52.ミラノ勅令

四世紀の初め、再びキリスト教徒は激しく迫害されました。皇帝ディオクレティアヌスはガレリウスと共に303年に「大迫害」として知られている弾圧を行います。

それは、キリスト教が広がることで国家の統一が危機にさらされると考えた皇帝が、その統一を回復する目的で行ったものでした。この弾圧で命じられた事柄は、たとえば:キリスト教の教会を取り壊すこと、聖書を焼き捨てること、教会の権威者たちを殺害すること、キリスト教徒を公職から追放し市民権を剥奪すること、神々に生贄を捧げなければ死刑に処すること、などでした。キリスト教徒を根こそぎにするための方策が巧くいかなかったので、ガレリウスは寛容と政治的な都合を考えて、311年4月30日に寛容令を発布します。これにより、キリスト教に対する弾圧は終了し、キリスト教徒の法的な存在が認知され、集会を開く自由や教会を建設する自由が認められました。

そうこうしているうちに、コンスタンティヌスは西方の皇帝に選ばれました。312年にマクセンティウスを打ち破り、翌年2月にミラノで東方皇帝のリキニウスと会見しました。二人は、様々な事柄を協議しますが、その中で、キリスト教徒の取り扱いについても話し合いました。そして、キリスト教に有利な法令を発布することで合意しました。この会談の結果は「ミラノ勅令」として知られるものですが、二人の皇帝がミラノで発布した勅令は存在しなかったと考えられています。ミラノで合意した内容は、リキニウスが帝国の東方で発布した勅令で知ることが出来ます。我々が手にすることが出来る文献は、皇帝が313年にローマ帝国属州の総督宛に送った書簡です。これについて、カイサリアのエウセビウス(『古代教会史』10,5)とラクタンティウス(『迫害者たちの死』48)が、それぞれ取り上げています。この勅令の最初の部分では、全市民の信仰の自由を規定し、結果としてキリスト教徒もこの自由を享受する権利が明確に認められています。その勅令は、キリスト教のみならず、他のいかなる宗教をも実践することを認めました。勅令の二番目の部分では、かつてキリスト教徒の集会所や礼拝所であった場所、および、迫害中にローマ帝国の行政機関により没収され個人に売却されたキリスト教徒の他の資産を返還することが規定されました。
勅令はキリスト教に特別な地位を与えるどころか、あらゆる宗教の好意を得ようとしていたように思えます。コンスタンティヌスはキリスト教を優遇しながらも、一時期「不敗の太陽神」信仰を続けていました。いずれにしても、異教信仰は帝国の正式な宗教ではなくなり、勅令はキリスト教徒が他の市民と同等の権利を享受できることを認めました。この時以降、教会は合法的な宗教となり、帝国からの法的な承認を得て、キリスト教興隆の道が開かれたのです。