オプス・デイへの召し出し

ここに紹介する小論は、オプス・デイへの召し出しを考えている人やその家族の人たち、あるいは、深く召し出しについて知りたいと望んでいる人々にお役に立つものと思います。著者のジョン・F・カバデイル(John F. Coverdale)は、セトン・ホール法科大学院(Seton Hall Law School)の教授で、オプス・デイに所属するカトリック信者です。なお、この小論は1994年に発表されました。原文で「福者ホセマリア」となっていた個所は「聖ホセマリア」と改めました。

はじめに

オプス・デイは、カトリック教会の属人区(プレラトゥーラ・ペルソナーリス)です。2002年にヨハネ・パウロ二世によって列聖された聖ホセマリア・エスクリバーが、1928年にスペインで創立しました。オプス・デイは世界の90ヵ国以上に広がり、現在、9万人以上のカトリック信者が所属しています。本部はローマにあります。

オプス・デイへの召し出しによって、人々は何にもまして神を愛し、神のために人々を愛するという特有の道を歩むことになります。オプス・デイのメンバーは、全ての人が聖性に呼ばれているという喜ぶべきメッセージを広めながら、毎日の仕事や家族生活、社会生活など、まさに生活のすべてを、神と教会、そして人々に奉仕する道に変えるよう努めます。オプス・デイに加わる人々は、全ての人を聖性へと招く神の呼びかけに対して、このような特有の道を通して応えるよう神がお望みであると確信しているのです。

この小論では、オプス・デイへの召し出しの主な特徴を取り上げます。第一に、オプス・デイへの召し出しが自分にもあるかもしれないと思う人、あるいは家族の誰かがオプス・デイに所属している人など、個人的にこの召し出しに関心がある人を対象としています。はじめに、一般的にキリスト者としての召し出しを取り扱いました。キリスト者としての召し出しという広い枠の中で考えることで、初めてオプス・デイへの召し出しが理解できるからです。

第1章 キリスト者の召し出し

洗礼による聖性と使徒職への召し出し

神は全てのキリスト者に対して聖性に向かうようにとお呼びかけになりました。聖性とは何にもまして神を愛し、神ゆえに人々を愛し、人々に仕えることです。聖パウロは、エフェソの初代のキリスト者(鍛冶屋や店主、家事従業員や料理人、労働者からなる人々)に、神は「天地創造の前から、私たちを愛され、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと」(エフェソ1,4)、キリストにおいて私たちをお選びになったと保証しています。第二バチカン公会議で、「どのような身分と地位にあっても、全てのキリスト者がキリスト教的生活の完成と完全な愛に至るように召されている」(バチカン公会議、『教会憲章』40)と述べられたとき、この真理を私たちに思い出させてくれました。

この聖性への普遍的な召し出しの一部として、キリスト者は誰でも、人々に仕え、人々をキリストに近づけるために呼ばれています。 いわゆる「霊的」な仕事に従事している人たちばかりでなく、あらゆる真っ当な世の中の仕事と活動に従事している人たちが、キリストの教えを自らの模範と言葉で広げていくように呼ばれているのです。神はすべてのキリスト者が「教会の使命の証人、生きる道具となるよう」(『教会憲章』33)招いておられます。

社会における聖性と使徒職への召し出し

ヘアドレッサーや各種の作業員、会計士や主婦たちは、神と人々を愛し、神に仕え、友人や家族、同僚や隣人にキリストのメッセージを広めることに、献身的な努力を傾けるよう呼ばれているのです。人々はまず自らの仕事に従事し、家族生活を営み、余暇を愉しみ、社会生活を送りながら、自らの生活態度と言葉で証しするのです。神はキリストの精神で「この世のもの全てを照らし出し、秩序づけるために」(『教会憲章』33参照)、キリスト者全員をお呼びになっています。だから、キリストの教えは教会の中だけではなく、仕事場や家庭や社会のあらゆるところで実行されるのです。「仕事場や人間が努力を傾けるところならどこでも、普通の信徒は自分の義務を果たすことによって、パン種のように中から世間を聖化する努力をするように神から呼ばれています」(『教会憲章』33)。聖ルカによる福音書が語るイエスに癒された人のように、普通のカトリック信者は共に生活し共に働く人々に「神の正義と愛と慈しみ憐れみを」知らせる(ルカ8,39)ためにキリストによって派遣されているのです。

信徒は、「この世に住み、世俗の仕事に携わり」(第二バチカン公会議『信徒使徒職に関する教令』2)、キリスト者として生きることで、「教会の使命の中で特別な欠くことができない役目」(同上、1)を果たすよう招かれています。信徒にとって聖性への普遍的な召し出しとは、世間の真っ只中で日常生活を送りながら、神を愛し、人々を神に近づけるように尽力しなさいという呼びかけです。オプス・デイへの召し出しは、教会の信徒として、このような生き方に、全力を傾けることに外なりません。会社や工場や農場、学校や家庭で信仰に生き、聖性を目指し、使徒職をするよう神がお呼びになっていることを理解してこそ初めて、なぜ人々がオプス・デイのメンバーとしてこのような生き方に人生を捧げるのか、その理由を理解することができるでしょう。

個人的な呼びかけ

神は全ての人を聖性と使徒職へとお招きになるだけではありません。一人ひとりに具体的な計画を持っておられます。ご自分が永遠から予見されている具体的な役割を、私たち一人ひとりが果たすことを神はお望みです。イエス・キリストは、福音書の中で、私たち一人ひとりのための神の計画は、私たちの生活の細部にまで及ぶことを保証なさいました。あなた方の髪の毛の一本も残らず数えられている(マタイ10,30参照)と言われたのです。聖性と使徒職への普遍的な召し出しは、各々の人生を構成する様々な状況全体の中で、まったく個人的な聖性への召し出しというかたちに表れます。

日常生活の無数の状況の中で、私たちは神の個人的な呼びかけを耳にします。生まれたときから持っている才能や傾き、まったくの偶然の出会い、または思いがけないときに心を打つ考えなどを通して神は私たちをお呼びになるのです。神のご計画は、私たちの生活の中で起きる状況と出来事を通して、少しずつ明らかにされます。一人ひとりの人生には、大抵の場合、職業の選択、結婚、子どもの誕生などのような大きな転換期がいくつかあります。キリスト者は、当然このような出来事の中で神のご計画を知るばかりでなく、聖書を読むとき、秘跡を受けるとき、念祷をするとき、さらに日常生活を構成している幾千にもわたる些細な状況においても、神のご計画を発見します。多くの場合、神が何か特別な役割を果たすために自分をお呼びになっていると気づくことさえないかもしれませんが、実はこのような場合でも、神は人生の日常的な出来事や状況すべてを包み込む独自のご計画を持っておられるのです。

神の呼びかけに応えるよう、人生の方向を決める

神の呼びかけが厳しいという事実は、その呼びかけが否定的で重荷になるということを意味するわけではありません。ヨハネ・パウロ二世教皇が書かれたように、「愛に駆り立てられて“霊の導きに従って歩む”者(ガラテヤ5,16)、そして他者に仕えることを望む者は、自由に選び自由に実行すべきこととして、愛を実践するという根本的で必要な道を、神の法の中に見出します。(…)恩恵は神の子の完全な自由をもつことを可能にし(ローマ8,21参照)、“御子における子ども”として生き、その結果、私たちの崇高な召し出しにふさわしい生き方で道徳生活を送ることができるようにしてくださいます」(ヨハネ・パウロ二世、回勅『真理の輝き』18)。神の呼びかけに対して寛大に応えることは、天国においてだけでなく、この地上においても幸せになるための鍵です。キリストの跡に従う者は、永遠の命に生きるだけでなく、この世でも百倍の報いを受ける(ルカ18,29-30)と、キリストは約束なさいました。

神は信仰によって変えられた生活に完全に打ち込んで生きるよう、すべてのキリスト者をお呼びになっています。司祭や修道士になる召命を受けていない普通のカトリック信者は、「その根底ではキリスト者としての新しさから定義され〔ています〕」(ヨハネ・パウロ二世、使徒的勧告『信徒の召命と使命』15)。神のご計画では、カトリック信徒の「この世での普通の生活」は、「単にその外的な枠づけによってだけでなく、イエス・キリストのうちに十全な意味を見出すように定められています」(同、15)。神のご計画によると、「信徒が地においても、世においても、人類共同体においても、溶け込んでそれらと全面的にかかわっている」ということは、「救いをもたらす福音を広めることを目的として溶け込み、関わっていくという“新しさ”と独自性を表しているからです」(同上、15)。

「全ての信者は神の救いの計画がどんな時代にも、あらゆる国々のあらゆる人々にまで届くよう働くべき」(『教会憲章』33)であることを、全てのカトリック信者は知るべきです。「自分の毎日の活動を、神との一致の機会、御旨の到達の機会、人々への奉仕の機会、キリストにおける神との交わりに人々を導く機会と見なすよう」(『信徒の召命と使命』17)、神は信徒である男女をお呼びになっています。ヨハネ・パウロ二世によると、「信徒は聖性への召し出しに気づき、何よりも拒むことのできない義務としてそれを生きなければなりません」(『信徒の召命と使命』17)。

一人ひとりに神が語りかけてくださるこの呼びかけに忠実に応えるということは、私たちの全生活を形作ってくださる神の計画にすべてをお任せすることであり、そのご計画にそぐわないものはすべて退ける必要があるということです。結婚においては、このことが容易に理解できます。結婚生活を成功させたいと望んでいる人は、実現できそうな他の気高い計画や野心があっても、結婚が要求することがらを優先させる心づもりがなくてはなりません。結婚を召し出しという点から考えるかどうかにかかわらず、結婚が人生全体を包み、人生を形作るものであることは、当然のことであり称賛すべきことです。妻の健康のために、温かく乾燥した気候が必要ならば、たとえ海釣りを最高の楽しみとする夫であっても、喜んでアリゾナ州に住む覚悟がなければなりません。学校に通う子どもが数人いる夫婦ならば、学費を払うために娯楽や休暇を切り詰め、古い車を続けて使用うのは当然でしょう。結婚した人が配偶者と子供たちの正当な必要を満たすため犠牲を厭うなら、それは明らかに寛大さの不足と未熟さの兆候です。

同じことが全ての召し出しについて言えます。神の特別の計画を実行に移すために、神的な召し出しに忠実を保つとは、その計画に沿って自分の生活全体を打ち立てることです。神の呼びかけに応じるには、人生を完全に変える必要がある。これは明らかに福音書に述べられています。大宴会に招かれた客のたとえで、神を表す王は招待を断った人々に腹を立てました。正当なものであると考えられる仕事や家族の事情があったにも拘らず(ルカ13,16-24参照)」、立腹したのです。

キリストはご自分をお招きになった人々に、その召し出しにそぐわないことなら何であってもすべて捨て去るよう要求されます。招きを受けてもぐずぐずとして返事を先延ばししようとする二人に、きっぱりとおっしゃっています。「主は、別の人に、『私に従いなさい』と言われたが、その人は、『主よ、まず、父を葬りに行かせて下さい』と言った。しかしイエスは言われた。『死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは言って、神の国を言い広めなさい。』また別の人も言った。『主よ、あなたに従います。しかしまず家族に暇乞いに行かせて下さい。』イエスはその人に、『鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない』と言われた」(ルカ9,59-62)。キリストが二人の願いをお聞き入れにならなかった時の、一見厳しい態度はこの章句には表れませんが、この二人には特に重大な理由があったからなのかもしれません。多分、キリストが言い訳をお認めにならなかったのは、二人の心をご存じであったからであり、僅かな返事の遅れが重大な結果をもたらすことになったからなのでしょう。いずれにせよ、神の招きは呼ばれる人の人生全体に向けられるものであり、何よりもまず優先させなければならないものだということです。

第2章 オプス・デイの精神

属人区として創立された時、教皇は「精神の一致を備えた組織」(使徒憲章『Ut Sit』序論)と表現されました。この章では、オプス・デイの主な特徴について説明しましょう。

神の子

オプス・デイの精神の土台は、愛すべき父なる神の子であることを生き生きと自覚することです。(ヨハネ1,12とヨハネの第一の手紙3,1参照)この喜ばしい現実のおかげで、オプス・デイの信者が神と接するとき、また、神の子である人々と接するとき、快活で単純な信頼心を保つことができます。神の御前で生きたいという望みが育まれ、一日中神との優しい会話を保つようになります。神の子としての自覚があれば、父なる神により良く、またより一層忠実に仕えるために、自らの生き方を改善したいと望むと同時に、平和と信頼と幸せに満たされるのです。

神の子として、神から与えられている自由という賜物をいっそう深く知り、高く評価するようになります。オプス・デイの精神は、「キリスト者が有するこの測り知れない宝、つまり“神の子らの光栄の自由!(ローマ8,21)”」(ホセマリア・エスクリバー『神の朋友』27)への大きな尊敬を、オプス・デイの信者に繰り返し教えます。創立者は1956年の説教でこう話していました。「私は好んで自由という冒険について話します。私たちの一生はまさに自由の織りなす冒険であるからです。重ねて申しますが、奴隷のようにではなく、自由な子として、主のお示しになった道を歩みます。自由で軽快な歩みを神の賜物として味わうのです」(『神の朋友』35)。

日常生活における聖性

オプス・デイの精神の特徴は、日常生活の聖化を重視することです。「オプス・デイの目的と精神は、日常の仕事を聖化する点に価値を置いているところにあります。すなわち、仕事を聖化し、仕事において自己を聖化し、仕事を使徒職の道具に変えることです」(『司教省の宣言』1982年8月23日、II、c.)」。

小さな村で大工として働いたキリストの生活が、オプス・デイ信者の生き方を示しています。30年間、キリストは目立たない生活を送りました。キリストは何よりも御父の御旨を愛し、各瞬間に全精力を傾けてその御旨を果たしました。しかし、その時代の人々との間に壁を作るようなことは何ひとつなさいませんでした。当時の人々と同じ服装をし、同じような話し方をしておられたのです。人々の関心や興味に関心をもっておられました。偶然出会った人には、イエスは村の一職人であるとしか思えませんでした。最初の30年間の生活中、親戚や隣人、友人たちがイエスの説教や奇跡を予想できるような振る舞いは見られませんでした。事実、イエスが奇跡や説教をなさると、村の人々は驚いて、「これはヨセフの息子イエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『私は天から降ってきた』などというのか」(ヨハネ6,42)と、心の中でつぶやいたのでした。

キリストの「私生活」といわれるナザレでのご生活は、オプス・デイのメンバーが見習おうと努める手本になっています。日常生活において神に至ることが可能であるということを、自らの生活で証ししようと努めているのです。オプス・デイの信者を知っている人なら誰でも、その人が信仰を真面目に受け取り、信仰を実践しようと努めていることに気がつくでしょう。メンバーの友人や同僚に召し出しの事実を知られることに異議を唱えることはありません。しかし、ナザレでのイエスの生活を模範として、世間の真っ只中で普通の日常生活を送るように呼ばれているので、自分が神に個人的に献身するよう召されているということを公表することは好みません。オプス・デイの信者の召し出しは、キリストの隠れた生活のように目立たず静かなものです。それは、父親が自分の子供の教育に大きな関心を持ち、看護士が老齢の患者の言うことに耳を傾けるために立ち止まり、大学生が難しい数学の問題に苦戦している同級生を快く手伝い、隣人の家族の問題をキリスト教的に解決するために手伝うような態度に表れます。もちろん、これは善良なキリスト者なら誰でも実行することです。ここが、実に重要な点です。すなわち、オプス・デイの信者は、神と人々を愛する心から自分自身を聖化し、出来るだけそのようにすることで他の人々を聖化するよう努め、神が世間の直中で生活しているキリスト者全員に要求なさることを実現させようと努力するのです。

仕事の聖化

「神が人をお創りになったのは、働かせるためでした(創世記2,15参照)。人間はだれもが働かなくてはなりませんが、オプス・デイ独自の特徴と目的は、ただ働くだけではなく日常の仕事を深く愛するように導くことです。仕事は際立った人間的価値と人間の尊厳、社会の進歩のためになくてはならない手段であると分かっていますが、それ以上に仕事と人々への寛大な奉仕に溢れたキリストの隠れた生活を模倣することで、キリストと個人的に一致できる素晴らしい機会であり手段であると考えているのです。日常の仕事を通して、オプス・デイの信者は創造と世の救いという神の偉大な業に協力します」(オプス・デイ属人区の『規約』86, 1)。

仕事を聖化するには出来るだけ良く働く努力が要求されます。見せ掛けだけで欠点だらけの仕事を神に捧げることはできないからです。例えば、聖化を心掛ける医者ならば、技術を磨き、最新の医学の知識を持ち、患者一人ひとりに必要な配慮を尽くし、ふさわしい時間を割くように努めます。家屋の塗装を仕事にするオプス・デイの信者なら、最良の技術を身につけて仕事を注意深くきれいに仕上げ、報酬にふさわしい働きをするよう努力します。

というのも、オプス・デイ属人区の信者は、ただ成功したいから、あるいは職人気質にかられて働くだけではなく、特に仕事は自分に対する神のご計画であり、神と仕事に関係のある人たちを愛するがゆえに、できるだけ立派に遣り遂げるように神がお望みであるとも考えるからです。神の御旨を果たすため、人々への愛を表すために、しっかりと仕事を遣り遂げるのです。

キリスト信者、具体的にオプス・デイの信者にとって、仕事を立派に果たすということは、利己的な仕事の仕方をしないことです。キリスト者は、労働が生み出す収入を含めて仕事の正当な報酬は、神のご意向に沿って賢明に管理されるべきものだと考えます。オプス・デイのメンバーは、個人的には慎ましく質素な生活を送っています。責任感の強い管理人のように、自分の気まぐれを満足させるために収入を使うのではなく、家族を支え、使徒職を助け、社会の重荷を分け合い担うために使います。

オプス・デイの信者が受ける形成は、カトリックの社会教説に一致し、良心を形成していくのに役に立ちます。オプス・デイは、その信者とその活動に参加している人たちに対して、社会で恵まれない人々の状況を改善しようと努力するにあたり、正義が要求することを敏感に察知し、度量の大きい寛大な心で事に当たるよう強く勧めます。その結果の一つとして、世界中でオプス・デイの信者が創設し、経営する多くの社会事業を挙げることができます。しかし、さらに大切なことは、教会の社会教説を自らの仕事とその他の活動において実践するために個々のメンバーが傾ける努力です。

オプス・デイでは、人々への思いやりと秩序、時間厳守、正義と謙遜など、多くの徳を実践するための日々の具体的な方法を提供します。とりわけ、仕事を奉仕に変えることによって愛徳を示すよう教えます。聖ホセマリアはこう書いています。「私は主イエスを愛する心から、人々に仕え、私の全生涯を人々に仕える手段に変えたいと思っています」(『知識の香』27)。この精神に導かれて、オプス・デイの信者は人々に誠実に仕えるために仕事に当たる努力をしています。列聖手続きが既に始まっているオプス・デイの信者がすでに十名を越えていますが、そのうちの二人を紹介しておきましょう。一人はイシドロ・ソルサノです。彼は鉄道会社で働いていた土木技師でした。もう一人は17歳のときに癌で亡くなった女子学生のモンセラート・グラセスです。二人とも仕えることによって愛徳をはっきりと表しました。二人の聖性は際立った行動の中にではなく、毎日の様々な状況の中で徳を実践することにありました。例えば、同僚の話によると、イシドロは自分の義務ではないにもかかわらず、同僚が必要なことをうまく遣り遂げることができるよう、自から進んで喜んで手を差し伸べて手伝っていたそうです。モンセラートは、何ヵ月もの病気の苦痛を捧げ、祈りと喜びに満ちて聖性を求め、病に伏す時間を友人たちが神に近づくために使っていました。

仕事と祈り

仕事とそれに伴う社会との接触は、心を神に上げて神と話す機会になります。オプス・デイの精神に鼓舞されて生活する人々は、休憩時間を活用し、仕事を神に捧げ、助けを求め、あるいは、神をお愛していますと申し上げる努力をします。この精神を自らの生活に組み込む度合いに応じて、仕事と日々の事柄は神により一層近づき、一日中神と親しい会話ができるようになります。オプス・デイの創立者の言葉を借りれば、「世間の真っ只中で観想者」になるのです。すなわち、外見上は他の多くの人々とは全く変わりませんが、まさに、仕事を通して神との親しい語り合いを続けながら生活する人になるということです。

日々の仕事と活動を神との対話の機会に変えるには、神と一対一で過ごす時間を持つ工夫をしなければなりません。カトリック信者は主の御前にいる自覚を持ち、神との親しい会話に生きるために秘跡を受け、祈りのために毎日一定の時間を確保する必要があります。だからオプス・デイでは、毎日の御ミサや福音書を読むこと、個人的な祈り(念祷)の大切さを強調するのです。神との一対一の個人的な付き合いのために捧げられた時間があれば、仕事や休憩、そして生活のすべてを神を愛する道、すべて共有する友情に変えることができるのです。

オプス・デイの信者の祈りの生活は、イエス・キリストに向かいます。具体的には、御ミサに中心を置きます。聖ホセマリア・エスクリバーの言葉によると、御ミサは、オプス・デイの信者の「内的生活の中心であり根源」となります。仕事と日々の諸活動は御ミサの中で父なる神にイエス・キリストが捧げられた“いけにえ”としての意味を十全に持つようになります。ゆるしの秘跡も「イエス・キリストを着る」(ガラテヤ3,27)機会として、オプス・デイの信者の霊的生活の中で中心的役割を果たしています。

マリアの子

神の子としての強い自覚を深め、聖書と秘跡によってイエス・キリストと個人的に親しく付き合うことに加えて、オプス・デイの信者は聖母マリアへの信心を実行します。聖ホセマリアは霊的な子ども達に、「子としての愛と喜びを持って聖母に近づきなさい」と勧めました。オプス・デイ創立直後に書いた本の中でこう言っています。「道の終わりには、我を忘れてイエスを愛する自分に気づくことでしょう。しかし、その道の始まりは、マリアを百パーセント信頼した愛であるべきです」(ホセマリア・エスクリバー『聖なるロザリオ』前書き)。

マリア信心と神の子としての自覚があれば、奉仕の精神が芽生え、人々を助けたいと望むようになります。マリアについての説教の中で創立者はこう説いています。「マリアに対しては、子どもとして接しながら、自分の問題や個人的なことばかりを考えるようなことはできないはずです。聖母と親しく交わっているのに、利己的な事柄のみにたずさわるわけにはいきません。マリアは、私たちをイエスのもとへと導いてくださいますが、そのイエスは“多くの兄弟の長子”(ローマ8,29)であります。従って、イエスを知るとは、人々のために身を徹して働かなければ私たちの一生も無意味に等しいということを知ることなのです。キリスト者なら、教会全体のことを考え、すべての人々の救いのために生きなければなりませんから、個人的な問題だけに関わっているわけにはいかないはずです」(ホセマリア・エスクリバー『知識の香』145)。

聖ホセマリア・エスクリバーへの信心

教皇ヨハネ・パウロ二世は、「何世紀にも渡り、その生活と言葉であらゆる異なる歴史の時代を照らした男女信者の中で、聖ホセマリア・エスクリバーは“卓越した場”を占める」と述べておられます(『オッセルバトーレ・ロマーノ』1993年10月27日、英語版、n.43)。教皇ヨハネ・パウロ二世は、創立者の列福式の翌日、オプス・デイの信者とその友人たちに向かって、「聖ホセマリアの模範と言葉の光に照らされて欲しい」と希望を述べられました。教皇にとって、ホセマリア・エスクリバーは、「聖性の模範」であり、「日々の人間の活動におけるキリスト的英雄性の卓越した証人」です(『オッセルバトーレ・ロマーノ』1992年5月17日、p.6)。

教皇が励ましたように、オプス・デイのメンバーは、聖ホセマリアの書物の中でオプス・デイの精神を学び、そして実行するよう努めています。さらに大切なことは、創立者の生き方そのものが、その精神を日々実行するにはどうすればいいかを示す具体的な模範となっていることです。それに加えて、無数の人々と同じく、メンバーは聖ホセマリアが神への力強い仲介者だということを経験によって知っているので、霊的生活と使徒職、日々の必要事の助けを聖ホセマリアに求めています。このような理由で、オプス・デイのメンバーは、創立者の生涯と著作をよく知るように努めているのです。そして、聖ホセマリアの取り次ぎをお願いするよう人々にも勧めています。

犠牲の精神

純粋に人間的な面だけを考えても、自己訓練と自己犠牲が必要です。アスリートたちは厳しいトレーニングを自らに課します。人々は健康のため、あるいはただ単に外見を良くするために、ダイエットをします。あらゆる階級の男女は職業面で抜きん出るために、あるいは自分の個人的な目標を達成するために、長い時間を費やしています。聖パウロはコリントの初代キリスト者にキリストの傍らを歩むには自己犠牲が必要であることを強調しています。「競技をする人は皆、全てに節制するのです。彼らは朽ちる冠を得るために節制をするのです。(…)私は自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです」(コリント第一9,25と27)。犠牲を実行するキリスト者は、徳に成長し、欲求をコントロールし、身分上の義務を果たし、人々への愛徳を実行することができるようになります。

キリスト者は特にキリストを真似、その生き方を共にするために犠牲を喜んで受け入れます。イエスはご自分の後に続きたい人たちに、自分を否定して日々の十字架を取るようお招きになりました(ルカ9,23参照)。「自分の十字架を担って私に従わない者は、私にふさわしくない」(マタイ10,39)。オプス・デイの信者の目標は、聖パウロと共に、「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」(ガラテヤ22,20)と言うことができる迄キリストの生涯を自分のものとすることです。しかし、これを実現させるには、「キリストと共に十字架につけられています」(ガラテヤ2,19)と言うことができなければなりません。

犠牲は私たちをキリストに結びつけるだけでなく、人々をキリストに近づけるためにも役立ちます。なぜ自分たちは悪魔を追い払うことができなかったのかと使徒たちがイエスに尋ねたとき、イエスはお教えになりました。「悪魔を追い出すには、祈りと断食以外に方法はない(マタイ17,20)と。聖パウロは、コロサイの初代の信者にこう教えています。「今や私は、あなた方のために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを、身をもって満たしています」(コロサイ1,24)。

オプス・デイの精神によれば、各々の職業や仕事、家庭と社会における義務を出来るだけ完全に果たすために必要な努力を第一の犠牲と考えます。仕事と日々の生活の中には継続性や秩序、時間厳守、困難や逆境を快く受け入れることなど、自己否定と犠牲の真の精神を実践する機会が数多くあるからです。

オプス・デイのメンバーはまた、時に鞭や鎖などキリスト教の伝統的な自己否定の業を実行して、十字架を担いなさいというキリストの招きに寛大に応える努力をします。このようなキリスト教の苦行を実行しても、アスリートたちの鍛練や、健康や体型を良くするために多くの人たちが実行するダイエット以上に害を与えることはありません。いずれも何世紀にわたって聖ドミニコ、アシジの聖フランシスコ、ロヨラの聖イグナチオ、聖トマス・モア、ラサールの聖フランシスコ、ニューマン枢機卿、そして現在なら、マザー・テレサや教皇パウロ六世など、多くの聖人たちや聖なる人々が、進んでイエス・キリストの苦しみを分かち合うために実行した犠牲です。

オプス・デイの信者が実行する修徳の行いは、快活で喜びに満ちた生活と両立するというだけでなく、そのような生き方をするために役立ちます。聖ホセマリアはこう述べていました。「物事がうまく行けば、助けてくださる神を祝福して喜びあおう。うまく行かない時にも、ご自身の十字架にあずからせてくださる神を祝して喜びあおう」(ホセマリア・エスクリバー『道』658)。またこう付け加えています。「いつも喜んでいてほしい。喜びはあなたの道の肝要な部分なのだから」(『道』665)。オプス・デイのセンターを訪ねる人は誰でも、「明るく快活なキリスト信者の家庭」と、そこにいる人々が「平和と喜びにあふれている」(ホセマリア・エスクリバー『鍛』520参照)ことに気づくでしょう。

使徒の心

仕事、社会生活や休息、そして日常生活におけるその他のあらゆる活動は、オプス・デイの信者自身に役立つだけでなく、人々が神をよりよく知り、愛するよう助ける機会となり手段となります。メンバーの使徒職は主に、仕事を通して自然に生まれる友情と、明るい心と奉仕の精神をもって果たす仕事の模範にかかっています。このようなことがらを通して聖性に向かうよう神の招きを受けているという使信を、すべての人々の間に広げる使命達成のために努めているのです。

オプス・デイの信者は父なる神の愛を自覚することが平和と幸せの源であると自覚しています。その平和と喜びを、人々と分かち合いたいと望むのは当然です。ですから、友人や同僚、家族、そして近所の人達を、神にもっと近づけたいと望んでいるのです。良い模範を示すように努めることの他に、友だちのために祈り、犠牲を捧げます。友人との会話を通して、もっと詳しく深くキリストを知り、もっと深く愛し、聖性への呼びかけに応えるように手助けをします。彼らの励ましの言葉や、直面している難しい問題のための祈り、或いは、ふと漏らした忠告などは、深いキリスト教的友情の表れと言えるでしょう。またあるときには、キリストの教えやキリスト教的な生き方に要求されること、あるいはオプス・デイへの召し出しについての心と心の真剣な話し合いとなることでしょう。

場合によって、オプス・デイのメンバーは人々と共に学校や診療所、クラブや農業のトレーニングセンター、その他社会の必要性を満たし、キリストの教えをより多くの人々に広める機会を提供するために役立つ多種多様な活動を進めることもあります。そのような活動に従事するオプス・デイの信者もいますが、多くは工場や法律事務所、オフィスや病院などで働き、全力を込めて神への愛と同僚に奉仕するために仕事に取り組んでいます。

第3章 オプス・デイへの召し出し

神は聖性を目指すよう、言い換えれば、神と人々への愛を自らの人生を動かす原動力にするよう、すべてのキリスト者をお呼びになるということを見てきました。また、ほとんどの男女には、日々の生活の中で聖性と使徒職の普遍的な召し出しに応えることを望んでおられることもわかりました。神は私たちが日々の仕事や家族生活、日常生活の中で、またその活動を通して、ご自分と人々への愛を表明するように望んでおられるのです。

オプス・デイへの召し出しは、この世において聖性を目指し、使徒職をするようにという、キリスト者が受ける召し出しの中でも特定の召し出しです。それは、日常生活という平凡な環境の中で自分自身を聖化するよう神がお望みであることをすべての人々に知らせることによって、教会に仕えることです。神は人々をオプス・デイにお呼びになる際、この世で聖性を目指すよう召されているという教えを広め、自らも真剣に努力して聖性を求めるようにお招きになります。オプス・デイの提供する内的生活と使徒職に関する形成を活用して仕事を聖化し、その仕事で自らを聖化し、また仕事を聖化することによって人々を聖化するための手段に変えるようお望みなのです。従って、オプス・デイへの召し出しとは、全ての人々に共通する聖化と使徒職への召し出しを、固有の方法で生きるということなのです。

個人的な招き

オプス・デイへの召し出しを受けた人々は、オプス・デイの精神に従って聖性を目指し使徒職の実践を手助けすることで教会に仕えるようにという自分の召し出しが、明らかに個人的な招きであることに気づきます。この召し出しは、洗礼によって受けた召し出しを教会と人々への奉仕のために、具体的で固有な道を歩むことによって生き抜くように、神がお望みであるという確信を意味します。

オプス・デイへの召し出しを発見すると、何にもまして神を愛し、神への愛ゆえに人々を愛せよという招きが、緊急かつ個人的な招きであることに気づきます。ありふれた例かもしれませんが、役に立つかもしれません。ある婦人がパーティーに招待されたとしましょう。ところで、招待客はみな料理を一品もって行かなければなりません。その少し後、招待主が客の家を直接に訪問して、特別に美味しいシーフード・サラダを準備して是非パーティに参加して欲しいと言います。招待状が郵便で送られてきたとしても、いずれの招待も内容は同じですが、訪問した上での招待は具体的であり、本当に参加してほしいという意向が表れています。同じように、オプス・デイへの召し出しを知ると、イエスが個人的に「天の御父が完全であるように、あなたたちも完全になりなさい」(マタイ5,48)と招いておられることに気づきます。招きそのものに変わりはありませんが、招きの中身がよりいっそう明白かつ具体的となり、更に個人的な性格をもつようになるのです。

個人的な献身

オプス・デイへの召し出しを受け入れると、個人的な献身が要求されます。キリストの招きに応えるオプス・デイのメンバーは、オプス・デイの精神を生きることによって、自らを聖化し、人々を聖化して、全ての人が聖性に呼ばれているというメッセージを広げていくことに全力投球します。「私はここにいます。主が私をお呼びになられましたから」(サムエル上3,9)。こう言って神の招きに応えたサムエルのように、オプス・デイの人たちは、努めて寛大に神の招きに応えようとします。各自の生活の中で、神の御旨を行うためにすべてを捧げる生き方は、オプス・デイの精神に従って生きるための努力の具体化であり、その生き方の意義でもあります。献身するとは、魅力的な良い行いをすること以上に、神の招きに絶えず応えることを固く約束することを意味します。

この招きは、オプス・デイにおいて指導的責任を担うディレクターが内的生活と使徒職活動について提供する具体的なガイダンスのかたちをとります。オプス・デイのメンバーは、職業と社会的な事柄と政治に関して完全な自由と自立性を享受しますが、霊的、使徒職的な分野においてはオプス・デイが与える形成と霊的な勧めを自由に受け入れます。神がこの具体的な方法で仕えるよう、お呼びになっていると確信しているからです。勧めは、いずれも聖書とカトリック教会の聖伝にしっかりと基づいたものです。それは教会が聖性を求める人々に提供する勧めですが、各々に固有な状況に合わせて、その人をよく知り、その人の状況に深くかかわっている人を通して与えられます。この勧めの内容については、第2章のオプス・デイの精神について説明した通りです。

内的変化

オプス・デイへの召し出しは、自らの聖化ならびに仕事や余暇、社会関係などを聖化することによって他の人々を聖化するようにという、個々の人間への招きですから、それはまず内的な変化を要求し、その変化は必然的に態度に表れます。オプス・デイに所属する信者の生き方は外的にはほとんど変わりません。オプス・デイへの召し出しは、新しく異なる生活のために日常生活を放棄することではなく、むしろ同じ日常生活を新たな異なった視点を持って営むということなのです。オプス・デイに所属する人で二人の子どもをもつ弁護士なら、今までと同じ事務所で仕事を続け、所属する前と同じ家に住み、同じ服を着用し、同じバスケットボールのリーグでプレーをします。しかし、何かが変わります。御ミサに与るために、平日の朝少し早目に起きたり、子どもと一緒に遊び、子どもの寝支度をするのを手伝うために、仕事場では時間を上手に使う努力を以前にもまして工夫するようになるでしょう。そして、夕方や週末には、もっと深く信仰とオプス・デイの精神について学ぶための時間を見つける努力を傾け、友人や仕事の同僚たちにもっと深い関心を持つようになるでしょう。家庭では、妻に対してもっと細やかな心遣いと深い愛情を持って接し、さらに深く子育てに関わるよう努力します。仕事と家族生活、祈りと娯楽を神が計画に組み込まれているもの、自らの聖化と人々の聖化のために神が準備された手段であることを理解するようになるのです。

同様に、オプス・デイに所属し、経営学の学位を取得するために勉強している若い女性なら、以前と同じく授業に出席し、同じアルバイトを続け、同じクラブに所属し続けます。しかし、授業を神が要求なさることの重要な部分であると考えるはずです。同級生には以前にもまして深い関心を持ち、彼らを助けるように努めるでしょう。また、無償で炊き出しの手伝いをし、時々養護施設を訪問したりすることでしょう。カヌーに興味を持つようになった仲間が夏にカヌーで長期旅行を計画するのと同様に、オプス・デイに所属する学生はさらに深く教会の教えとオプス・デイの精神を学ぶために研修会に参加できるよう、自分の予定をやり繰りすることでしょう。彼女の生活の外面的な変化は比較的わずかでしょうが、新たな内的な態度はその行動のすべてに新しい意味を与えるのです。

多様なメンバー

神は、オプス・デイの信者すべてに同じ召し出しをお与えになります。仕事と家族生活、日常生活と他のすべてを聖化するよう、またその活動を通して自分自身と人々を聖化するために努力を傾けるように神は要求なさいます。しかし、この招きを受ける人達の年齢、職業、生活状況、受けた教育などはかなり異なっています。このように様々な状況の違いがあり、また特に結婚している人や家族に関わる何らかの義務のある人がいるので、「スーパー・ヌーメラリー」、「アソシエート」、「ヌメラリー」のあり方の違いが理解できます。この名称は、センターの中、或いは外から、オプス・デイが提供する形成の手段を計画したり実行したりする可能性の違いが反映された結果ですが、召し出しの違いや個人の献身の度合いの違いを意味するのではありません。オプス・デイの信者は全員が全力を傾けて同じ精神に生きるように呼ばれていますし、すべての人が同じ聖性を目指すよう神に召されているのです。

大部分のスーパー・ヌーメラリーは結婚しています。そして友人や家族、近所の人達や同僚の間で、言葉と模範をもって福音宣教に力を尽くしています。他のオプス・デイの信者同様、日常生活を通して聖性を求めるというオプス・デイのメッセージを広げるように努めます。多様な環境の中で、形成の手段に参加する努力を続けています。家族と仕事への献身が要求されますから、スーパー・ヌーメラリーは、通常、組織だった公的なやり方でオプス・デイの活動を指導したり、オプス・デイの精神について形成を与えたりするための時間はほとんどありません。しかし、彼らは言葉と模範で同僚や友人、自分の家族をもっとキリストに近づけるように努力すると同時に、小教区の活動とオプス・デイの活動を支えるために努めて経済的に寛大な貢献をします。

ヌメラリーは使徒職のために心と体の全てを神に捧げ、使徒的独身に生きます。それゆえ、オプス・デイの中で形成を与え指導的な仕事に携わることができます。ほとんどのヌメラリーはセンター以外の場で仕事(職業)を持っていますが、もしオプス・デイのディレクターとしての仕事に専念する必要があれば、エンジニアやビジネスマン、弁護士などの職を手放して、フルタイムで形成を与える仕事に快く従事します。形成の手段を受けやすく、また、うまく進めていくために、普通の場合、ヌメラリーはオプス・デイのセンターで家族生活をします。ただし、仕事の必要上、別の場所に住むこともあります。

ヌメラリーは個人的に必要でない給料と収入のすべてをオプス・デイのあらゆる種類の使徒職のために提供します。贈り物や遺産は、いわば自動的にオプス・デイのものになります。この種の収入は大抵の場合、道義的な責任やその他の責任を伴いますが、当然その責任を果たさなければなりません。ヌメラリーはこの責任を果たすにあたり、このような財産への正当な権利を保持する完全な自由を持っていますが、キリスト教的離脱を実践するために、通常は、この種の財産を第三者の管理に委ねます。

女子のヌメラリーの中にアシスタント・ヌメラリーと呼ばれる人たちがいますが、彼女たちは、オプス・デイのセンターの家事全般を専門職として選びます。その仕事は人々を引き付ける、暖かくて素晴らしい家庭の雰囲気を創り出してくれます。聖ホセマリアは、しばしばアシスタント・ヌメラリーの仕事の大切さを強調していました。その仕事はオプス・デイのセンターで行う使徒職が実を結ぶために大きく貢献するからです。

アソシエートと称されるメンバーも使徒職的独身を生きますが、血縁の家族のための責任や個人的事情のために、オプス・デイの使徒的活動にヌメラリーほど時間を割くことができないことがしばしばあります。普通、アソシエートは自分の家族と暮らしています。収入に関しては、キリスト信者の離脱と責任の精神を持って、ヌメラリーと同じように取り扱います。

ヌメラリーとアソシエートの中からごく少数のメンバーが、本人が自由に望むならば、オプス・デイ属人区の司祭として叙階の秘跡を受けるよう、プレラートゥス(属人区長)から勧められます。この司祭たちはオプス・デイに所属する信者の霊的な面での世話を引き受けます。また、説教や霊的指導、秘跡の執行などによって多様な使徒的活動を助けます。オプス・デイに属する約1900人の司祭は、全信徒メンバーの2パーセントにも及びません。

メンバーの個人的献身は本人とオプス・デイとの間に交わされる言葉による契約によって表明されます。この契約によって、信徒はオプス・デイの精神に一致し、ディレクターたちが提供する勧めを実行し、キリスト教的生活の要求に応えながら、使徒職を行うように全力を込めて努力します。オプス・デイの側からは、メンバーが神の呼びかけに忠実に応えるために必要な霊的支えと指導を提供します。

重要な個人的な約束ならいずれも同じですが、オプス・デイへの召し出しを軽く受け取るべきものではありません。創立者が話していたように、「全人生を決める決心は(…)慌ててするべきではなく、落ち着いてすべきです。召し出しに関わる決心は、特に責任を持って思慮深くなされるべきです。賢明の徳の部分をなすのが他の人々、特に自らの両親の忠告を求めることです」(『エスクリバー師との会見』104)。

オプス・デイの『規約』には、オプス・デイのメンバーとなる人たちが十分な知識をもって、よく考えた上で決心するよう、明確な条項が記載されています。オプス・デイに所属するための契約を交わすためには18歳になっていなければなりません。それに先立つ一年半にわたってオプス・デイの使命と精神について詳しく学ぶと共に、オプス・デイの精神に従って使徒職を実行しなければなりません。この最初の形成の時期に、オプス・デイを内側から知り、ディレクターが本人をよく知るようになって初めて、最初の契約によりオプス・デイへの献身が許可されます。

オプス・デイへのこの最初の契約は1年足らず続くものです。最初の契約から少なくも5年間は、毎年この契約を自らの意志で更新していきます。更新しなければ、契約は消滅します。オプス・デイにおいて神に一生を捧げるには、正式に加入を願い出たときから少なくとも6年半経ていなければなりません。ですから、23歳になって初めてオプス・デイへの永続的な所属が可能になります。

第4章 教会におけるオプス・デイ

カトリック教会の一部であるオプス・デイは、創立者の言葉によれば、「教会が仕えて欲しいように教会に仕える」ことを求めます。オプス・デイでは、教会に仕えるだけではなく、とりわけ教会を愛するように、具体的には教皇と司教、司祭と修道者を愛するよう、その信者を励まします。聖ホセマリアは「司祭や修道者の身分を最高の仕方で敬わなければ、神の教会を愛しているとは言えない」(『道』526)と教えていました。

属人区(プレラトゥーラ・ペルソナーリス)

教会法的に言えば、オプス・デイは属人区です。第二バチカン公会議は特別の使徒職を実践する新しい組織として属人区を導入しました。教会法典によると、属人区は聖座が与える『規約』によって統治される位階的な構造をもった組織です。属人区長は固有の裁治権者として属人区を統治し使徒的事業を推進するために、司祭の叙階を受けるよう男子信徒を招きます。属人区との契約によって、信徒メンバーも同じ使徒職を行うために生涯を捧げます(『新教会法典』295条、第1項と296条参照)。オプス・デイ属人区は、1982年、特別の司牧的な任務、すなわちすべての人が日常生活を通して聖性追求に向かうべきであるという教えを広める使命を果たすために設置されました。

オプス・デイと司教区

オプス・デイは信者が教区と小教区で受ける霊的指導を補う役目を果たします。世界的な広がりをもつ組織としてのオプス・デイは、地方教会に奉仕することによって普遍教会に奉仕します。オプス・デイに属しても、自分の住む教区と小教区との関係は変わりません。オプス・デイの信徒メンバーは、自分の属する司教区に関して、他のカトリック信者と全く同じ義務と権利を持っています。全信者に及ぶ教区司教の統治権はオプス・デイの信者にも及びます。オプス・デイの属人区長と、司牧面で属人区長の手助けをする司祭、そしてオプス・デイの信徒であるディレクター達は、教区司教によって築かれた基盤に基づいて行動します。すなわち、神の民の聖化のために尽力する司教の努力に呼応して具体的で力強い貢献をします。

オプス・デイの司祭とディレクターは、その信者が霊的使徒的義務を模範的に果たすよう助けます。これは必然的に教区司教の指導指針に忠実に従うことにつながります。オプス・デイでは、司教に従い、司教を愛し、司教を尊敬するように勧められています。聖書が教えるように、司教は教会を司牧するために聖霊に選ばれた人だからです(使徒言行録20,28参照)。

オプス・デイのメンバーは、自分の小教区の牧者およびその信者に対して兄弟としての協力をします。自らの模範と祈りと言葉を通して、小教区共同体の一致を深めるように努めています。ですから中には、教区の委員会その他の活動で積極的な役目をする信者もいます。オプス・デイの信者が小教区の活動に参加する度合いは、個人的な状況や環境や好みによって大きく異なっています。しかし、いずれの場合でも、まず自らの生活と仕事の場で、祈りと犠牲、言葉と模範によって、キリストが現存なさるよう努力することにより、地方教会の生活に貢献します。このようにして 日々の生活で出会う人たちをキリストにもっと近づけるように助けるのです。オプス・デイのメンバーのこの使徒職は、自分たちが住んでいる教区と小教区に直接役に立ちます。

オプス・デイとローマ教皇庁

世界的な広がりをもつ属人区として、オプス・デイは、ローマ教皇庁の司教省に依存しています。創立期から教皇と世界中の多数の司教の承認と祝福、熱心な支持に恵まれてきました。

ヨハネ・パウロ二世教皇は1982年11月28日、オプス・デイを属人区として設立しました。教皇庁はその準備として詳細な調査を徹底的に行いました。聖座の関係各省で、オプス・デイの精神、その信者の生活様式、内的機構を詳細に説明する『規約』を詳細に検討し、審議しました。教皇はオプス・デイが使徒職活動を展開している国々(当時50ヵ国以上)の司教の意見を聴きました。

1992年5月17日に挙行された創立者の列福式は、教会のオプス・デイ承認を劇的に確認することとなりました。聖ペトロ広場に集う約25万人以上の人々の中には、世界中から訪れた33名の枢機卿と200名以上の司教がいました。この人たちはホセマリア・エスクリバー師の帰天直後、教皇パウロ六世に創立者の列福・列聖調査の開始を願い出た1000人にのぼる司教と枢機卿の一部でした。列福式中、教皇ヨハネ・パウロ二世はこう述べられました。「聖ホセマリアは、超自然的直観を持って、万人が聖性と使徒職に召されていることを倦むことなく説き続けました。キリストは、全ての人が日々の現実の生活の中で聖人になるようにお望みなのです。従って、イエス・キリストと一致して生きるなら、仕事もまた個人的な聖性と使徒職の手段となります。なぜなら“神の御子キリストは、受肉(託身)よって、何らかの形で人間と被造物のあらゆる現実をご自身に結びつけられたからです”(ヨハネ・パウロ二世、回勅『聖霊―生命の与え主』50参照)。物欲が野放しになった社会では、モノが偶像となって人の心を神から引き離していますが、聖ホセマリアは、まさに神と人間の努力が作り出したこれらの現実が、創造主の栄光と兄弟姉妹たちへの奉仕のために正しく用いられるなら、全ての男女がキリストと出会うための道となることを教えてくれました。“この世のあらゆるものを、地上での儚い人間の活動をも含めて、神へと向かわせなければならない”(書簡1954年3月19日)。(…)福音に深く根ざしたこの霊的メッセージの今日性と超越性は明らかです。それは神がホセマリアの生涯と業績を祝福し、実り多いものとされたことからも分かります」(『オッセルバトーレ・ロマーノ』1992年5月18日と19日、p.4)。

列福式の翌日、感謝ミサに与るために聖ペトロ広場に集まった多くのオプス・デイの信者とその家族や友人達を前に、ヨハネ・パウロ二世はお話しになりました。「新しく聖となった創立者から学び、聖なる熱意に支えられた皆さんが、人間の広範囲にわたる活動の世界で教会の信仰と教えの使命に参加し、この福音宣教の事業を推進してくださいますように。皆さんの才能や能力をフルに発揮し、社会のパン種として、公的および私的生活のあらゆるレベルで人間の超越的な目的に関する真理を言葉と行いで宣言してください。創立者の教えに従って、キリスト教的生活の充満と愛徳の完成への普遍的な召し出しに寛大な心で応えてください。そして、より人間的な生き方を、そして、より正義に適った公平な社会の基礎を築いてください」(同上、1992年5月18日と19日、p.6)。

一年後、ヨハネ・パウロ二世教皇は、次のように言われました。「オプス・デイ創立以来、65年の間に、属人区は司祭と信徒が決して分かつことのない一致を保ち、キリストの救いのメッセージを全生活のいたる所に鳴り響かせることに大きく貢献しました。この使徒職のこだまは、普遍教会の牧者である私にまで届いています。オプス・デイ属人区の信者の皆さんが、常に創立者を鼓舞した教会に仕える精神を忠実に保ち続けるよう、励ましたと思います」(『オッセルバトーレ・ロマーノ』1993年10月27日、英語版、43)。

第5章 家族の精神

家族としてのオプス・デイ

地上で過ごされた全生涯を通して、イエスは愛の大切さを強調なさいました。事実、自分の弟子であることの印は、互いに愛し合うことである(ヨハネ13,35参照)、と主はお教えになりました。キリスト者がお互いに愛し合うことは家族的な側面です。主が明らかにおっしゃったように、私達はキリストにおいて兄弟であり姉妹(ヨハネ13,35参照)だからです。神の子であることを生き生きと自覚することが、オプス・デイの信者の霊的生活の支えとなり、命を与える源ですから、信仰における兄弟姉妹、何よりも同じ召し出しを持つ人たちとしっかりと一致していたいと思うのは当然です。

オプス・デイの信者の霊的超自然的絆は、何にもまして祈りと犠牲の行いに表れます。その上、オプス・デイの信者は良いキリスト者の家族が有する自然の愛情と相互の心遣いを深めます。

オプス・デイの草創期、創立者は最初のメンバーを母親の家に集めていました、やがてそこは、家庭の特徴である、互いに心遣いを示し合う温かく明るい雰囲気のある場になりました。オプス・デイが成長するにつれて、エスクリバー家での集まりができなくなりましたが、聖ホセマリアと最初のメンバーたちは、同じように朗らかで暖かい家庭の雰囲気をセンターで作り上げました。

オプス・デイのメンバーを一致させ、そのセンターの生活を特徴づける家庭の雰囲気は、見る人に強い印象を与えることがしばしばあります。聖ホセマリアの帰天直後、1940年代の初頭に聴罪司祭であったホセ・マリア・ラ・イゲラ(バレンシア司教)は、オプス・デイのメンバーではありませんでしたが、初期のセンターの一つを訪問したことについて次のように書きました。「センターに足を踏み入れたとたん、私は、家族の雰囲気を共に味わうことができる喜びを感じました。とりわけ、私への信頼と親しさを持ってどの信者の方も接して下さり、とてもうれしく思いました。そのセンターに住んでいる何人かの若い青年たちとの出会いが心に残りました。そして、皆に共通していた特長は快活さでした。それは寛大な献身と犠牲を恐れて逃げ腰になるどころか、喜んで仕えたいという心意気から生まれる魅力的で素晴らしい徳です」(『神の人への証言』セプタープレス、1992年、パート1、p.21)。

オプス・デイのセンターでの家族生活:ヌメラリーとその血縁の家族との関係

オプス・デイの信者は誰でもこの家族の精神を持っていますが、とりわけヌメラリーが生きている家族の精神に目に留めてみましょう。最初の形成が終了すると、所属時に住んでいた所がどこであったとしても、ほとんどのヌメラリーはオプス・デイのセンターで家族として共に暮らします。両親の家で家族と過ごしていたように、センターで他のヌメラリーと新たな家族生活をするのです。この新しい家族を築くことは、ヌメラリーの親たちが、かつて結婚の際に両親と別れて自分たちの新しい家庭を創り上げたのとまったく同じことと言えるでしょう。

ヌメラリーは、オプス・デイの信者の間で家族の愛情に満ちた場をつくるようにという神の呼びかけに応えます。例えば、毎日夕食を共にし、一緒に楽しく語り合える時間を過ごすなど、家族としての愛情を育むのです。誕生日やオプス・デイの歴史の中で大切な記念日、そしてしっかりした絆で結ばれた信者の家族の人たちと同じように、それぞれの国の祭日や宗教上の祭日を祝います。

ヌメラリーは充実した日々を送っています。他の信者と同じように、オプス・デイに所属する前にしていたのと同じ勉強、あるいは仕事に引き続き従事しています。その上、自らの内的生活を向上させ、キリストと教会の教えを人々に伝えることができるよう、時間を割いて哲学と神学を勉強しています。毎日のミサ、念祷の時間、ロザリオと霊的読書などで、しっかりとした霊的生活を自ら望んで送っています。そして、親戚や友人、同僚との仲のよい付き合いを保ち、大切にしているのです。

ヌメラリーが自分の両親や兄弟姉妹の家庭を訪ねて時間を共に過ごすのは当然のことです。しかし、結婚している若い夫婦によくあるように、ときには、感謝祭とか記念日あるいは誕生日のお祝いに両親の家に帰ることができないこともあるでしょう。これは、家族との愛情の絆が切れたということではなく、子どもたちが成長するときまって起こるように、単に新たな責任に応えているということです。

聖ホセマリアは、第四戒を「十戒のなかの最も甘美な掟である」と、繰り返し教えていました。そして、オプス・デイの信者は、オプス・デイに所属した後、両親を以前より更にいっそう心を込めて尊敬し敬い愛すべきだと強く教えていました。時が経つと、オプス・デイの信者の両親は、自分の息子や娘の愛と愛情を受けているだけでなく、自分たちの子どものオプス・デイにおける多くの兄弟姉妹を新たに得て、その愛情が自分たちに注がれていることにも気がつきます。自分の子どもたちの召し出しを通して、親自身がオプス・デイへの召し出しを受けることもしばしば起こります。

ジョン・F・カバデイル