年間第12週・土曜日 105 マリアはキリストの共同救済者

― マリアは主の十字架のいけにえに立ち会われた。 ― キリストとの共同救済者。 ― マリアとミサ聖祭。

年間第12週・土曜日

105 マリアはキリストの共同救済者

― マリアは主の十字架のいけにえに立ち会われた。

― キリストとの共同救済者。

― マリアとミサ聖祭。

105.1 マリアは十字架上の犠牲に立ち会われる

イエスがこの地上で生活されている間、御母マリアは、ベツレヘム、エジプト、ナザレで愛のこもった配慮で世話をしながら神のみ旨を果たされました。子どものためにどの母もするように、日常生活で必要なことはすべて母として世話をしました。その生命が危険にさらされているような、際立った必要性が生じた時も同じです。御子は、マリアとヨセフと共に、犠牲と朗らかな愛に満ち、信頼できる世話と保護を受け、仕事に勤勉に従事する雰囲気の中で成長されました。

後に、公生活の間、マリアは、物理的にはめったにイエスに従いませんでしたが、どんな時でも、イエスがいる所を知っており、奇跡と教えの知らせはマリアに届きました。イエスは、時々ナザレに行き、そこにいる間、母と共に多くの時間を過ごしました。弟子の大多数は、ガリラヤのカナの婚姻の時から、マリアを知っていました。 水をぶどう酒に変えることは別として、そこで、マリアは重要な役割を果たしました。しかし、他のどの奇跡の時も、聖母の存在を聖書著者は記していません。人々が御子に夢中になっている時、マリアはそこにいませんでした。

「私の母・聖マリアの謙遜、なんと素晴らしい謙遜だろう。エルサレム入城の場面で、イエスが棕櫚(しゅろ)の枝をかざす群衆に大歓迎されたとき、マリアの姿は見えない。最初の奇跡であるカナの婚(こん)宴(えん)を除けば、大きな奇跡の場にもおられない。しかし、ゴルゴタでの軽蔑(けいべつ)からは逃げ出さず、そこ、〈イエスの十字架の傍(かたわ)らに〉立っておいでになる」

起きてくるすべてのことを心に思い巡らされながらも、通常は、聖母は御子と完全に一致してナザレに留まられています。しかし、悲しみと見捨てられた孤独の時には、聖母はイエスと共に留まっておられるのです。

神は、マリアに並外れた特別の愛を注いで彼女を愛しておられました。それにもかかわらず、神は、御子以外誰も経験したことのないほどの苦しみを共に享受させ、カルワリオの試練に遭わせます。マリアはおそらく、慰めに満ちた優しい婦人たちと共に家に静かに留まっていることもできたはずです。「結局、できることは何もなく、マリアがそこにいても、御子の苦しみと辱めを避けることも和らげることもできませんでした。しかし、それにもかかわらず、マリアはそこにいました。自分が生かすことも苦しみをなくすこともできないことがわかる時でも、取り乱して立ち去るのではなく、母親なら誰でも息子の死に際でもそこに留まるでしょうが、マリアも母としてキリストと共にいたのです。否、聖母マリアは、自らを御子に一致させ、愛ゆえにキリストと共に苦しむことを選ばれたのです」。マリアは少しずつ十字架に近づきます。ついに、兵士は、傍に留まるのを許さなければなりませんでした。聖母はイエスを見つめ、御子は母を見つめます。最も緊密な一致のうちに、御子の共同の贖い主として、わが子を御父である神に捧げられます。苦しみ苦悶している御子と心をひとつにし、苦痛、それも死に近い苦しみに耐えました。マリアは、人類の救いを得るために、ご自分に任された限りを尽くして神の正義をまっとうするために、わが子に対する母の権利を放棄しました。マリアは、キリストと共に人類を贖われると言われているように、正にそのとおりに御子を犠牲にされました

聖母マリアは、イエスと共にいただけではなく、最初の祭壇上で捧げられたこの犠牲に、積極的に密接に一致されていました。そうすることによって、ナザレで何年も前に告げられたフィアット(なれかし)を果たされ、進んで人類の贖いを共にされました。また、私たちは、教会の真の中心であり、心であるミサを挙行するごとにマリアを見出すことができます。この事実のお陰で、多くの機会に自分の犠牲をキリストの燔祭に一致させることで、聖体の犠牲をもっと良く生きることができます。そして、自分がカルワリオにいて、聖母のすぐ近くにいることを感じるのです。

105.2 キリストと贖いを共にする

十字架上からキリストは、神秘体である教会を、聖ヨハネを通してマリアに委ねました。イエスは、私たちが常に自分の身を守るためにはマリアが必要であることをご存じでした。私たちを救い、私たちのためにとりなしてくださる人、マリアが必要なのです。その時から「マリアは、御子を守ったのと同じ忠誠心と努力をもって教会を守ってきましたし、これからも守られるでしょう。彼女は、ベツレヘムの飼い葉桶からカルワリオをとおして、教会が誕生した聖霊降臨の高間に至るまで御子を見守られました。マリアは、教会のすべての移り変わりに存在されていました。教会の歴史の最も困難な時でさえ、特別な方法で教会に一致されていました。マリアは、特に教会が危機にある時に教会の近くにおられるのです。教会は、どんな時でも、彼女の最初の子、十字架につけられ、復活されたキリストに似て、自分の子キリストのようだからです」

聖母マリアは、神がキリスト者の魂に、神がマリアに据えたのと同じ熱意、即ち、すべての人々が再び神の友になるために共同贖い主になる望みを印(しる)すようにとりなされます。「ゴルゴタの丘の上で、卓越した方法で、贖いを共にされた聖母マリアの信仰と希望、燃えるような愛は、成果がなく、悪の力によって見通しが暗くなったように見えても、使徒職において落胆することなく、私たちが成長し、外的な困難においても人間的、超自然的に強く、やりとおすための招きでもあります。戦いましょう。この日常の仕事に対して、この単調で引きずるだけの重荷に対して、この無気力同然の順応に対して戦いなさい! 十字架上のキリストを見なさい。十字架の傍のマリアを見なさい。マリアは、浴びせかけられる侮辱、嘲り、裏切りを目の当たりにします。しかし、キリストとこの贖いの行いを助けるマリアは、苦しみにあっても常に楽観的であり、平和に満ち、忍耐強い方です。そして、三位一体に委ねられた使命を果たされます。このお陰で、私たち一人ひとりは、自分はもう一人のキリストであることを鮮明に思い出すことができます。そして、キリストは、苦しみ、疲労、非常に恐ろしい困難の最中に使命をお果たしになったことを思い出すのです。私は、あなたが聖母マリアに目を向け、自分自身や他の人々のために、イエスの贖いに全幅の信頼を寄せるように、そして、御母よ、あなたのように、私たちも共に贖いたいと願うように勧めたいと思います」。贖いを共にし、世界の聖化に協力し、永遠の生命のために霊魂を救う、これ以上に人の一生を満たす素晴らしい理想がありますか? 聖母は今、カルワリオの御子と贖いを共にされています。天使のお告げを受け、お言葉どおり、この身に成りますようにと応えられた時もそうでした。ベツレヘムでもエジプトにいたときも、そしてナザレでも日々の日常生活でもそうでした。もし、一日中を祈りで満たし、良心的に働けば、また仕事場や家庭で出会う人々に愛徳をもって接し、日々もたらされる反論を落ち着いて捧げるなら、私たちは、マリアのように、一日24時間を贖いとして主と共に捧げることができます。

105.3 マリアとミサ

イエスは、御母と、傍に立っている大切にした弟子をご覧になった時、御母に言われました。「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です!」それは、死の直前の、最後のプレゼントでした。イエスは、御母を私たちの母としてお与えになりました。

その時から、キリストの弟子は、大切な方を持つことになりました。つまりマリアを母としていただいたのです。マリアが、教会で母としての役目を果たすことは永遠に続くでしょう。「弟子はその時から、イエスの母を自分の家に引き取った」。死の贖いによって、イエスは、世の終わりまで続く新しい時代を始められました。次のように言うことができます。「キリスト者でありたいなら、マリアのようでなければなりません」。つまり、よいキリスト者であるためには、マリアへの大きな愛を持つ必要があるということです。イエスの偉業は二つに要約されます。一つは、私たちを神の子にしてくださったこと。そしてもう一つは、私たちをマリアの子にしてくださったことです。

3世紀の原本には、イエスは、「これはあなたの息子である」とマリアに言わず、「そこにあなたの息子がいます」と言われた、と指摘しています。また、マリアには、イエス・キリスト以外に他の息子がいなかったので、彼の言葉には「今から、あなたにとって、この人はイエスです」という意味に解釈できます10。 聖母マリアは、一人ひとりのキリスト者の中にイエスを見出します。私たちの代わりにキリストご自身がおいでになるかのように私たちに接してくださいます。私たちが窮地にいる時に、どうして私たちのことを聖母が忘れることができるでしょうか? 私たちのために、聖母が御子から何をいただかないというのでしょうか? マリアが、私たち一人ひとりをどれほど愛してくださっているか、私たちには想像することさえできないほどです。

ミサ聖祭を行うか参加している間、マリアを見出すことを習慣にしていきましょう。そこで、祭壇上の犠牲に聖母が共にいてくださると思えば、パレスチナの道を歩かれた時の聖母の控えめな静けさが、ミサに漂い渡るのです。ミサ聖祭は、三位一体の行いです。それは、御父のみ旨によって、聖霊との協働の内に行われ、御子は人類の救いのため自らを奉献されます。それは、この深遠な神秘のうちに、人は、御父である神の娘、御子である神の母、聖霊である神の、花嫁であるマリアの最も清らかなみ顔があたかもベールに包まれているかのように現存されるのに気づきます。

祭壇上のいけにえであるイエスと付き合うと、必然的に御母であるマリアとの親しさが深まります。イエスを見出す者は誰でもまた、無原罪のマリアを見出します。そして、キリストを崇拝するために旅をした聖なる3人の賢者に起きたことが起こります。「家に入ってみると、幼な子は、母マリアと共におられた」(マタイ2・11)11。マリアと共であれば、私たちは、イエス・キリストと心を一つにして、自分の全生涯、自分の考え、望み、仕事、感情、行い、愛すべてを捧げることができます12。 聖なる父よ!と、私たちは心の底から叫び、これをミサ聖祭の間、心の中で繰り返すことができます。「マリアの汚れない御心をとおして、あなたを、あなたの最愛の御子イエスを、そして私自身もイエスの内に、イエスと共に、イエスを通して、イエスのすべての意向のためとすべての被造物の名において捧げます」13

祭壇上の聖なるいけにえを相応しく祝うか、これに参加することが、イエスとその神秘体、そして全人類を捧げることのできる最高の奉仕になります。ミサ聖祭中、マリアと共に与れば、私たちは全教会と特に一致しているのです。

ヨハネ2:1-10 参照

聖ホセマリア・エスクリバー,『道』,507

F.Suarez, Mary of Nazareth

ベネディクトXV,Letter, Inter sodalicia, 22 May 1918

K.Wojtyla, Sign of Contradiction

福者アルバロ・デル・ポルティーリョ,Letter,31 May 1987,19

ヨハネ19:26

ヨハネ19:27

パウロ6世,Homily, 24 April 1970

10 0rigen, Commentary on the St John’s Gospel,1,4,23

11 聖ホセマリア・エスクリバー,The Vergin Mary, Libro de Aragon, Saragossa 1976

12 フィリピ2:5 参照

13 P.M.Sulamitis, Prayer of Offering to the Merciful Love, Madrid 1931