年間第12週日曜日・A年 97 恐れなしに生きる

― 日常生活における勇気。 ― 私たちの強さは、神の子であることの自覚に基づく。― 大きな試練と日常生活の小さなことにおける大胆さと神への信頼。

年間第12週日曜日・A年

97 恐れなしに生きる

― 日常生活における勇気

― 私たちの強さは、神の子であることの自覚に基づく。

         ― 大きな試練と日常生活の小さなことにおける大胆さと神への信頼。

97.1 日常生活における勇気

今日のミサの福音で、主は、神の子として恐れずに生きるように教えています。私たちは、時々、生活がもたらす苦難に悩んだり、圧倒されたりしている人々に出会うことがあります。逆境とか障害はそれを克服しようとただ人間的な手段にだけ頼っていたら、ますます大きなものに見えるだけです。神についてはっきりと話し、嘘、偽りに対しはNOと言い、必要な時はキリストの忠実な弟子であることを表明するのを恥じる人々に度々出会います。人の噂や批判的な意見などに抵抗して流れに逆らうこと、人の注意を引くことを恐れています。異教的な習慣・道徳の中で、あるいは、経済的価値が最高の価値であるような環境の中で、キリスト者が注意を引かないでいることができるでしょうか?

イエスは、起こりうる中傷や批判について心配しないようにと教えています。「人々を恐れるな、今、覆われているもので、あらわにされないものはなく、今、隠されているもので、知らされないものはないから」と。神が私たちに委ねられた真理を世界の隅々まで言い広めるのを恐れているとしたら、何と恥ずかしいことでしょう! わたしが暗闇で言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、人々に言い広めなさい。時には、決して恐れや臆病からではなく、超自然的賢慮や愛徳の面から見て、沈黙が最良の手段であるという理由で、沈黙を保つこともあります。私たちキリスト者は、隅っこや闇を好みません。光を愛し、生き方と言葉において率直でありたいと思っています。私たちが生きているのは、真理をはっきり宣言する必要のある時代です。虚偽や混乱が多くの霊魂を惑わせています。それは馬鹿げているように思われますが、時には、仕事や結婚生活で要求される良心に従うこと、行いの倫理的規範である良い教義でさえ、更に常識自体、進歩的色合いを帯びていて、間違っている教義ほどにも尊重されていないことがあるのです。

私たちは、時代の流れやたまたま流行となっているものに逆らうため、外面的な名声を失うことや批判されること、更に中傷されることさえ、恐れるべきではありません。「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す」と主は言われます。全く物質的価値以外の何物も理解できない世の中で、聖なる大胆さをもって勇敢に生きるなら、主がいつでも豊かに報いてくださいます。

聖パウロは、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」と述べています。聖チプリアヌスは次のように評しています。「このような素晴らしい栄光に達するため、神の朋友になるため、直ちにキリストを所有するために、誰が、この世の苦しみと責め苦の後に、神の報いを受けるための努力をしないでいるでしょうか? この世の兵士にとって、敵を卑しめた後、家に帰るのが名誉であれば、悪魔を打ち負かして勝ち誇って天国に戻ることは、どれほどの栄誉と賞賛になることでしょう。つまり、勝利のしるしを高く掲げること、キリストが裁きに来られる時、神の傍に座ること、キリストの共同相続人であること、天使、太祖、使徒、預言者と並ぶこと、天の王国を所有して喜ぶことは」

97.2 私たちの強さは神の子の自覚に基づいています

「生を恐れず、死も恐れない」。落ち着いて病気に耐え、未来がはっきりしないにもかかわらず、常に穏やかなままで、喜んでしっかりと重大な困難に向き合い、努力、犠牲を要求する障害に立ち向かう。それが、神が望まれる私たちの生き方です。特に、心配事、懸念、暗闇に襲われる時、神の子であることを、日々、度々思い出しさえすればそのようにできます。2羽の雀でもそれほど安くは売られていないのではないでしょうか。神のみ旨がなければその1羽さえ地に落ちることはないでしょう。あなたの髪の毛さえ神はすべて数えておられるのだから、恐れることはない。あなたは雀よりもっと価値があるのです。

神は私たちに対する大きな愛と人類の偉大な値打ちを明らかになさいます。聖ヒエロニムスは、ミサの福音からこの一節を評してこう記しています。「2羽の雀は食い物であるのに、その1羽も、神の意志がなければ地に落ちないだろう。それならば、永遠の霊魂を持つあなたが父として崇める神が、どうしてあなたに特別の愛を示されないことがあり得ようか、恐れることはない」

個人的な弱さや神から離れた環境の困難に取り囲まれる時、神の子であるという事実が、私たちを強めてくれます。しかし、主は、恐るべき勇士として私と共におられる。預言者エレミヤはミサの第1朗読で私たちに語っています。 これは、預言者が敵に周囲を包囲され、たった一人になったと時の希望と信頼の叫びです。御父である神は、恐るべき勇士として私と共におられる。私たちも、危険が迫り、嵐の雲が不気味に広がっているのがわかる時、そう繰り返し言うことができます。「主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう」

普通の市民であるキリスト者が様々な商売や専門職に従事している異教の世界、その世界から来る大きな困難の最中にいながら、使徒聖ヨハネは宣言しています。「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です」と。そして、ゆるぎない信仰というしっかりとした基礎があれば、虚栄心や無邪気さではない確信、つまり、私たちの個人的な惨めさや限界にもかかわらず、キリストが十字架の死によって勝利と栄光の復活を勝ち得てくださったたことを知っているキリスト者としての喜びある確信を持つことができるのです。神はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう。ただ主のみ、あなただけがわたしの命を守ってくださる方です!

97.3 日常生活の大きな試練と小さな事における勇気と神への信頼

イエスは、神との友情を壊し永遠の破滅に導く罪以外は、何も恐れないようにと私たちを励まされています。困難を前にして、神の真の子どもらしく、強くて勇敢でなければなりません。主は、私たちに、身体を殺しても霊魂を滅ぼすことのできない者を恐れるな、むしろ、身体と霊魂の両方を地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさいと教えられます。この神に対する畏れは、聖霊の賜物です。それは、罪と、神から引き離すすべてのものと、もっときっぱりと戦うのを助けてくださいます。それは、私たちが粘土でできた足を持ち、脆く壊れやすいことを常に思い出させ、自分に信頼を置かないこと、罪の機会を避けるように促してくださるのです。身体的な悪は、死そのものでさえ、霊魂の悪、つまり罪に比べれば、無に等しいと言えます。

私たちは、神を失う恐れ以外の何も心配すべきではありません。この畏れは、子としての心配であり、神を怒らせないように注意することです。人生のある時期に、大きな試練を経験するのは当然です。神は、それに耐え、内的生活において成長するために、必要な恩恵を与えてくださるでしょう。「わたしの恵みはあなたに十分である」。イエスは私たちにこう言われるでしょう。

パウロを助けた神は、私たちにも心をかけてくださいます。このような時、私たちは謙遜に、信仰を持って神に願います。「あなたに全幅の信頼を置いていますが、主よ、あなたは私を信用なさらないでくださいと、謙遜で強い信仰の心から弛まず主の助けを乞い求めなければならないことが理解できます。決して私たちを見捨てないキリスト・イエスが、優しく見つめ、理解し、愛してくださっていることを心に感じるようになれば、使徒の言葉の深い意味が理解できるのではないでしょうか。『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』(2コリント12・9)と言われました。 だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。たとえ芥の如き身ではあっても、というよりは、惨めなところがたくさんあるからこそかえって、主を信じ、父なる神に対する忠実を保つことができるのです。神の力が発揮され、弱さに圧倒されんばかりの私たちを支えてくださいますから」10

けれども、普通、小さなことにおいて、強く勇敢でなければならないでしょう。良いキリスト者であれば、居心地が悪いと思う場所やショ一への招きは礼儀正しく、しかしきちんと断る事、教師が子どもたちに与える教育内容について意見を述べなければならない時、話題が怪しげな方向に移りそうな会話を止めなければならない時、信仰に関する話に友人を招く機会を見つけ、告解を勧めるにあたり思いやりがありタイムリーな助言を提供し、会話が清さに反する方向に進みそうな時、話を遮ることなどです。いずれも頻繁に、広い展望につながる使徒職を、妨げたり阻止したりする〈小さな臆病〉です。ところで、生き方を効果的で値打あるものにするのは、〈小さな勇気〉なのです。

「十字架の辱(はずかし)めのとき、聖母はそこ、御子の傍で、御子と同じ運命を甘受する覚悟をしておいでになる。あなたの周囲の雰囲気がたとえ好意的でないとしても、責任あるキリスト者として生きるため、恐れを捨てようではないか。聖母は必ず助けてくださる」11

マタイ10:26-33

ロ一マ8:18

聖シプリア一ニ,Letter to Fortunatus,13

聖ホセマリア・エスクリバー,『神の朋友』,132

聖ジェロ一ム,Commentary on St Matthew’s Gospel,10:29-31

エレミヤ,20:10-13 参照

詩編27:1

1ヨハネ5:4

2コリント12:9

10 聖ホセマリア・エスクリバー,『神の朋友』,194

11 聖ホセマリア・エスクリバー,『拓』,977