属人区長の説教:イエスは私たちの「弱さ」の鏡

「エッチェ・オモ(この人を見よ)」。苦しまれるイエスが弱い姿で人の前に現れるご受難の場面について、オカリス師は語ります。

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Opus Dei - 属人区長の説教:イエスは私たちの「弱さ」の鏡

フェルナンド・オカリス師の説教:主の新しい掟

オーディオ(スペイン語、11分)

第一説教のリンク:最後の晩餐で一つになる

第二説教のリンク:主の新しい掟主の新しい掟

日本語の訳

聖金曜日の典礼は、私たちを十字架のイエスの偉大な神秘へとまっすぐに招きます。この日の福音書で、ゲッセマネの主を黙想します。ユダに導かれた人々によって捕縛されます。大祭司カイアファの前に引いて行かれ、投獄され、理に叶わない平手打ちを喰らわされます。そして、ピラトの前に引き出され、群衆の叫び声が響きます。「十字架に付けよ。十字架に付けよ!」(ヨハネ19,6)。それに促されるように、イエスは鞭打たれ、茨の冠を押し被せられます。

聖金曜日の朝、ピラトは拷問され蔑まれたイエスと面会し、数時間後に十字架に磔にされる人を指して「見よ、この人を」(ヨハネ19,5)と群衆に向かって語りかけます。有名な画家ティツィアーノ作『Ecce Homo(見よ、この人を)』には、人として打ち砕かれながらも、神々しさと美しさを映し出すイエスの姿が描かれています。神は弱さの内にご自分の御姿が映し出されることを望まれたのです。

世界中で病気や暗闇とも言える状況(今は、コロナウイルスのパンデミックがあります)で、たくさんの人々が苦しんでいます。この人々の中に、鞭打たれ、茨の冠を被せられるイエスの姿を黙想することができます。聖ヨハネ・パウロ二世は次のように祈りました。「この人を見よ。人間ですが繰り返されない唯一の御方。その存在の内に神によって創造され、贖われた一人一人が宿ります。(…)『Ecce Homo(見よ、この人を)』」。

確かに私たちは苦しみを共にしています。連帯を示す証拠がいくつもあります。でも究極は、一人ひとりが神と二人きりになる苦しみを体験することなのです。

イエスの孤独はそれを如実に物語っています。ここ数日の隔離された病人たちを思い出して下さい。家族に別れを告げることも出来ずに亡くなった方や、孤独の内に病気で苦しむ人たちです。イエスも群衆の前で孤独を体験されました。十字架上での叫び(『なぜ、私を見捨てられたのですか?』)は、穏やかで沈黙のイエスに向かって言われた「見よ、この人を」の前から始まっていたのでしょう。

ピラトによって群衆へ引き出されたイエスは、非道に扱われた人の尊厳のイコン(姿)になりました。すべての人の苦しみの中に神の神秘が宿っています。自然災害や不正義の仕打ちによって苦しむ罪のない人々、あるいは自分自身のせいで苦しむ人、その多くは自分の罪ゆえに苦しむのですが、その中にイエスが現存するのです。私たちを助けて下さい、救って下さいと神に願いましょう。イエスが人々の罪の結果のすべてを、ご自分の肩に担って下さいます。イエスは、私たちの希望なのです。

 傷付いても柔和なイエスの姿に、まるで鏡を見るように私たち自身の姿を見出します。苦しむキリストの傷の中に、愛である神の姿が映し出されます。

自分のことを後回しにして無私の奉仕をしている人々に特別の神の現存があります。「愛と思いやりがあるところ、そこに神がいる」Ubi caritas et amor, Deus ibi est! 病院で、老人ホームで、家庭で、善きサマリア人のような人々をたくさん見てきました。彼らはイエスの姿を映し出しています。個人主義の考え方や生き方は、キリがありません。あからさまな自己満足の社会で、多くの人々の心の中で神の霊が脈打っています。神は、人間の歴史にあの手この手でご自分を現わし、人類の歩みを神の愛で再び豊かにされます。

「見よ、この人を」の御姿は、私たちが弱く脆い者であり、多くの出来事を前にして度々無力であることを思い出させます。つい先日、教皇様が誰もいない聖ペトロ広場で世界中の人々に語りかけた嵐の話を思い起こしたでしょう。私たちの弱さが浮き彫りになりました。私たちが自分自身の本当の姿を認めることは、神と私、他者と私の関係を新たに作り直す助けとなり得ます。

福音書は続けて語ります。衣を剥がされたイエスは木の十字架を担い、その尊厳は台無しにされます。十字架の苦しみが頂点に達した時、主は詩編の言葉を発しました。「我が神よ、我が神よ。なぜ、私を見捨てられたのですか?」(マタイ27,26)。

この苦しみは何のためですか?なぜ、十字架なのですか?すべてを理解することは出来ませんが、十字架には弱さだけがあるように見えます。でも、神は全能の力を示しているのです。失敗、敗北、無理解、憎しみなどの中で、イエスは神の偉大な力を私たちに見せて下さいます。主の十字架は、それらを愛と勝利に変えるです。

ヘブライ人への手紙にあるように、「神の憐みをいただくために、恵みの玉座」(ヘブライ4,16)と出会うのは、十字架の上なのです。

カルワルオの丘でイエスの両側に磔にされた盗賊の一人が、それを体験しました。イエスの十字架が、赦され愛されていることを知る場所に変わったことを、あの「よい泥棒」は経験しました。「今日、あなたは私と共に天国にいるであろう」(ルカ23,43)。私たちは「天国」という言葉を十字架の上から聞くのです。

私たちも十字架を手に取って、ただ主を見つめながら天国を黙想することができます。フランシスコ教皇が次のように招かれました。「私たちのために命を差し出し、ご自分の方へと私たちを引き寄せてくださる主に、自分自身を任せましょう。主の十字架は敗北や失敗のシンボルではなく、真逆です。死ぬことは生きること、命を生み出すことだと語りかけてきます。愛を語りかけてきます。神の愛が肉体を持って人間になった御方が、主イエスだからです。そして、愛は死にません。それどころか、悪に打ち勝ちます。十字架のイエスに自分を委ねる人は、新たに創造され、『新しい人』になっていくのです

十字架を見つめる時、どれほどの希望が湧きあがることでしょう!自分の部屋の十字架、家の別の場所にある十字架も、そのような十字架になり得ます。沈黙を保ち、心の傷、疲れ、心配ごとなどを主に見ていただき、主の御手に委ねるのです。このようにして、私たちは神の愛の力を体験するでしょう。主の十字架が弱く脆いものを抱き締め、それを希望に変えて満たしてくれるからです。そして、家庭の中で、友人との間で、活動するすべての分野で、私たち自身が神の愛の見えるしるしに変えられるでしょう。十字架のイエスと一つになり、イエスと共に両手を他者に向かって開くなら、それらの場所で私たちは希望の見えるしるしになれます。

聖金曜日には、ゆるしの秘跡で神の憐みに近づけることに対して、特別な仕方で感謝をしましょう。いつにも増して祈りと償いに励む時期である四旬節、そして聖週間であるにもかかわらず、世界中で多くの人が告解に与ることができません。こんな状況だからこそ、ここ数日の間、教皇様が助言されたように、カテキズムが教える償いの祈りをしましょう。「告解する司祭がいないなら、父である神と語り合い、本当のことを申し上げなさい。『主よ、これをしました。これも、これも…赦して下さい。二度と犯さないと約束して、痛悔の念を持って心から赦しを請い願います』。後ほど必ず告白しますから、今ゆるしてください」。

聖金曜日に教会は、イエスの十字架の木(Lignum Crucis)に注意を向けるように導きます。典礼は次のように祈ります。

「主よ、あなたの十字架を礼拝します。そして、主の聖なる復活を賛美し、栄光を称えます。その木を通してこの世に喜びがもたらされました」。

十字架は、世界全体を希望で照らし出します。十字架の中に、私たちを抱きあげて弱さを癒そうと待ち構え、両手を開いた主を見つけます。そして、聖母マリアの姿も見出します。

ティツィアーノは『Ecce Homo(見よ、この人を)』の後に『両手を広げた悲しみの聖母』を描いています。数年間、この二つの絵画は同じ壁に並べて掛けられていました。人生で苦しみの時が来れば、イエスを見つめ、いつも聖母マリアが私たちに寄り添っておられることを思い出しましょう。そして、私たちを取り巻く人々に希望を与えるために、十字架のかたわらに留まれるように聖母に願いましょう。