聖ホセマリアの生涯-1

聖ホセマリアの生涯についての短い記事の連載が始まります。まず、その家族の紹介。

聖ホセマリアの両親

オプス・デイはその創立者聖ホセマリア・エスクリバー・デ・バラゲル神父の一生と離れがたく結びついています。そこで今回からしばらく、師の生涯を紹介していきたいと思います。

スペイン北部にアラゴンとカタルーニャという伝統ある地方が広がっています。このアラゴン地方のバルバストロという町が聖ホセマリア生誕の地です。父はアラゴン出身のホセ・エスクリバー・デ・バラゲル。母の名はドローレス・アルバースで先祖はカタルーニャ地方の貴族でした。ともにカトリックの信仰の深い家族で、父は6人、母は15人兄弟で、その中には司祭3人と修道女2人がいました。

父のホセ氏は20を過ぎてから仕事を求めて単身バルバストロに移住します。企業精神が旺盛かつ勤勉であったので、間もなく沢山の友達に恵まれ、小さな織物工場の共同経営者になりました。信心深く、奉仕の精神にあふれ、貧しい人や修道院などに寛大に寄付をしていました。1898年、10歳年下のドローレスと結婚します。

ドローレス夫人はしっかりものの才女でユーモアに富んだ人でした。二人の間には1899年に長女のカルメン、1902年にホセマリアが生まれ、その後三人の姉妹が続きました。家族は町の人々の評判もよい家族でした。子供が増えると、何人かのお手伝いさんを雇いましたが、母は決して暇をもてあますことはありませんでした。「母が何もしていないところを見た覚えがありません」と後年ホセマリアは言っています。この家庭で少年ホセマリアは幼少時代を過ごします。

聖ホセマリアは自分を頑固者と言っていました。子供の頃、新しい服を着ること、お母さんの訪問客に挨拶することは特に嫌いで、食べ物の好き嫌いもあったようです。両親はこの性格のよくない部分を忍耐強く直そうとしました。ある日の食事のこと、嫌いな料理が食卓に出されたのを見て、ホセマリアは怒ってその皿を壁に投げつけました。壁は汚れ、皿と料理は床に飛び散ります。母は席を立ち黙って床を掃除しましたが、壁はそのままにしておきました。そして何事もなかったかのように食事を続けたのです。その時以来、彼は毎日汚れた壁を見て心を痛めねばなりませんでした。

比較的裕福な家庭で、両親は子供の自由を尊重しましたが、わがままは許しませんでした。小遣いはわずかしか与えられませんでしたが、全く自由に使わせました。

母親の友人が訪問してくると、子供は訪問者に接吻するのが礼儀なのですが、ホセマリアはそれが嫌いでベッドの下に隠れました。すると母親は部屋に入り、杖で床をたたきながら「ホセマリア、恥ずかしいのは罪を犯すことだけです」と言ったそうです。この言葉の深い意味を大人になってから悟ったと言っていました。

父もできるだけ息子と関わるようにしました。町の人は二人がよく散歩しながら話しているのを見かけたそうです。一度ひどくわがままを言い張ったときほほを軽くぶたれた以外、親にたたかれたことはなかったとホセマリアは言っています。父は小さな会社の経営者で、適正な賃金や労働者の権利など社会問題に関する教会の教えも子供に教えていきました。

こうしてホセマリアは暖かい家庭の中で、キリスト教信仰や隣人に対する愛徳、また克己の精神などを身につけていきました。家には5人兄弟の他に数人のお手伝いさんもおり、また友達もよく家に遊びに来て賑やかでした。でもこの幸せは残念ながら長くは続きませんでした。