属人区長の説教:主の新しい掟

主の受難に関するオプス・デイ属人区長の説教:「新しい掟」は「家の中でも、毎日、多くの小さな愛の行為において実行できます」

フェルナンド・オカリス師の説教:主の新しい掟

オーディオ(スペイン語 10分)

(前の説教のリンク:最後の晩餐で一つになる)

日本語の訳

最後の晩餐においてイエスは新しい掟を私たちにお与えになりました。「私があなたたちを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15、12)。そして、弟子たちと私たち一人ひとりの記憶にしっかり刻まれるようにと、使徒たちの足をお洗いになりました。

聖ヨハネは、その第一の手紙で「私たちが愛を悟ったのは、イエスが私たちのために命を捨ててくださったからです。それ故、私たちも兄弟のために、命を捨てなければなりません」と書いています(1ヨハネ3,16)。

命を与えるには多くの方法があります。家族の両親は、子ども一人ひとりを心を込めて世話をするとき。仕事人は、自分の儲けへの貪欲に引きずられるままにせず、周囲の人々の状況を考え、奉仕の精神で働くとき。司祭は、キリストを求めてやってくるすべての男女の世話に無私の心であたるとき、自分の命を与えているのです。

今日、私たちは大勢の感染患者のために命の危険も顧みず働いている医療関係者を初めとし、多くの人々が隣人のために自分の命を捧げている姿を目の前にしています。彼らは、各患者とその家族(多くの場合、患者に付き添うことが出来ない)の苦しみを背負っています。自分の義務を果たすことだけで満足せず、多くの人々の命が自分たちの寛大な仕事にかかっていることを承知して働いています。同じ事が他の無数の人々に言えます。彼らは、おそらく誰にも気づかれることなく、不可欠の仕事に従事し、社会が機能不全に陥らないよう必死に協力しています。流通業者、スーパーマーケットのレジ係の人、薬局の店員、警察官などなど。

苦しみと正面から相対している人々、すなわち医者、看護師、あらゆる種類の医療関係者、そして言うまでもなく司祭たち、彼らは病気や恐れや孤独の苦しみの中にある人々に付き添うキリストを様々な形で示しています。彼ら皆のために祈りましょう。彼らが疲れているときあるいは状況を克服したとき、イエスが彼らを強めていることを思い出しますように。

私たちも皆、何らかの形で協力することができます。例えば、病人や、独りでいる友達や知人にメッセージを送ることによって。私たち皆、当局によって許可されている方法で高齢者や弱い立場にある人たちを助けるために創意工夫して実行に移すことが出来ます。

しかし、私たちは、主の新しい掟を日々無数の小さな愛の行為において実行します。それは家族や周囲の人々に平和と喜びをもたらすものです。聖ホセマリアは、「愛徳は与えることよりも、理解することにある」と言われました。

この掟を生き生きとさせ、私たちの生活の一部にするもう一つの方法は、赦すこと、弁護すること、隣人に心から関心をもつこと、日々の生活の中での奉仕の小さな行い、家族生活で忍耐を持つこと、それすなわち多くの人の現状では、自宅待機の状態で落ち着きを保って生きることです。

今日では次のことがとてもはっきりしています。つまり、仕事はなによりも奉仕であること、愛によって仕事がより完全な意味を持つこと、です。社会が正常に機能するためには、たとえ自己犠牲が要求されても、自分の能力や努力や仕事を他者のために提供しようとする人が必要です。

最後の晩餐においてイエスは、世の終わりまでの間ご自分の弟子になるであろう人々皆が一つになるように御父に願われました。「どうか、すべてのものを一つにしてください。父よ、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしをお遣わしになったことを、世が信じるようになるためです」(ヨハネ17,21)。

「彼らが一つになるように」。この一致は人間的に綺麗に組織された団体の一致だけでなく、神の愛が与える一致です。「父よ、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように」。この意味で初代のキリスト信者は紛れもない模範です。『使徒言行録』は「信じた人々の群れは心と魂を一つにしていた」(使徒4,32)と語っています。

イエスが私たちに求められる一致は、愛の結果であることから、画一性ではなく交わりです。それは多様性の中の一致で、異なる人々と共生し、各自が豊かになるのを見る喜び、無条件に、あるがままの隣人を愛しながら、周囲に愛の雰囲気を広める喜びに現れる一致です。

イエスは、「あなたがわたしをお遣わしになったことを、世が信じるようになるためです」と言われ、この一致が福音宣教、使徒職において豊かな実りをもたらすための条件であることも示されました。この一致は閉鎖的なグループを作るものではなく、福音宣教という素晴らしい使命を果たしながら、私たちの友情を全ての人々に提供するよう私たちの心を開かせる一致です。キリスト教徒の召命は、それを完全に生きようとするなら、イエスを私たちの友人や同僚 ―もうすでにイエスの近くにいる人もいない人も―、に近づけることになります。

「父よ、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように」(ヨハネ17、21)。主が私たちにこの一致という賜をくださり、互いの奉仕の業の中でそれを生きることを助けてくださいますように。