年間第12週・金曜日 104 忠実の徳

― 愛、そして信仰と召し出しによって求められる徳。 ― 忠実の根拠。 ― 小さなことにおける愛と忠実。

年間第12週・金曜日

104 忠実の徳

― 愛、そして信仰と召し出しによって求められる徳。

― 忠実の根拠。

― 小さなことにおける愛と忠実。

104.1 忠実:愛と信仰に必要な徳

聖書は度々私たちに忠実の徳について教えています。約束を守るため、自由に契約された仕事を成し遂げるため、また自分に委ねられた使命をやり終える努力をするために必要だからです。主は、アブラハムに言われました。「わたしの前では、潔白なものとなりなさい。あなたも、後に続くあなたの子孫も、引き続きわたしの契約を守りなさい」。太祖とその子孫が交わした契約の力で、祝福と幸福が弛みなく続く拠り所になるでしょうし、一方、イスラエルが契約に背けば、不運の原因となるものでした。

神は、人間を寵愛しておられるので、その人間からは誠実さを求められます。神ご自身が、私たちの弱さや短所にもかかわらず、常に忠実だからです2。ヤ一ウェは愛と忠誠に富み3、 その一つひとつの言葉は忠実。また、その神の忠実さは、永遠です。忠実な人々は、神の喜びとなります。神は、最終的な報いを約束されています。死に至るまで忠実な人は生命の冠を受けるでしょう。

福音の至るところで、イエスは、この徳について述べています。主は、忠実で賢明な召使いの、尊敬すべき管理者の模範を私たちに示してくださっています。忠実という概念は、キリスト者の生活に非常に深くしみ込んでいるので、忠実というその言葉でキリストの弟子であることが十分に言い表されます。 聖パウロは、この徳を実行するように、初代のキリスト者たちに熱心に説きましたが、自分の一生が終わりに近づいてきた時、自分の人生を要約して忠実さへの賛歌を唱えています。彼は、テモテ人にこう書いています。「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます」

忠実さは、約束されたことを果たすこと、表明した意向にかなった行いをする事にあります。10私たちが、もし約束を守り、障害や困難があったとしても、引き受けた責任をしっかり保持するなら忠実と言えます。忍耐は、この徳と密接に結ばれ、しばしば忠実の徳と同一視される徳です。

誠実さは、神との関係、配偶者や友だちとの関係など様々なところで同じく当てはまります。非常に重要な徳と言えます。この徳なしでは、人と付き合うことはできなくなるぐらいです。霊的生活に関する限り、それは、愛と信仰そして召命に密接にかかわっています。

「テモテへの第二の手紙にある言葉を読むと怖くなって震えてしまう。使徒聖パウロが心を痛めつつ書いたところだ。デマスがこの世の魅惑に負けてテサロニケに行ってしまった。聖パウロが他の手紙の中で聖徒の一人に数えていたあの男は、つまらないものに心を惹かれ、迫害を恐れて、神の事業を裏切ったのである。卑小な自分のことを考えると震えてしまうのだが、同時に、取るに足りないような出来事であっても主に忠実を保てと、自分に要求する機会にはなる。主に一致するため役に立たないものは欲しくないからである」11

わたしの前で潔白を保ちなさい。あなたはわたしの契約を守るだろう。神はしきりに私たちの心の奥底で私たちに語り続けておられます。

104.2 忠実の基礎

現代は、この忠実の徳を大切にしている時代とは言えません。しかしながら主は何よりも、神と人々との関わりで寛大に献身をする時、忠実の徳を私たちが高く評価するよう望んでおられます。それはおそらく、主が何よりも、神と人々との関わりで寛大に献身するとき、この特別な徳を私たちが高く評価するよう望んでおられるからでしょう。多くの人々がこう尋ねるでしょう。人間とは、気まぐれで弱く変わりやすい者なのに、生涯をかけて約束することなどできるでしょうか。できるのです。なぜなら彼の忠誠は、強さを欠くことなく、変わりやすさに支配されない、神そのもの、確固とした方に支えられているからです。「ヤ一ウェは神のすべての言葉に忠実です」12。 神は、約束、特にその中でも最も重要な約束である、神に関する約束と神ゆえに人に対する約束、例えば、自らを完全に捧げて聖性に向かう召し出しに忠実であり続けたいと願う人の決心を支えてくださいます。「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません」13

キリストはあなたを必要とし、あなたの数多くの友人が、真の人間性の持ち主となり、彼らの救いが成就するのを助けるためにあなたを招いておられます。この貴い理想を心に抱いて生きなさい。あなたの心を、キリストに、愛の掟に開きなさい。あなたができることに条件をつけたり、曖昧な応えを受けることを恐れたりせずそうしなさい。愛と友情は、地平線の遠く彼方に消えてしまわないからです14。 それは常に溢れるばかりに潤っています。愛は滅びないからです。

聖トマスは次のように教えています15。 私たちは、その人の善を望む時にはその人を愛していると言えます。が、これに反して、人間とは、気まぐれで弱く変わりやすいものなのに、生涯をかけて約束することなどできるでしょうか。私たちに役に立つという理由で、かかわりのある人を利用しようとするならば、正確に言えば、その人を愛していないということになります。私たちが何を望もうとも、それはその人の善のためにはなりません。愛するならば、私たちは、他の人々にとって最も良いことを望むからです。好みや気分にかかわりなく、私たちの全人格はこの愛に向けられています。「愛の報酬、それはもっと大きな愛を受けることです」16

私たちは、愛の本質は単なる感情や気持ちではなく、意志と正しい意向による行いであるというしっかりとした確信が持てるように、神に願わなければなりません。努力、犠牲そして献身が必要です。気持ちや感情や気分は変わりますから、忠実なものを築き上げる土台にはならないのです。忠実の徳は、愛しかも本物の純粋な愛で堅固なものとなっていきます。また、そのため、人間的で神的な愛がただの感情の領域を越えた時、残るのは、最も取るに足りない要素が残るのではなく、むしろ実際にすべてのことに最上の意味を付加するほど非常に重要なものが残るのです。

主は、すべての人一人ひとりに対して呼びかけ、ご計画と召命をもっておられます。主は、この呼びかけはいつもあり、たとえ人生で出会う誘惑や様々な困難の時であっても続いていることを約束されています。そして、この永続性を証拠づけるために、主は、私たちが十分理解できるよう、たとえを用いて説明されています。つまり、母親が子どもに対して持つ愛と配慮です。次のことを考えてみてください。自分勝手ではなく、自分の世界に中に利己的にのめりこんでいない、まことに母としての愛情を深く持っている母親が、自分の子どものことを忘れることができるでしょうか17。 母親が自分の子どものことを時々忘れたり、または、それを心の中で中心的な必要事であると思っていなかったりすることもあるという可能性は否定できません。そういう可能性もあるでしょう。しかし、主は、言われます。わたしは決してあなたのことを忘れない。あなたの人生における献身の約束を、あなたのためにわたしが愛に満ちた心で計画したことを、あなたの召命をわたしは決して忘れることはない。忠実とは、この神の愛に対する愛に満ちた応えです。愛がなければ、やがてあらゆる委託の堅固さに、ヒビと傷が生じます。

104.3 小さなことにおける愛と忠実

主は、わたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか18。 私たちが忠実であり続けるには、持っているものは何でもすべて神に捧げることです。このために、生涯の終わりまで忍耐することは、日々の生活の小さなことに忠実であることによって、またいつでも、目的を持って再び始めることによって可能になります。弱さのために人が道を逸れた時、忠実は、どんな時も絶え間なく愛し続ける神の愛に対する応えとなり、神の憐れみが私たちの霊魂の深みにまで入り込むのを遮(さえぎ)る障害を取り除いてくれます。神に対して忠実ならば、一生の間、何度も、祈りの生活において忍耐し、日々主の傍にいるように信心と習慣を根気強く果たすことになります。私たち自身の堅忍と人々の堅忍は、神との一致と神に対する愛にかかっています。愛する人々は忍耐します。なぜなら、日々の戦いにおける単調さという様相の中に、御父である神の力を感じるからです19

愛は、「私たちを引っ張る重石(おもし)」20、天然磁石、霊魂が忠実であるための方向づけをしてくれるものです。このために、神の愛、誰も除外されることのないこの愛を認めることによって、誠実であるように私たちは導かれ、忠実であるよう私たちはしっかりと支えられます。まず、自分に対して誠実であることです。そうであれば、しつこく霊魂にまとわりつく、明らかに間違った望みや考え、抱負や夢の正体をずばり見極め、認めることができるでしょう。次に神に対する誠実さです。そこからは、正しい意向と内的清さが生じます。次に、霊的指導者に対する誠実です。様々な形をとって表れる、心を頑なにしようとする利己主義の徴候を明確にして、霊魂を導いてくださるよう選ばれた指導者ですから、その人が誰であっても誠実に従います。このようにして、私たちは、常に力強い助けに頼ることができるのです。

誠実と忠実の徳は、キリスト者のすべての面に表されなければなりません。神、教会そして近所の人々との関係において、仕事において、国などに対する義務においても同様です。また、この忠誠の徳は、人が受けた召命に忠実であるところなら、様々な分野で実行されています。というのも、召し出しを誠実に忠実に生きれば、私たちが獲得すべき他のあらゆる徳が磨かれるからです。が、もし神に対する忠誠に欠けるならば、他のあらゆる徳は、崩壊し、破壊し始めます。

イエスの聖心、神であり人である方の聖心は、決して消えることがない三位一体の愛の「いきいきした呼びかけ」で燃え立っています21。 それこそがイエスの人間に対する愛への忠実です。私たちは、この忠実な愛から学ばなければなりません。そして、再び、マリアに向かいましょう。最も忠実なおとめ、私たちのために祈ってください。私たちのために祈ってください。

First Reading, Year1,創世記17:1-9

2 第二法の書(申命記)3,4

3 出エジプト34,6-7

詩編144:13

詩編116:1-2

箴言12:22 参照

ヨハネの黙示録2:20 参照

使徒言行録10:45

2テモテ4:7

10 聖トマス,神学大全,II-II, 110,3 参照

11 聖ホセマリア・エスクリバー,拓,343

12 詩編144:3

13 ヤコブ1:17

14 聖ヨハネ・パウロII世,Address in Javier,6 November 1982

15 聖トマス,op cit, I-II,26,4

16 十字架の聖ヨハネ,Spiritual Canticle,9,7

17 イザヤ49:15 参照

18 詩編115:12

19 R.Taboada, Perseverance, Madrid 1987 参照

20 聖アウグスティヌス, op cit 13,9

21 聖ヨハネ・パウロII世,Sunday Reflection,23 June 1986