもっと辛い、もっと大きな試練との戦いに備えます。キリストの声に従い、すっかり穏やかになった海の光景は彼らの心に刻まれました。その後何年経っても、人々は祈り続け、記憶に残ったこの光景のお陰で、主が前もって警告されていたあらゆる試練を経験しているときでも、彼らは心の平安を持つことができたのです。

別の折には、「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する」とあります。そして、主は、迫害と中傷の辛い時期を経験することも予告されています。「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう」。イエスは、自分と自分が教えたことと、罪の王国としてのこの世俗との間には、妥協の可能性もないことを最初の弟子たち、そして私たちに悟らせたいとお望みになりました。 彼らにどのような扱いを受けても驚かないようにすることを思い出させておられるのです。「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」。聖グレゴリオが解説されたように、「邪悪な人たちの敵意が、私たちの生き方を賞賛するが如くこだまします。神を愛さない人々に嫌な思いをさせている限り、少なくとも私たちの意向は正しいということです。誰も神と神の敵を同時に喜ばせることはできません」。ですから、私たちが忠実であれば、必ず風や嵐が起こります。しかし、再びイエスが、荒れる海に向かい「黙れ! 静まれ!」と命じられます。

初代教会では、使徒たちによって豊かな実りがもたらされました。しかし、同時に、彼らは脅迫、侮辱、迫害に苦しんだのでした。 しかし、雰囲気が好意的か反抗的かは問題ではなく、キリストがすべての人に知られ、贖いの実りが世界の隅々まで届くことこそ重要だったのです。彼らはキリストの教義を説きましたが、それを全く人間的な意味だけでとらえてスキャンダルにする人もいれば、全くの狂気の沙汰だとしか思えない人もいました。 しかし、この教義は、人々の魂と生活習慣を変え、あらゆる環境に浸透していきました。

使徒たちが立ち向かわなければならなかった状況の多くは変わりました。物質主義や、安楽と幸福を過度に愛すること、官能主義と無知は、いろいろな所で再び巻き起こるすさまじい風と嵐の海を意味しています。私たちはこれに付け加えて、福音の重要なメッセ一ジをひどく歪め、キリストの教義をその時代に合わせるという多くの人々の誘惑にも気がついています。

世の中で使徒でありたいなら、ある人々 - 時には私たちの夫、妻、両親、幼なじみ - が、私たちのことを理解しない事もあることに気がついていなければいけません。元気を出さなければなりません。なぜなら、流れに逆らって漕ぐことは容易ではないからです。落ち着いてしっかりと働かなければなりません。新しい偶像崇拝の習慣に染まり、いろいろなやり方で譲歩したり、あまりに同化してしまったり、もはや生命の卓越した超自然的な意味を理解できなくなったと思われる人々の態度に惑わされて、自分をそれに合わせていくようなことはできません。

神との親しさは、落ち着きと力を与えてくれるでしょうから、私たちは多くの人々にとって堅固な岩になれます。特に現代では、私たちは次のことを決して忘れることはできません。「主が必要となさっているのは、凡庸な態度と契約を結ばずに、あらゆる環境の中に確実な歩みで入り込む、強く勇敢な人である」10。PTA、専門職の団体、大学、労働組合、会議の前後の打ちとけた会話で、そうあるべきです。はっきりとした模範として、家族の社会的、公的生活への影響は、特に重要です。「彼らが、まず、掟は、罪を犯さないだけでなく、家族の権利と義務を実際に支え、積極的に擁護するためであることを理解するよう前進させる人々であるべきです」。(聖聖ヨハネ・パウロ二世『教会について』、44参照) 真の「家族政策」(同上)をこのように促進していくのです。この分野では、教会の教義の知識を、新しく完全な方法で家族の中に育成し、キリスト者の家族の良心と社会的、政治的責任を目覚めさせ、また、家族の善のために、今存在する家族のかかわりを確立し強める事は必要不可欠です11。 神の敵が、人間の永遠の運命の痕跡をすべて取り除こうと努めているというのに、怠けているわけにはいきません。

98.3 困難に立ち向かう態度

「3つの欲(1ヨハネ2・16参照)は、欲望、自分の力に頼る被造物のうぬぼれによる高慢、富に対する望みの、ものすごい熱狂を解き放った、3つの巨大な力のようなものです。(聖聖ホセマリア・エスクリバ一,『手紙』1974年2月14日,10) また、私たちは、悲観的になったり意気消沈したりすることなく、このような力は、『すべての文明が、無力で、頼りになる倫理的手段もなく、ぐらつく』(前著)ような段階まで、前例のない進歩と途方もない侵略に至ったことがわかります」12。そんな状況の時に手をこまねいていることはできません。「キリストの愛がわたしたちを駆り立てるからです」と聖パウロは、第2朗読で述べています13。 愛徳と多くの被造物が真に必要としていますから、あらゆる状況において私たちはたゆまず使徒的活動を行うように駆り立てられます。私たちが遭遇する敵意や、理解できず、また、理解したいと思わない人々の誤解があるにもかかわらず、一人ひとりは自分の置かれた環境で働かなければなりません。

従って、主の名において、喜びと安心のうちに歩みなさい。悲観主義ではありません! 困難が生じるなら、その時には神の恩恵が、もっと溢れるほどあるでしょう。さらにもっと困難があれば、もっと神の恩恵が天国から下ってくるでしょう。多くの困難があれば、多くの神の恩恵があるのです。神の助けは、世間と悪魔が使徒職の仕事に反対する障害に比例します。そのため、私は、ある意味では、困難があることは良いことだと敢えて断言さえできるのです。なぜなら、その時は神からもっと多くの助けを得るでしょうから。「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました」(ロ一マ5・20)14

私たちは、この機会を、意向を清めるために、主にもっと注意を向けるため、信仰を強めるために利用することができます。私たちの態度は、常に、寛大で穏やかでなければなりません。神は、私たち一人ひとりと共におられるからです。聖アウグスチヌスは私たちにこのことを思い出させてくれます。「キリスト者よ、キリストはあなたの舟の中で眠っておられます。キリストを起こしなさい。そうすれば、彼は嵐を叱り付けられて平和がもどって来るでしょう」15。万事は私たちの益と霊魂の善のためにあります。安全だとわたしたちが感じるためには、主と共にいるだけで十分です。心配事、恐れ、臆病は、祈りが弱まった時に生じます。主は、私たちに起こっていることをすべてよくご存じです。そして、もし、必要であれば、風と海を叱られ、大きな静けさを生み出されるので、主の平和が私たちの内に溢れるでしょう。私たちもまた、使徒たちのように畏怖の念に満たされるでしょう。

聖マリアは、一瞬たりとも私たちを放っておかれません。「誘惑の嵐が起こった時は、あなたの目で我が星であるマリアを見詰め、お願いしなさい。聖母に導かれ、あなたは迷うことはないでしょう。聖母に祈る間は決して心を失うことはないでしょう。聖母があなたの心にある限り、あなたは欺瞞に陥ることはないでしょう。聖母があなたの手を掴んでいるなら、倒れることはありません。聖母の保護のもとで、あなたは何も恐れる事はありません。聖母があなたの先を歩んでくだされば、あなたはうんざりして疲れることもないでしょう。聖母があなたに好意を示されるなら、あなたは必ず目標に到達します」16

マルコ4:35-40

聖ホセマリア・エスクリバー,『鍛』,343

ルカ18:31-33

マタイ10:24-25

The Navarre Bible, note to John15:18-19 参照

ヨハネ15:18

St Gregory the Great, Homilies on Ezekiel,9

使徒言行録,4:41-42 参照

1コリント1:23 参照

10 聖ホセマリア・エスクリバー,『拓』,416

11 Spanish Episcopal Conference Pastoral Instruction ,Catholics in Public Life, 22 April 1986,162

12 福者アルバロ・デル・ポルティーリョ,Letter,25 December 1985,4

13 2コリント5:14-17

14 福者アルバロ・デル・ポルティ一リョ,Letter, 31May 1987,22

15 聖アウグスチヌス,Sermon 361,7

16 聖ベルナルド,Homilies on the Blessed Virgin Mary, 2