徳の涵養による性格形成

キリスト教的な意味で成熟した人とは、自分の人生を自分で作り上げるため、神に何がまだ足らないかを心から尋ねる人のことです。そのときから、闘いは始まります。自分の努力で、そして主の助けを受けながら、徳を獲得するのです。

子育て
Opus Dei - 徳の涵養による性格形成

 「イエスが外に出ようとされると、ある人が走りより、イエスの前にひざまずいて尋ねた。『善い先生、永遠の命を受け継ぐためには、何をすればよいのでしょうか』」(マルコ10, 17)。わたしたちも主の弟子として使徒たちとともにその場にいたなら、主の答えに驚いたかも知れません。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに善い者はいない」(マルコ10, 18)。イエスは質問に直接答えることを避けるかのようです。少し神妙な教え方で、あの青年が感じていた気高い望みの底にある究極の意味に注意を向けさせます。「イエスは、その青年の質問が実に宗教的な質問であり、人間を引きつけると同時に人間に義務を負わせる善は、神に源を発し、まさに神自身であることを示されます。神だけが、『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして』(マタイ22, 37)愛されるにふさわしい方なのです」(聖ヨハネ・パウロ2世、『真理の輝き』9)。

永遠の生命に入るために

 主はすぐにあの大胆な質問に戻り、しなければならないことを教えられます。「もし命に入りたいなら、掟を守りなさい」(マタイ19, 17)と。福音書によれば、あの青年は信心深いユダヤ人でしたので、この答えに満足して帰って行ってもおかしくなかったでしょう。先生は彼が小さいときから守ってきた掟を答えとして示され、彼の確信にお墨付きを与えられたわけですから。しかし、青年は権威をもって教えられる新進気鋭のラビの口から聞きたいと思いました。この方なら思いも寄らぬ展望を見せて下さるだろうと直感的に見抜いていました。そして尋ねます。「どの掟を」(マタイ、19、18)と。イエスは隣人に対する義務を列挙されます。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証してはならない。父母を敬いなさい。また、臨時を自分のように愛しなさい」(マタイ19, 18-19)。それらは、いわゆる十戒の第二の板に書かれた掟で、「その善を守ることによって、神の似姿である人間の善」(『真理の輝き』13)を守るものです。聖アウグスティヌスによれば、それらは第一段階というべきもの、つまり真の自由という目的地に向かう道であって、完全な自由を構成するものではありません。別の言い方をすれば、それらは愛の道における初期の段階ですが、まだ成熟し完成された愛ではないのです。

まだ何が足りませんか。

 青年はこれらの掟を知り守っていました。しかし、心の中でまだ何かできることがあると感じていました。イエスはその心をお読みになります。「イエスは彼を見つめ、愛情を込めて」(マルコ10, 21)、挑発的な言葉を投げかけられました。「あなたに欠けていることが一つある。行って、持っているものをことごとく売り、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を蓄えることになる」(同)と。イエス・キリストは、青年の心中に隠れていたよい人間になりたいという気高い望みを彼の前にお現しになりました。青年が先生の要求をどこまで理解したかはわかりませんが、「まだ何が足りませんか」という質問をを見ると、するべきことがまだ他にあると薄々気づいていたと思われます。彼はよい心構えを持っていました。ただ、神の掟にはもっと深い意味があることには気づいていなかったかもしれません。

 神がわたしたちに望まれる生活とは、ただよい業をすることにあるのではなく、良い人、徳のある人になることにあるのです。聖ホセマリアが正しく言っていたように、「並の善い人」になるのではなく、イエスがわたしたちの目の前に示されるこの上ない展望 ―「ただお一人の善い方」(マタイ19, 17)- に見合った善い人になることなのです。

 キリスト教的意味で成熟した人とは、自分の人生を自分で作り上げるため、神に何がまだ足らないかを心から尋ねる人のことです。ただ掟さえ守っていればよいという気楽な態度から抜け出し、個人的な欠点を持ちながらもイエスに付き従うことが大切さだということを発見する人です。そうするならば、イエスの教えによってわたしたちの価値観は一変するでしょう。以前は臆病でちっぽけだった心は、神が与えて下さった自由によって大きく広がるように感じるでしょう。「わたしはあなたの戒めの道を走ります、あなたはわたしの心を広くしてくださいました。」(詩編118(119)32)。

人格形成という挑戦

 青年は「足りないこと」が、ただ掟を守る人が閉じこもる安楽な住処を出て、神と人々のため自分の人生を捧げることであるとは予想していませんでした。そして悲しそうに去って行きます。この悲しみは、突然現れた神に自分を任せる代わりに、自分の考えにしがみついて生きようとする人にはいつも起こることです。神は、神の自由をもって生きるように人間をお呼びになりますー「キリストはわたしたちが自由であるようにと、私たちを自由にしてくださったのです」(ガラテヤ5, 1)。そして、つまるところ、わたしたちの心はそれに達しない中途半端な態度には満足できないのです。

 成熟するとは高い理想に従った生き方を学ぶことです。若干の掟を知ることとか、他人に迷惑をかけない生活をすることとかで満足することではありません。善い人、つまり聖人になろうと決意するとは、キリストと一致し、キリストが提示する生き方のすばらしさを発見することです。ですから、道徳の掟が何のためかを知ることが求められます。それらの掟は、どんな善を希求しなければならないか、完全な人格に達するためにはどのように生きる必要があるかを教えてくれるからです。この目標が達成できるために、キリスト教的な諸徳を自分のものとすることが必要なのです。

人格形成を支える柱

 道徳の掟を知ると言うことは、抽象的な論理を展開することでも、または技術を身につけることでもありません。良心を形成するには堅固な性格を育てることが要求されまが、その堅固な性格を支える柱のようなものが徳なのです。徳は人格の土台を作り、安定させ、平衡を保たせます。わたしたちが自己中心主義から出て、外の世界、つまり神と隣人に心を向かわせるように導きます。徳のある人は、困難を克服できる人、何事にも中庸を保つ人、正しく、高潔で、一本筋が通った人です。反対に、徳のない人は、壮大なプロジェクトを志すことも、大きな理想を実現することもなかなかできません。その生き方は、場当たり的で絶えず左右にぶれ、他人から信頼を得ることも、自分自身を信頼することも難しい。

 徳を涵養するなら、人はより自由になります。徳とは、慣れや惰性とはまったく異なるものです。言うまでもないことですが、よい習性、つまり徳がわたしたちに根付き、よい行いをより容易にできるようになるためには、一度だけよい行いをすれば足りるわけではありません。何度も続けて同じ行為を繰り返すことによって、それらの習性が身についていくのです。つまり、善いことをしながら善い人間になるのです。たとえば、決まった時間に勉強を始めるという決心を繰り返し実行するなら、二度目は一度目よりも、三度目は二度目よりもより簡単にできるようになります。そうは言っても、勉強をするという習性を維持するためにはその決心に踏みとどまらねばなりません。でなければ、その習性は早晩失わるでしょう。

心を新たにする

 人間徳も超自然徳も、わたしたちを善に、すなわち人の望みを満たしてくれるものに向けてくれます。わたしたちが本当の幸せ、すなわち神との一致に到達するように助けてくれるのです。「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたを知り、また、あなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17, 3)。徳を持てば、道徳的掟に従って生きることが簡単になります。なぜなら、掟を守るべき規則としてだけ見るのではなく、キリスト教的完成に導く道として見るからです。キリスト教的完成とは至福八端を生きることによってイエス・キリストと一致することですが、至福八端とはイエスの生き方そのもので、「生活における基本的な態度と心構えについて語っています」(『真理の輝き』16)。それは人を永遠の命に導くものです。

 こうなると、聖パウロの次の言葉のように、キリスト教生活に成長する道が開かれます。「心を新たにして、生まれ変わり、何が神のみ旨が、すなわち、何が善であり、神に喜ばれ、また完全なことであるかを弁えるようになりなさい」(ローマ12, 2)。恩寵によって、わたしたちは様々な出来事を今までとは違った仕方で判断し行動するための基準を持つようになります。物事を、道徳法にも現れる神の御旨に照らして見ることを学び、そうして徐々に聖なる生活を愛し、善いもの、心地よく完全なものを愛するようになります。こうして、キリスト教的意味での道徳的かつ情緒的成熟に達し、その結果、真に高貴で、真実で、正しく美しいものを評価し、神の子の尊厳を損なう罪を斥けるのが容易になります。

 この道を歩むと、聖ホセマリアが言っていた「分別の人」(聖ホセマリア、『道』、「著者より」)ができあがります。しかし、この分別とはどういうものでしょうか。聖ホセマリアはこう付け加えています。「分別は成熟さ、確信の揺るぎなさ、教えについての十分な知識、精神の細やかさ、強い意志を含みます」(『Conversaciones』93)と。この言葉は、あるべきキリスト教的人格者の姿を見事に描いていると言えるでしょう。それは、自由に決定を下し、その決心を自分のものとする、すなわち、自分の下した決定に責任を持つことができる成熟した人のことです。形成の手段や、読書や反省を通じて、また特に「人生のまことの星と言える、正しく生きることのできた人々」(ベネディクト16世、『希望による救い』49)の模範によって得た、キリスト教の教えの深い知識に裏打ちされたしっかりした確信を持つ人です。これらの特徴は、隣人に対する優しさに現れる精神の繊細さと、有徳の生活に現れる強い意志と連動します。それゆえ、分別の人は、様々な状況の中で、神は私に何をお望みだろうかと自問することができます。聖霊に光を頼み、身につけた原則を見直し、自分に助言を与えることのできる人に助けを求め、首尾一貫した行動をとることができるのです。

愛の実り

 このように考えると、正しい道徳生活とは -徳によって掟を生きることに具体化される- 善を求め善に成長するようにさせる愛の実りであると言えます。このような愛は、その本性上、流されやすく不確かな感情を超えます。つまり、愛はその時々にしたいことや各瞬間の気分に左右されません。愛するということは、むしろ自己を与えることを前提とします。神に愛されていることを知り、自由を賭けるねうちがある大きな理想のために、喜んで自分を捧げるのです。「自由に献身し、自分をささげるとき、その自由な行為は愛を新たにします。そして献身を新たにするとは、若さと寛大さを失わず、大きな理想をもちつづけ、大きな犠牲を払う力を維持することです」(聖ホセマリア、『神の朋友』31)。

 キリスト教的な完成とは、いくらかの掟を守ることや、自己抑制ができる人や効果的な仕事ができる人になるというような部分的な才能を伸ばすことに限られることではありません。むしろ、神に自己の自由を捧げること、「来て、私に従いなさい」という招きに神の助けによって応えるように後押しします。愛に動かされ聖霊に従って生き、隣人に仕えたいと望み、神の掟とは、自分が進んで選んだこの愛を生きるためのこれ以上ない道であることを理解することです。いくらかの規則を守ることではなく、イエスについて行くこと、つまり御父の御旨に喜んで従いながら、イエスと人生を共有することです。

完全主義者とは異なる

 徳において成熟しようと努力することは、自分に陶酔するナルシスト的な態度とは似ても似つかぬものです。わたしたちは父なる神への愛のために努力します。わたしたちが見つめるのは、自分自身ではなく、神です。そのため、完全主義への傾向をきっぱりと拒む必要があります。その誤った傾向に陥るのは、内的な戦いを効果や精緻さや成果といった基準だけで計るときです。それらの基準は、仕事の世界でよくもてはやされているにしても、キリスト教的道徳生活をゆがめてしまうものです。聖性とは何よりも神を愛することにあるからです。

実際、成熟した人は、わたしたち自身と隣人のなかに見られる否定できない限界と、よく働きたいという望みを適切に調和させます。時に聖パウロとともにこう叫びたくなるときがあるでしょう。「わたしは自分の行っていることが分かりません。なぜなら、自分が望んでいることはせず、かえって憎んでいることをしているからです。(…)わたしは何とみじめな人間でしょう。死に定められたこの体から、誰がわたしを救い出してくださるでしょうか」(ローマ7, 15.24)。たとえそのような状況に陥っても平和を失うことはないでしょう。なぜなら、神が、聖パウロに対してと同じようにわたしたちにも「お前はわたしの恵みで十分だ」(2コリント12, 9)と仰るからです。そうなると、わたしたちは感謝と希望に満たされます。わたしたちが自分の限界を見ることによって改心し、主に寄りすがろうとするなら、主はそのネガティヴな面も利用されるからです。

 ここで再び、イエスが青年に言われた「善い方はただおひとりである」(マタイ19, 17)ということに寄る辺を見つけます。神の子らは善いお方に助けられて生きている。神がわたしたちに力を下さり、本当に価値のあるものに全人生を向けさせ、何が善いもので、何を愛すべきかを理解させて下さり、神から受けた使命を果たすために自分を捧げることを可能にして下さるのです。