新たなる〈地中海〉:(I-II)「十字架を担うということは、キリストとひとつになること」

神との親子関係の自覚は、私たちの人生のある局面に特別な仕方で結びついています。その局面とは、悩み苦しむとき、つまりわたしたちがイエスの十字架に与るときです。

神との親子関係を通じて理解された神の父性は、まさしく新たな〈地中海〉といえるでしょう、私たちの前には広大なパノラマが開け、わたしたちの生活全体を形づくるように、わたしたちを神のうちに、神の前に置くのです。つまり、こう言うことができるでしょう、「神との父子関係は、固有の行ないを伴った特定の徳のことではなく、諸々の徳の主体に備わった永続的な状態です。ある特定の徳の行ないをもって神の子として働くというのではなく、すべての徳もすべての活動も神の子として実行することができ、またそうすべきであるということになります」[1]。ですからわたしたちは、人生の各瞬間を「神の子供たちの栄光に輝く自由」(ローマ8・21)をもって生きることができるのです。

とはいえ、神との親子関係の自覚は、私たちの人生のある局面に特別な仕方で結びついています。その局面とは、悩み苦しむとき、つまりわたしたちがイエスの十字架に与るときです。そのことは、マルコ福音書にあるように、異邦人がイエスを神の子と認めたのはまさにその死を目の当たりにしたときだったというところに、鮮やかに示されています(マルコ15・39参照)。聖ヨハネもまた、十字架こそが神の栄光の輝く場であると理解していました(ヨハネ12・23-24参照)。そして聖パウロも、栄光への道は、「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」(1コリント1・23)、すなわち十字架につけられたキリストと一致するところにある、と知るに至ったのです。

聖ホセマリアの人生においても、神との親子関係の自覚は十字架の経験を通じて悟らされたのでした。

同様に、聖ホセマリアの人生においても、神との親子関係の自覚は十字架の経験を通じて悟らされたのでした。1930年代の初めの頃でした。伝記作家たちによれば、若き司祭ホセマリアは、母や姉・弟が経済的に困窮し厳しい生活を送っているのを見て苦しんでいました。マドリッドでまだ不安定な地位しか得られずにいたことでも苦しんでいましたし、さらにはスペインにおいて教会が困難な状況のもとにあったことにも苦しんでいました。そうした中で、彼はこう書いています。

「1931年頃、主がわたしをあのように打たれたとき、わたしはその意味を理解できませんでした。そして突然、あのひどい苦しみのさなかに、言葉が聞こえたのです――お前はわたしの子(詩編2・7)、お前はキリスト。わたしにはこう繰り返すことしかできませんでした――アッバ、父よ! アッバ、父よ! アッバ! アッバ! アッバ!(…)。主よ、あなたはわたしに理解させてくださったのです、十字架を担うということは、幸福を、喜びを見出すことだと。その理由は――いまわたしにはかつてないほどはっきり見えます――その理由はこうです。十字架を担うということはキリストと一つになること、キリストとなること、つまり神の子となるということなのです」[2]

「十字架を担うということはキリストと一つになること、キリストとなること、つまり神の子となるということなのです」

この経験は聖ホセマリアの霊魂に深く刻まれました。それは、神との親子関係の発見だっただけでなく、キリストの犠牲との緊密な一致でもあったのです。それは逆説的なことでもあります。つまり、神の子――それも幼子――というわたしたちの身分は、十字架とひとつになっているということです。この逆説は、それからだいぶ後に書かれた『十字架の道行』の中の次のような言葉にも示されています。「後悔する子供が父親のがっしりとした腕の中に身を投げるように、イエズスのくびきにつかまろう」[3]。もしもわたしたちが自分は神の子だと知るなら、十字架はわたしたちと神との親子関係の確かなしるし、つまり神はわたしたちと共におられるということの最大の保証となるでしょう。

一見すると狂気の沙汰のように思えるかも知れませんが、十字架――痛み、苦しみ、つまずき――は、キリストに従う者にとっては神との親子関係のしるしであり、確かな逃れ場なのです。それゆえわたしたちキリスト者は、十字架に、聖なる十字架に接吻し、常に十字架につけられたキリスト像を手にもって、日々、イエスに助けられながら、聖なる木を担う者の密かな喜びを発見しようとしているのです。


[1] フェルナンド・オカリス/イグナシオ・デ・セラヤ『神の子として生きる』[新田壮一郎訳、精道教育促進協会、1999年、41ページ]。

[2] San Josemaría Escrivá, Apuntes de una meditación, 28-IV-1963, en E. Burkhart, J. López, Vida cotidiana y santidad en la enseñanza de San Josemaría, vol. 2, 37-38.

[3] 聖ホセマリア『十字架の道行き』第7留[精道教育促進協会スタッフ訳、精道教育促進協会、1981年、58ページ]。