「神を愛する人にとって、子としての身分と友情とは分かつことのできない現実です」

聖ホセマリアの説教集『神の朋友』の紹介文の中で、福者アルバロは本書のタイトルとなった「友情」について説明しています。

偉大な召し出しにふさわしい振舞をしよう、と決意したキリスト者の生活は、主のことばを反映するものとなるでしょう。「これからもう私はあなたたちをしもべとは呼ばない。しもべは主人のしていることを知らないからである。私は父から聞いたことをみな知らせたから、あなたたちを友人と呼ぶ」(ヨハネ 15, 15)。神の御旨を果たすために素直に協力するなら、思いがけなくすばらしい展望がひらけてきます。エスクリバー師は次の美しい逆説を喜んで強調しているのです。「愛ゆえに神の奴隷になるほどすばらしいことはない。その瞬間に隷属状態から解放され、神の朋友、神の子になることができるからです」(『自由は神の恵み』 35)。

私たちは神の子、「神の朋友」である。これこそエスクリバー・デ・バラゲル師が自分のもとに近づいてきた人々の心に刻みつけようと望んだ真理です。師の説教は、たえず人々の心に訴え、「進退きわまったときのみ神の助けを求める」(『祈りの生活』 247)ことのないようにするためでした。イエス・キリストは真の神であり真の人間、私たちの兄であり友です。親しく接する努力をするなら、「神の友となる幸福にあずか」( 『聖性を目指して』 300)ることができる。できる限りの努力を傾けてベツレヘムからカルワリオまで主につき従い、主の喜びと苦しみを分かち合うならば、親しい語らいを続けることができるのです。「主の杯を飲み、神の友となった」(聖ペトロと聖パウロの祭日、教会の祈り、第二朗読の答唱詩篇)と教会の祈りに歌うように。

神を愛する人にとって、子としての身分と友情とは分かつことのできない現実です。神には子として近づき、生活をうるおす信頼にみちた語り合いを続ける。「キリスト者は神の愛に酔っている」(『神をみるであろう』183)からです。同じように、神の子としての自分を自覚すると、豊かな内的生活は実際の使徒職という形になってあらわれる。神との親しさがあれば「私たちは与えられた才能や能力を人々の役に立つよう用い」、「神の賜を用いて、人々のキリスト発見に役立て」(『すべての人が救われるように』 258)ることができるからです。